2008年 5月12日 月曜日 午前8時08分/伊原舜介

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2008年 5月12日 月曜日 午前8時08分/伊原舜介

 そうそう! このままこのペースを維持すれば、次の信号も青で抜けられる。 誰も邪魔すんじゃねーぞー! この信号さえ抜ければあとはスイスイ・・・・!   え?   なにーっ!   なんでお前出てくんだよ!   危ないっ!   があーーーーっ!   伊原舜介(しゅんすけ)は、白のクラウンが突然左の路地から出てきたのを見た。次に急ブレーキをかけたが間に合わずにクラウンの運転席側に自分のバイクが突っ込み、自分の身体が飛ばされる瞬間に、運転席側のガラスが真っ黒で、内部がまったく見えないのも見た。そしてヘルメットが運転席の上部にガンッと当たった衝撃にびっくりしていると、とても信じられないことだが、そのまま身体がひっくり返ってクラウンを飛び越えて・・・・。  伊原舜介が覚えているのはそこまでだった。あとは気持ちよく浮遊する闇の中だ。快適なのか不快なのか・・・・、時間が進んでいるのか戻っているのか・・・・、それとも停まっているのか・・・・。  そんな彼の意識が戻ったのは、なんの飾り気もない灰色の部屋だった。  ベッドに寝かされているようだ。両手がベッドに固定されている。両足もだ。少しも動かない。そして自分が事故に遭ったことを思い出し、固定された両手と両足の指先を動かしてみて、怪我をしていないかどうかを確認した。  ――どこも問題はないようだ。  腰も普通に動く。  怪我はしなかったのか?   頭は固定されていなかったので、首が動く範囲で部屋を見渡してみた。  天井から細い金属で吊下げられたカーテンレールが見える。だが、そこにあるはずのカーテンは一枚もなかった。窓もそうだ。無理に剥がそうとして曲がってしまったようなカーテンレールはあるのだが、カーテンは一枚もない。  ――病院か?   四人分のベッドが所定の位置に置かれていたが、どのベッドもマットレスが外されて壁に立てかけられていた。どれもずいぶんと永い間使用していたのか、色も形もさまざまな染みがいっぱいついていた。オーストラリア大陸とか、羊が柵を飛び越えようとしている模様とか。ちょっと形がいびつになったハート形なんかは何個もあった。 「おいっ! ここはどこだ! 出てきやがれーっ!」  廊下の方から、男が叫んでいる声が聞こえる。  伊原も同じように叫びたかったから、自分と同じような境遇の男は少なくとももう一人いるんだ、と考えていた。  手を見てみる。手錠だ。頑丈そうにできていて、とても腕の力だけで外れそうにない。足首はシーツに隠れていて見えないが、動かすと金属音がするから、おそらく同じ手錠で固定されているのだろう。 「おーい! 返事をしねーか! おーーいっ!」  その時、どこかでドアが開く音が聞こえたかと思うと、ようやく男が静かになった。  話し声は聞こえない。よく耳を澄ましてみたが、建物の軋みひとつ聞こえてこなかった。そういえば車の騒音とかの生活音がなにも聞こえてこない。小鳥もだ。なにも音がしない。  窓からはすっきりとした青い空が見えていた。  たしか今日は一日中五月らしい快晴だって、朝の天気予報で言ってたんだっけ――。 「おいおい! どこ行くんだ! オイったら! なんか答えろよっ!」と先ほどの男の声が聞こえる。さっきよりも声が明瞭になったから、廊下に連れだされたのだろう。  伊原は身体を硬くして、その男の声を聞いていた。 「おい、コラ、放せよ!」 「・・・・」 「おい、返事しろよ! コラッ!、あ、痛ててててっ!」 「・・・・」  そうやって男の声が遠ざかっていった。  さほど待つまでもなく、伊原の部屋の扉も開いた。だが、すぐには入ってこない。開けたドアから顔だけを突っ込んで、伊原が起きているのかどうかを確認しているようだった。その顔だけでもわかるぐらいに、男は痩せぎすだった。触れると指先を切ってしまいそうなぐらいに頬がこけている。痩せている分、眼が異様に大きく見えた。  薬物を、それも強烈な覚せい剤をやっているような眼だ、と伊原は冷静に観察していた。すべてに対して疑心暗鬼になっていて、人の意見にはまったく聞く耳を持たずに、始終ハアハアと荒い息を吐きながらヤクを探しているような眼だ。いまの彼には部屋の隅にたまったですらヤクに見えるだろう。純度はちょっと落ちるかもしれないが、弱い風で吹き寄せられたヤクじゃないかと、そう思っているような眼だった。  その眼がじっと、探るように伊原を見ている。その眼も、『もしかしてこいつはヤクを隠し持ってんじゃねえのか・・・・』と疑っているような眼だった。  ヤク中の男は、伊原が眼を覚ましているのを確認すると、部屋に入ってきた。ピカピカに磨きこまれたくどいピンク色のエナメル靴を履いている。そんな派手な色をしたエナメル靴なんてこれまで見たことがなかった。