1.桃の香りを嗅ぎ、梨の皮に目印をつける

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 頭が混乱する。目の前で行われたことなのに、何が行われたのかてんで分からない。  と、ある記憶がとてもタイミングよく蘇り、それが私に解答を教えてくれた。 『君の手の甲に口付けして、夕寝するのに最適な場所までエスコートする』  歳桃がハグしている最中に言った発言だ。正答だと思われる。  口付け? これってつまり、歳桃が私の手の甲に口付けしてきたことでいいんだよな? 「ほんとうに何も感じなかったかい?」  歳桃が大事なことを再確認するように尋ねた。  瑞姫のためだ。真剣に考えてみた。  歳桃の唇の柔らかい感触と温もりがやけに残っていて、嫌な動悸がする。  事前の打ち合わせにないアドリブをかましてきやがった歳桃、に対する怒りで顔や体中がかっかしているだけだ。  何も感じなかったし、今も特に何も感じていない。 「……ああ」 「ゼロドキゼロキュン? 僕のことを異性として意識するきっかけにもならなかった?」 「ゼロドキゼロキュンだ。なるわけがねぇ」 「ふーん、そっか……」  私の返答を聞いた歳桃はにっこりと笑った。  ただ、その瞳は全くもって笑っていないだけではなく、闇しか感じないほど底なしに暗い。 「確かに言質は取ったからね。もし、君が嘘を吐いていたり、今後僕のことを好きになった場合には、問答無用で死んでもらうからね。君が死ねば、瑞姫が心配になることは一生ない」 「嘘なんか吐くメリットねェし、好きになることはない」 「そう」  歳桃は短く相槌を打つなり、珍しく腕組みをした。 「なら安心だ」 「そうだ。安心だ。死ぬ心配はねぇし、大体テメェのお望み通り死んでたまるか」  歳桃がポンと手を合わせた。 「それじゃあ確認も済んだし。痺れを切らしてついつい様子を見にきてしまった瑞姫を。本物のプリンセスをお迎えに上がろうかな」  私の死んでたまるか発言はシカトかよ。  歳桃は一切迷いのない動作でドア前にスタンバった。  やはり、敵前逃亡しろという愚かな指示を変更して、二人で瑞姫を迎え撃つつもりだな。  よし。私も立ち上がって歳桃の隣に立ち、戦闘態勢を整えて瑞姫を待ち構える。 「あっ、君は下がって」  歳桃が僅かに眉を下げ、私に向かってしっしっと追い払うような仕草をした。  何だよ。ここは共闘の流れじゃないのか?  歳桃に目配せするが、うまく伝わった気配はない。 「ドアを開けた瞬間、瑞姫の視界に入っているのは僕だけじゃなくちゃあいけない。偽物プリンセスの君は引っ込んでてくれるかい?」  チッ、と私は思わず舌打ちする。  勝手にドッキリ始めてプリンセス呼びしてきたのはテメェの方だ。  だから偽物プリンセスはさすがに酷ェ呼称じゃねぇか?  私は私がプリンセスって柄じゃねぇことは分かってるし、分かってることを人から言われたらもっとムカつくんだよ。  そもそも、性格が王子様じゃないテメェにだけは言われたかねぇ。  喉まで出かかった反論の全てを、瑞姫のために我慢して飲み込んだ。  もうすぐ結ばれるって時に、水を差すような発言は避けたい。
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