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「手を組むと言っても、今日は君の出番はなしだ。君は僕の指示に従うだけでいい。
だが、この後すぐに判明する不審者の正体が、誰であっても、一瞬たりとも気を緩めるな。
僕とその不審者がどんなに大胆な言動を取ったとしても、君は気にせずただ屋上から脱出することだけを考えるんだ。君がドアに向かって走り出すタイミングは僕が合図で教える。合図は……紗夜。君の名前だよ」
さやという、いつもの平仮名呼びではない。漢字呼びだった。
平仮名呼びをした場合は、それは合図ではなく、ただ名前を呼んだだけということになりそうだ。
「合図を出すまでは、こちらが存在に気づいていることを不審者に気取られないようにするため、僕に合わせて普段通り会話すること。
一通り話し終えた直後、ハグの感想を聞くつもりだ。君は率直な感想を教えてくれたらそれでいい。……いいね?」
──いいわけあるかよ。歳桃。それは本当に最善の作戦指示か?
テメェらしくねぇし、さすがに過保護すぎやしないか?
私がその不審者をぶっ飛ばして終わりじゃ駄目なのだろうか。
たとえ不審者が、毒鉄砲やナイフを所持していようが、殺傷能力の高い武器を所持した屈強な大男だろうが。私なら余裕で撃退できる自信がある。
そんなことをわざわざ言わずとも歳桃なら分かっているはずだ。
だのに、何故私を使わない?
私を一人だけ脱出させるなんざ、不審者を倒すことができる最強のカードを自発的に手放すみたいなもんだ。
歳桃のことだから、何か考えがあるに違いないが。
歳桃という人間が、〝ここは僕に任せて君は逃げろ〟という台詞を言うような、自己犠牲タイプのヒーローなんかじゃないのは言わずもがな。
わざと敵前逃亡をさせる。不審者が後方から私を攻撃した際、気づいていながら意図的に伝えず、私の背中に逃げ傷を作ることが魂胆だったりして。
正直、逃亡指示には納得しかねるが、指示を信用して従おうと思う。
切れ者である歳桃が指示を間違えるなんてことはあり得ないからだ。
それに、歳桃は私が守ってやらなきゃいけないほど弱くはない。一人でも脱出できる。
万に一つの確率で、不審者が襲いかかり、歳桃が脱出するのが困難な状況に陥っていたら。その時には、屋上に戻り、不審者をぶっ飛ばして二人で脱出すればいい。
指示を無視すれば間違いなく怒られるだろうが、人の命より大事なものはない。
指示はもう済ませたのだし、すぐに解くだろうという私の予想に反して、一向にハグを解く気配を感じない。
不審者の次なる攻撃を警戒しているのかもしれない。
解かれるのを待つまでの間、徐々に桃の香りに溺れてゆく。いい匂いだ。今まで出会った香りの中で一番好きだ。
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