いったい誰が買うことを想定して造られたのか想像もつかなかった。   スーツは黒、Yシャツも黒。そして細いネクタイはピンク色だった。  それでカラーコーディネイトのつもりなのか? と伊原は信じられない思いでその男をじっと見つめていた。  男は笑いもせずに、じっと伊原を見返してくる。普段ならかかわりたくない人種だったが、いまはそうも言っていられない。伊原はせめて視線では負けないようにと、力いっぱい男を睨み返していた。  その後ろから入ってきた肥った男は、白地に紺の太い縦じまのスーツを着ていた。地方のイベントの司会者だって着ないような代物だ。その肥った男が着ていても、まだダブダブだった。おそらくまだ肥ることを想定してのことなのだろう。そんなケチくさい顔をしていた。いまでもぶっといフランクフルトを頬張っているような頬をしている。  ヤク中の男がズボンに両手を突っ込んだまま伊原のベッドの足元に立ち、デブ男に顎で指示した。すると、デブ男が伊原の横に立つと、「イイか? ウゴクなよ」と確認した。  こいつ、日本人じゃないのか? 「一体、どうなってんだ?」と伊原は訊いてみたが、デブ男はなにも応えなかった。  肥った身体を丸めるようにして、小さな鍵を使って手錠を外そうとしていた。んふーっ、んふーっと、まだなにも運動していないのに、すでに鼻息が荒い。  そんなデブ男のようすを、苛立たしげに貧乏揺すりをしながら見下ろしているヤク中男。そんなに苛立つなら自分でやればいいものを、こういう雑用にはけっして手をださないという薄っぺらなプライドをもつ男。こんな二人と渡り合っても負ける気はまったくしなかったが、こういう類の男は必ずといっていいほどなんらかの武器を持っている。とくにヤク中男はそうだ。細身のジャックナイフを、それもドクロの装飾が施されたようなヤツを、内ポケットに隠し持っているに決まってる。男からはそんな余裕が見てとれた。  ようやく手錠を外したデブ男は、伊原にベッドの上に坐るように指示してから、手を強引に後ろに引っ張ってまた手錠をかけた。そして今度は足首の手錠に取りかかる。  さっきの男みたいに叫んで抗議してやろうかとも思ったが、それではなんの効力も得られないのがわかったので、いまはおとなしくしていた。ま、来る時が来たら、思いっきり暴れてやる、そう思っていた。  手錠を外したデブ男に立つように促されると、伊原はベッドの脇に立ち上がりながら、すぐに自分の服装を確認してみた。革ジャンを着ていたせいか、長袖のTシャツはどこも破れておらず、汚れてもいなかった。だが、やはりジーンズの右膝は擦れてひどく破れていた。ダメージジーンズだとしても、ちょっと格好の悪い破れ方だった。でも、幸いと言うべきか、身体はどこも怪我をしていないようだった。  さっと部屋を見回してみたが、革ジャンは見当たらなかった。  ヤク中が先に部屋をでた。デブ男に背中を押されるようにして伊原が従う。  廊下にでてみると薄暗かった。天井には古びた蛍光灯があったが、点いてはいなかった。非常口を示す表示板も消えている。そんなに大きな病院でもないし、そんなに古さも感じられない。だが、どこからも病院特有の薬臭いにおいはしてこなかった。廃院になってから2、3年ぐらい経っているということか。  ヤク中が院長室と書かれたドアの前で立ち止まってノックした。  そこのドアだけがチーク材だったせいか、そのノックの音は硬質で、とてもよく響いた。 「・・・・入れ」と部屋の中から年配の男の声がした。声だけで年配とわかるぐらい威厳のある声だ。  ヤク中がドアを開く。そこで一礼をする。そして横にしりぞく。デブ男に背中を押されるようにして伊原が部屋の中へはいる。  ダンプカーみたいに頑丈そうな机の向こう側に、丸い顔をした男が坐っていた。肥って丸いというのではなく、骨から丸いという感じだ。細い眼が笑っていない。その眼でじっと伊原を見ている。  その男もスーツを着ていた。見るからに高級そうな光沢のあるダークブラウンのスーツだ。クリーム色のYシャツも、上等なシルクでできているみたいにつやつやして見えた。そこに、よくアメリカ合衆国の大統領が、肝心な時の演説でするようなエンジ色のネクタイを締めている。少なくとも彼の格好だけはまともだった。  その男の前に、男が二人、木製の椅子に坐らされていた。二人とも後手に手錠をかけられている。伊原から見て左側の男が面倒臭そうにふり返って伊原を一瞬見ただけで、またすぐに丸顔の男に向き直った。  さっきから騒いでいたのはこの男だろう。一目でチンピラとわかる風貌だったからだ。髪は(いまは寝グセで乱れてはいるが)オールバックで、白いスーツに黒いシャツ、そして金色のネクタイ。まるで頭の弱いアニキの格好をそのまま真似たようなスタイルだった。それに、一生使いっ走りから抜け出せそうにない見せかけの威嚇と、俺になにかするとただじゃ済まさねーぞ、という安っぽいを男からびんびん感じる。だが、チンピラとして、その柔らかそうな白い肌は致命的だった。どんなに威嚇されても、どんなに脅されても、眼を細めて頬ずりしたくなるような肌だったのだ。  伊原から見て右側に坐っている男は、きちんとスーツを着こなした銀行員みたいな男だった。後手に手錠をかけられていても、少しも姿勢を崩さない。黒ぶち眼鏡の奥から丸い男にじっと眼を向けている。伊原が部屋に入ってきても、まったくふり向きもしなかった。 『私になにかすると、あとで絶対後悔することになりますよ』という無言の威圧が、その背中からでも充分に感じられる。チンピラよりもずっとたちが悪そうだった。  デブ男に促されて、伊原は一番左の椅子に坐った。チンピラの左横だ。椅子は全部で三脚だったので、伊原が最後のようだった。  丸顔の男が、黒ぶち、チンピラ、伊原と順番に見る。 「あんだよ! なに、もったいぶってんだよ! 一体ここはどこなんだ?」とチンピラが噛み付くように言った。  だが、丸顔の男は動じない。そのチンピラを見もしない。男が叫んでいる時は伊原を見ていた。正確には、伊原の鼻のあたりを見ていた。 「おい! 返事しろよ! ゴラァッ!」  その時、ヤク中の男がチンピラの横にきて、耳元でなにかを囁いた。すると、チンピラは驚いた顔をしてヤク中の男を見、次にそのまま丸顔の男を見た。途端に静かになった。 「ミナさんは――」と丸顔の男は言った。それだけも日本人じゃないことがわかった。  ――中国人か? 「ミナさんが――」と丸い男は言い直した。「ここに、連れてこられた、リユウを、いまからセツメイ、いたします」  そこまで話せたことに満足したようにほほ笑みながら、丸顔の男は三人をゆっくりと見渡した。 「私のナマエは、モウです。もちろん、下のナマエもありますが、日本人のミナさんには、憶えられないでしょう。モウで、結構デス。そして、あちらがシュウ(とヤク中の男を指す)、こちらがマー(とデブ男を指す)デス」  意外にも、チンピラは静かにモウの話を聞いていた。あのシュウが耳元でなにごとかを囁いて以来、それこそ借りてきた猫みたいにおとなしくなっていた。 「ナマエとは、おもしろいモノです。人類が、最初に憶えたのも、ナマエです。違いマスか?」と黒ぶち男に応えを求めたが、彼はまったく姿勢を崩すこともなく、ずっと黙ったままだった。  一瞬、モウは怖い顔になったが、すぐにそれを消し去ってまた話をつづけた。 「――で」とモウは言った。  そしてまたもったいぶるように、ひとりひとりの顔を眺めていった。 「早く言えよ」とうとう堪え切れなくなったのか、チンピラが文句を言った。でも、声質がすこしやさしくなっていた。 「まあ、そんなに急がなくても、時間はタップリ、あります。私にも、アナタにも――」とモウは『私にも』のところで自分の胸に手を当て、『アナタにも』のところで、伊原に向かって手を差し伸べた。  伊原はその手を無視して、モウの顔だけを睨みつけていた。 「トコロでミナさん、今日はナンニチだか、ご存知デスか?」  チンピラが伊原を見てきたのがわかったが、彼はそれを無視して、じっとモウを睨んでいた。  今日が何日? 五月十二日じゃねーのか? 「今日はゴガツの、十三日デス。わかりますか? ジュウサンニチ」  十三日?  伊原は大きく眼を見開いた。オレは一日中眠ってたのか? 「アラ? 驚いてマスねぇ」とモウは伊原を見て笑っていた。「知らなかったのデスか? イハラさん」  驚いてモウを見つめた。 「オレの名前を――、知ってるのか?」 「もちろん」といってモウは自信たっぷりに肯いた。「こちらがアンドーさん(と黒ぶちを指す)、こちらがキリヤマさん(とチンピラ)」 「けっ!」とチンピラが吐き捨てるように返事をした。「訳わかんねーけどよ、早く帰してくんねーかなぁ。聞けば、もう一週間も経ってんじゃねーか。一体どーなってんだ?」 「この一日で、アナタたちは、大切な手術を、ウケてもらいました」 「手術?」とチンピラ。「勝手にかよ!」 「そうです。勝手に、デス。許可もなく、デス」 「っざけんじゃねーぞ、オイ! いったいなんの権利があって・・・・」 「権利はアリません。でも、資格はアリます。その手術を行った人は、ちゃんとした脳外科医、デス」 「脳外科医?」と伊原が非難がましく叫ぶと、モウは伊原を見てゆっくりと肯いた。  話に食いついてきたことが嬉しそうだった。 「そうです。脳外科医、デス。脳の手術をしてくれるスペシャリスト、デス」そう言いながらまた三人をゆっくりと見渡していく。全員が食い入るように自分の話を聞いてくれていることに歓びを感じているみたいだった。  モウはもどかしいほどにゆっくりと深呼吸をしてから話をつづけた。 「アナタたちのここに――」とモウは椅子を半分回して、首の後ろ側を指した。「ブラックボックスが付けられているのを、ご存知でしたか?」  驚いて首に触れようとしてみたが、手が後ろで固定されていたので不可能だった。横のチンピラの首の後ろを見ると、髪の毛が長かったのでよくわからなかったが、確かに何かが付けられているのは見えた。  肥えたマーが近づいてきて、チンピラの首の後ろの髪の毛を掻きあげた。 「な、なんだよ。何がついてんだよー」とチンピラが伊原にむかって噛みつくように言った。「早く説明しろよ!」 「なんか、首の後ろにパソコンのキーみたいなのが付いてますよ。サイズはタブキーぐらいかな」と、その取り付けられた黒い箱状のものを見ながら説明した。 「パソコンの、なんだって?」とイラだたしげにチンピラが聞き返す。 「黒いマージャンパイみたいなものですよ。それが張りついてます」と伊原は言い直した。 「マージャンパイ?」チンピラは声を裏返して大きな声をだした。  伊原は、すっとんきような声というものを、生まれてはじめて聞いた気がした。 「なんじゃそれ?」とチンピラがモウを見る。  黒ぶちはそのブラックボックスを見ようともせずに、ずっとモウを睨みつけていた。 「そのブラックボックスは、アナタたちの脳に、つながってイマス」 「は?」とチンピラ。「――脳に? だからなんだってんだ?」 「正確には、アナタたちの脳の、海馬というところに、つながってイマス」 「海馬? はあ? なんだそれ。わけわかんねーことばっか言いやがって・・・・」 「海馬とは、記憶をつかさどる器官、デス」 「だからそれがどうしたんだよ!」 「これからアナタたちに、それぞれ五人、人ヲ殺して、もらいマス」 「は?」とチンピラが言った。 「五人を殺した時、それが、ゴールです。そのブラックボックスを、ここで、外してアゲマス」 「ちょっと待てよ。五人ってなんのことだ?」とチンピラ。 「こちらから指示した五人の命を、奪って、もらいマス」 「お前、気でも違ってんじゃねーのか? オレたちに殺人をしろと?」 「はい。どんな方法を使っても、カマイマセン。とにかく、その対象を、殺してクダサイ」 「なぜだ? どーして俺たちがそんなことをしなくちゃなんねーんだ? え?」とチンピラは黒ぶちに顔を向けた。 「お前は納得できるのか?」  黒ぶちは黙ってモウを睨みつけたまま、なんの反応も見せなかった。 「ちっ! お前はどーなんだ?」と伊原を見る。 「意味がわからない」と伊原は応えた。 「そうだよ。意味がわかんねーんだよ」とモウを睨みつける。「お前、頭がイカレてんじゃねーのか?」  モウは胸のポケットから携帯を取り出した。 「ここに、そのブラックボックスが反応する、番号が、はいってイマス。私がココで、その番号を発信するだけで、ブラックボックスの中にある、バイブが震えマス。わかりますか? アナタたちの海馬に繋がったブラックボックスが反応して、ぷるぷると、海馬を震わせてくれるんデス。それが、どういうことなのか、オワカリいただけマスね」  モウは三人を順番に見ていった。あっけに取られて反応がないことにも嬉しそうだった。 「さきほど、海馬は記憶をつかさどる器官、という話を、私、しまシタネ。考えても、ゴランナサイ。それがぷるぷると震えるノデス。おそらく、不安定な台の上に置かれた積み木のように、あなたたちの大切な記憶も、バラバラと崩れ去るデショウ。まあ、死んでしまう確立が一番高いと、私どもは考えておりマス。でも、こればかりは実験ができないので、実行するまでどういう状態になるのかわからないのですが、少なくともわかっていることは、とても正常じゃいられないってコトデス」  伊原は黙ってモウの話のつづきを待っていた。質問するにもなにを聞けばいいのかわからなかったからだ。 「そのブラックボックスには、発信器が、仕込まれてイマス。ですから、アナタたちの行動は、つねに、私たちにはわかるようになってイマス。そして、これからお話しする三つの条件のどれに触れても、バイブが作動されマス。ひとつは――」とモウは黒ぶちを見た。 「どこかの病院に、駆け込んだ時。わかりますか? このブラックボックスを外してもらおうと思って、病院に駆け込んだ時点で、私はその人の番号に、電話を、掛けマス」 「次に――」とモウはキリヤマを見た。 「ま、誰かが信じてくれるならの話ですケド、この事実を伝えるために、警察に、逃げ込んだトキ。そのトキにも、私は電話を、掛けマス」 「そして最後に――」と伊原を見る。 「アナタたちが、指定時間内に、指定された人物ヲ、殺さなかったトキ。そのトキも、同様デス。私が、電話を掛ける。そのブラックボックスが、反応する。記憶が、飛ぶ。終わりデス。あと、そのブラックボックスを外そうとする、無知な人のタメに言っておきますが、その行為は、アナタたちの脳を、ダメにしてしまうでしょう」 「ちょっと待った!」とチンピラが言った。 「なんデスか? キリヤマさん」 「オレたちに五人の人間を殺せと?」 「そうデス」 「でないと、このへんな機械を作動させて、オレたちを殺すと?」 「アララ? これは見かけによらず、わかりが早いじゃありませんか、キリヤマさん」 「っざけんじゃねーよ! なんで俺たちがそんな目に合わなくちゃなんねーんだ? 俺はごめんだね。絶対嫌だ。拒否する!」 「やっぱり、話がよくわかってないみたいデスね」  モウは悲しそうな顔をした。 「私は、あなたに、この計画ヲ受けるかどうかヲ、確認しているわけではないんデスよ、キリヤマさん。――これは命令です」 「なんだとー!」とキリヤマが叫びながら椅子の上で暴れた。  それを後ろから太っちょマーが押える。に見えていたが力はけっこう強いらしく、キリヤマの椅子がまったく動かなくなった。 「放せ、コラッ! ただじゃ・・・・」と暴れても、椅子は一ミリも動かなくなった。それを知ってキリヤマも諦めたようだ。 「けっ!」とモウに向かって吐き捨てるように言うと、そのままモウを睨みつけた。「命令なんて受けねーよ!」 「受ける、受けないヲ、聞いてもいまセン、キリヤマさん。アナタたちには、ヤッテ、もらいます。でなければ――」  モウはそこでまた三人を見渡した。その態度は超然としていて、何物にも動かされないという強い意志が感じられた。 「な、なんだよ」と堪えきれなくなってキリヤマが喘ぐように言う。 「でなければ――、アナタたちには、死あるのみ、デス」 「な、なに言ってんだ! 頭おかしいんじゃねーのか?」 「アナタたちがどう思おうとも、この計画に、変更はありまセン」 「ふざけるな! 早く外せ! この手錠もブラックボックスも! 畜生っ!」 「じゃ――」  モウは暴れるキリヤマを無視して、黒ぶちのアンドーに眼を向けた。 「アンドーさん。アナタは理解して頂けましたか?」 「なにを言っているのか、さっぱりわからないんだが・・・・」とアンドーが初めて口を開いた。  思いのほか、低音でよく通る声だった。彼なら勧められるままに、リスクが高い投資話でもあっさりのってしまいそうな気がした。 「私にまた説明しろと? ・・・・どこからはじめれば、イイですか? また私の名前から・・・・」  アンドーはモウのセリフを遮るようにして「はっ!」っと(わら)った。 「アンタは正気なのか?」  さっと風が吹いたように、モウの表情が変わる。 「もちろん、正気デス。遊びでこんなことができると、お考えですか、アンドーさん」 「その、アンドーさんっていう呼び方、止めてくれないかなー。私はだ」 「ゴメンなさい。うまく発音デキナイもので・・・・」 「ふんっ。フィリピンパブにでも来たのかと思ったよ」とその時はじめてキリヤマに顔をむけてきて嘲った。そのとき目が合ったので、伊原も同意するように笑みを返していた。 「で、いかがですか? アンドーさん」 「なにがだよっ!」  だんだんアンドーも荒っぽくなってきた。しかし構わずにモウは続ける。 「ご協力、イタダけ、ますか?」 「ご協力? そんなこと、できるわけないだろっ! アンタの言うことを信じてるとでも思っているのか? だいたい海馬っていうのはだな、脳の中心にあるんだよ。そんなところにどうやってブラックボックスから出た器具を仕込むんだ? その前にある小脳はどこいっちまったんだ? え? もう取っちまったのか? へっ! 笑わせるのもいいかげんにしろよ!」  伊原は妙に納得していた。やっぱりこいつらのハッタリだったのだ。だいたい脳に器具を仕込むなんて、どんな神の手をもってしても不可能なんじゃないかと思った。今でも、頭を前後に揺らしてなにも感じないなんて不可能だろう。伊原も腹の底から笑ってやりたい気分になった。  モウはしばらく悔しそうにじっとアンドーを見つめていたが、やがて胸に手を当てたまま素直に頭を下げた。 「――ゴメンなさい。私、ウソを、ついてました。ショージキに謝ります」 「だろ? そんなこと最初っからわかってたんだよ。――さ、わかったら、早いとこ、この手錠を外してくれよ。さっきから痛くて仕方ないんだ。――それと、このブラックボックスもな」  アンドーは途端に上機嫌になっていた。 「なんだ、驚かせんなよ・・・・」とキリヤマも弱々しく笑っていた。  しかし、アンドーが言ったことを拒否するように、モウは厳然と首を振った。 「もういいからさ」アンドーがちょっとイラ立たしげに言った。 「このことは警察にも言わないし、あんたたちの顔も忘れるし、だったらなんにも問題はないだろ?――な?」と横にいたキリヤマにも同意を求める。 「も、もちろんだよ。俺たちはなんにも言わねー。約束するよ」とキリヤマもあわてて同意した。  だが、モウはまだ首を振っていた。 「嘘じゃねーって」キリヤマが食い下がる。「絶対誰にも話さないって」 「そういうことでは、アリマせん」とモウ。 「なんだよ。なにが違うんだよ。オレたちが信じられねーってことか?」とキリヤマ。 「いえ、そうではアリマせん。私がついた嘘というのは、首につけたブラックボックスの、ことデス。確かに、アンドーさんがおっしゃるように、脳に、それも海馬に、器具を直結させるなんて、現代医学をもってしても、不可能でしょう。それは、アナタたちが、おそらく海馬がどこにあるのかも知らないだろうと思って、恐怖をもっともっとあおるために、私がついた、嘘だったのデス」  伊原は唾を飲みこみながらモウの話に聞き入っていた。 「ブラックボックスには、アナタたちがいる場所を示す発信機と、私がその発信機に連絡することによって作動する針が、仕込まれてマス。その針が、アナタたちの脳を、――さっきアンドーさんがおっしゃった、小脳に突き刺さるように、ナッテマス。小脳の働きはご存知デスカ? アンドーさん」  アンドーは応えなかった。頭ではまったく別のことを考えているみたいだった。 「小脳は、知覚と、運動機能をつかさどる、脳デス。ですから、そこが損傷を受けると、まず平衡感覚がおかしくなって、酔っ払いみたいに、ナリマス。ま、私も専門家じゃないので、詳しいことはわかりませんし、どんな症状が現れるかなんて、興味もアリマセン。要は、アナタたちが約束を破ると、そのブラックボックスが作動して、アナタたちの脳が、損なわれるというコトデス。それが重要なのであって、その結果は、問題ではアリマセン。アナタたちの努力によって奇跡的に回復した、っていうのナラ、それでも構いまセン。がんばって、クダサイ」  そこでモウはアンドーに眼を向けた。 「で、アンドーさん。いかがですか? 博学のアナタなら、そのサイズのブラックボックスに、発信機と、針ヲ飛びださせる、機能をもたせるコトが、可能だというこコトは、理解できマスよね? 言っておきますけど、針といっても、縫い針みたいな、細いものではありまセンよ。長さは一センチと短いですが、太さは三ミリぐらいあり、先がイカリみたいにカギ状に、なってマス。その方が、余計に脳に、損傷を与えることが、できるそうデス。これは、嘘では、アリマセン。あ、あと、そのブラックボックスを取り外そうとしても、針が飛び出すしかけに、なってます。それは、本当です。――アンドーさん、なにかご質問は?」  アンドーはなにも応えずに、難しい顔をしていた。 「では、アンドーさん。これでご理解して、イタダケましたか?」  それでもアンドーはなにも応えなかった。ぐっとモウを睨んでいるだけだった。 「返事ヲ、してください、アンドーさん」  それでもアンドーは黙っていた。それはそうだろう。なんて返事するんだ? わかりました。五人殺せばいいんですね、か? そんなこと返事できるわけがない。この場で、それもたった今、そんな大変なことを即答しろといっても無理だろう。自分の人生がかかっているのだ。そんなこと、そう易々と返事できるわけないじゃないか。 「・・・・五人っていうのは」アンドーが顔をしかめたまま苦しそうに言った。「どういった五人なんだ?」 「それは、アナタには、関係ないことデス。アナタは言われたとおりに、五人の日本人を殺す、それだけデス」 「ふざけるなっ!」とキリヤマがまた吼えた。  それが〝アナタには関係ない〟に反応したのか、〝五人を殺す〟に反応したのかはわからなかった。もしかすると〝日本人〟に反応したのかもしれない。だったら少しはこのチンピラみたいなキリヤマを見直すんだが――。  「ただ殺せと?」とアンドー。 「そうデス。私どもの指示に従って、指定時間内に――」  アンドーは机の足元を見つめながら考え込んでいた。  眉を寄せて、いま彼は頭の中で、五人の日本人を殺すことを想像しているのだろうか? それとも可能な〝人の殺し方〟を模索しているのだろうか?   見ているだけでは判断できなかったが、伊原はやはり人を殺すなんてとても不可能だ、と考えていた。よく映画ではすれ違いざまに鋭利な刃物でさっと首を切るとか、正面からナイフで刺すとかやっているけど、そんなことでそんなに簡単に人が死ぬとは思えなかったし、第一、吹き出る血を見ただけでも、もうそれが自分の身体に吹きかかってくることを想像しただけでも卒倒しそうだ。  毒殺にしたってそうだ。毒を入れるためには被害者の近くでうろうろしなくちゃならないし、急にそんな奴が現れたら怪しまれるに決まっている。だからといってじっくりと時間をかけて近づいていくなんていう時間的な余裕はないだろう。  でなかったら、あとは事故か? 交通事故か? バイクでは無理だからレンタカーでも借りてひき殺すのか?  伊原は頭を強くふって否定した。  ――どれもこれもあり得ない・・・・。 「なにか、特殊な道具とかはないのか?」とアンドー。  同じようなことを考えていた伊原にはすぐにわかったが、モウにはわからなかったようだ。 「道具? なんの、道具デスか?」とモウは不思議そうに訊いた。 「その・・・・、簡単に人を殺すことのできる道具とか・・・・」  アンドーは言いにくそうだった。それを訊いてしまうと、自分がモウたちの計画にのって、具体的な殺害方法を考えているのを見透かされてしまうのが嫌だったのだろう。  現にそれを聞いたモウは、とても愉快だとでもいうように、にこやかに笑った。今日はじめて見せる満面の笑顔だった。 「ダブルオーセブン、みたいに、デスか?」  モウはそう言ってから、ゆっくりと首をふった。 「残念ながら、それは、アリマセン。銃を仕込んだ杖とか、毒針を内蔵させたライターなんかも、私どもは持ってイマセン。道具の選択も、殺害方法も、アナタたちに、すべてお任せシマス。自由に考えて、行動してクダサイ。指定時間内であれば、なんの問題も、アリマセン」 「だったら無理だな」とアンドーは断定するように言った。 「不可能だ。だって考えてみろよ。オレたちはズブの素人なんだ。なにか特殊な訓練を受けたわけでもなければ、そういう風な生き方をしてきたわけでもない。ただの普通の社会人なんだ。そんな人間が人を殺すなんて――。それも指定された時間内に、なんてバカげてる。そんなものどうしたって無理だ!」  すぐに反論するのかと思ったが、意外にもモウは黙っていた。いままでになく怖い顔をして、じっとアンドーを睨んでいる。  いきなりモウが大きく口を開けて息を深く吸い込み、口を小さくすぼめてゆっくりと吐き出す。そんなことを何回かくり返した後、再びアンドーに目を据えた。 「アナタに――」モウは不意に唾を飲み込んだ。「さっきもいいましたように、アナタたちに、できる、できないヲ、聞いてはイマセン」と感情を抑えるように、ゆっくりと言った。 「理解したかどうかヲ、聞いているダケデス。どうですか、アンドーさん。理解デキマシタカ?」 「だから言ってるだろう! 理解もなにも不可能だって! そんなこと、できるわけがないって!」 「じゃ、私たちの計画ヲ、拒否するのデスカ?」 「拒否もなにも、不可能だって!」 「だから不可能かドウかを、聞いてるんじゃナイっ!」とモウがいきなり机をバンッと叩いて立ち上がった。そして真っ直ぐにアンドーに向かって指を突き出す。 「ヤルか、ヤラナイか、それを聞いてるんだ! ほかのコトは、ナニも、聞いてナイッ!」 「じゃ、拒否だっ! だって考えても・・・・」 「キョヒ~ッ?」モウの大きい声がアンドーを遮った。「ほんとに拒否でイイんですネ!」 「ああ、いい! オレは拒否で――」 「後悔は、ナイですネ!」 「ないっ!」とアンドーがモウを睨む。 「・・・・ワカリました」  伊原の背後では、ヤク中のシュウも太っちょのマーも、同じように後ろで手を組んで、おとなしくこの光景を見守っている。なんだかこの二人の落ち着きぶりを見ていると、こんな修羅場を何度もくぐり抜けてきているように見えた。  眼の前では、モウが老眼鏡を掛けて携帯をいじっている。  ――なに?  アンドーのブラックボックスに信号を送ろうとしているのか?  ウソだろ?  ほんとにそんなことが可能なのか? 「・・・・ジュ、・・・・ジュ、・・・・住所、ロクと。・・・・あ、あ、あん、あん、あん・・・・」とモウがぶつぶつと呟いている。  アンドーのブラックボックスの番号を探しているのか?  ウソだろ?  ハッタリだろ?  その光景を見て、アンドーは薄ら笑いを浮かべている。どうせハッタリだろうと決めてかかっているようだ。  確かに、そうだろう。こんなこと、実際にできるわけがない。手の込んだハッタリでオレたちを引っ掛けようと・・・・。  でも、なぜだ?  他のやつの事は知らないが、どうしてオレがこんな目に合わなければならないんだ? いったいこいつらは何者なんだ? 「ホントに、イイんですネ?」  モウが最後に確認するように、老眼鏡を下げてアンドーを見た。 「あー。脳の破壊でもなんでも、やれるもんならやってみろよ。プチッとな!」 「ナニも起こらないと、思ってマスね」  モウがニヤリと笑った。 「後悔しますよ。ま、死んでからナンて、後悔もナニも、できナイでしょうけどネ」  モウがアンドーに携帯を向けた。携帯に記憶した番号を発信するのだから、その行為は無意味だろうが、彼はアンドーに携帯を向けて「プチッ!」と言った。  アンドーが気味悪そうに眉をひそめながら、モウが持った携帯を睨んでいる。まるで眼力で、モウの攻撃を跳ね返そうとするかのように、強く睨みつけていた。  ――しばらく待っても、なにも起こらない。  なにも起こらないだけに、よけいに静かな時間がゆっくりと流れていく。誰かがツバをのみ込んだとしても聞こえてしまうだろう。それほど静かだった。 「ヘッ」とアンドーがバカにしたように嘲った。  ふうーっとキリヤマも大きく息を吐いた。  伊原も深呼吸をしながら肩の力を抜いた。  モウは、携帯をアンドーに向けたまま動かない。 「驚かせんじゃねーよ」とキリヤマが小さい声で呟いたとき、とつぜんアンドーが苦しみだした。  正面から眉間を狙撃されたみたいに身体を大きく後ろにのけ反らせながら、椅子に坐った姿勢のまま大きな音をたてて横に倒れ、それでもまだアンドーは身体を後ろへのけ反らせようとしていた。もう背骨が折れるんじゃないかというぐらいに身体を反らせたまま、眼を大きく見開いている。 「かふっ、かふっ、かふっ」と人形みたいに口をぱくぱくさせながら、身体を大きく痙攣させている。  キリヤマはアンドー以上に眼を見開いて、その光景を見守っていた。もう声もでないようだった。  モウを見ると、携帯をまだアンドーに向けたままだった。額にびっしょりと汗をかいている。  背後の二人はこの光景をみても、少しも動かなかった。やはり慣れているのか?   伊原は心底怖くなった。  アンドーの痙攣が少しずつ小さくなっていく。最初の痙攣が身体全体だったものが、今では安物のスリッパを履かされた脚だけが、それも膝から下だけが力なく動いていた。  痙攣といってもそんなに早いスピードではなく、かーす・・・・、かーす・・・・、かーす・・・・という、ゆっくりと床を引っ掻く音だけがしばらく聞こえていた。  排泄物の臭いが辺りに立ち込めている。  最初、アンドーが失禁しただけかと思ったが、キリヤマも同じように失禁していた。  モウがアンドーに携帯を向けたまま、ヤク中のシュウを見た。そして顎で指示をだす。  確認しろ、と言ってるらしかった。  ヤク中が俊敏にアンドーに歩みより、手で首を押えた。彼はモウに向って首をふった。  そのときモウは、え? という顔をした。 「生きてるのか?」 「いえ」シュウは首をふった。「――もう死んでます」  そのときモウが、いきなり中国語でなにか怒鳴った。最初はびっくりしていたヤク中も、あわてて中国語で詫びていた。伊原たちにはわからないモウの一方的な中国語の罵声がしばらくつづく。  おそらくモウは、ヤツが死んでいたなら、そこは肯くべきだろう!、となじったのだ。  殺そうと思って、そのように携帯を操作をして、そしてアンドーの状態をお前が確認して、そこで奴が死んでいたなら、お前はそこで肯くべきだろう、死んでいます、と。  モウが椅子に腰掛けなおして、携帯を机の上に乱暴に置いた。そしてキリヤマを見る。  キリヤマはかわいそうなぐらい震えていた。底知れぬ恐怖心が彼を支配していることは容易に想像できた。伊原自身もそうだったからだ。 「ヤッパリ、死んじゃいましたネ」  モウが机の上で手を組み合わせながら軽やかに言った。 「アナタたちは忘れているかもしれませんが――」モウは早口に言った。「私は中国人デス。日本人の死なんて、屁とも思ってマセン。それをよく考えて、クダサイ。――で、アナタはどうしますか?」とキリヤマを見る。 「――どうしますって・・・・」  キリヤマは恐怖と困惑が一度に襲ってきたみたいで、なにも考えられないようだった。 「ヤルか、ヤラナイかっ!」  バンッとモウが机を叩いた。今度は坐ったままだった。 「スグに応えないかっ!」 「そんなすぐにって・・・・」キリヤマはもう泣きそうだった。「ちょっと待ってくれよぉー」 「もうイイッ! 何人死んでも、屁でもありまセン!」  モウはそう言い捨てると、また老眼鏡を掛けなおして携帯を操作し始めた。 「・・・・住所録、・・・・住所録、と。・・・・で、えー、き、き、き・・・・」 「お、おいっ! ちょっと待ってくれよぉー」  キリヤマはもう泣いていた。 「誰も――、やらないって――、言ってないじゃないかぁー」  モウが老眼鏡を指で下げて、キリヤマを見た。 「ナニ? よく聞こえナイよ」  うーー、うーーと、キリヤマが泣いてモウの質問に応えないでいると、モウはまた携帯の操作に戻った。 「き、き、き・・・・」 「わかったよー、やるよー。やりゃいいんだろー」と言ったきりキリヤマは本気で泣きだしていた。  モウはそんなキリヤマを見て肯きながら事務的に携帯をパタンと閉じると、伊原に目を向けた。 「アンタは?」 「ひとつ聞きたいんだけど――」 「ナンだ?」 「オレが五人を殺したら、本当に解放してくれるんだな」 「モチロンだ」 「その保障が欲しい」 「保障? それは、信じてもらうしかナイ」 「こんなことされて、それでもまだ信じろというのか?」 「無理ならヤメロ」とモウは携帯を開いた。 「わかったよ。誰もやらないとは言ってないだろ」 「じゃ、ヤルのか?」  モウが携帯を開いたまま、伊原を見た。  伊原は眼を閉じてから、「ああ」とだけ短く返事をした。 「ヨシ! 決マリだ。計画は、今日から、実行される」 「今日から?」と伊原。 「ソウだ。今日から、だ。時間を無駄に使っても、イイことはひとつもナイ。それに、時間を無駄に使う理由も、ナイからネ」とモウはうれしそうに言った。  キリヤマは呆然としていた。もう、反抗する気持ちも失せてしまったようだった。  シュウとマーの二人が、アンドーを椅子と一緒に運び出していく。その光景をモウは見ていなかった。計画に賛同してくれた協力者を見るような温かい目で、キリヤマと伊原だけを交互に見ていた。 「私たちが選んだサクリファイスは、これからお渡しする、この携帯に、連絡します」とモウは、使い込まれた携帯を伊原たちに見せた。 「名前と住所と、そして、あれば写真も――。そのとき指定された時間が、アナタたちに与えられた期限デス。イイですか? 時間は必ず、守ってクダサイネ」 「サクリファイス?」キリヤマがうつろな表情のまま、ぼんやりと呟いた。いまの彼にはそのセリフしか頭に引っかからないみたいだった。  モウは日本語よりもずっと流暢な発音で 「サクリファイス、です」と言い直した。 「生贄のことですよ。ま、犠牲者ともいいますがね。なにも、アナタたちが気にすることは、ありません」 「そいつらは、なにか、とてつもなく悪いことをした奴らなのか?」と伊原。 「ソウ、ですね。私どもにとっては、ソウです。だから堂々と殺していただいて、構いません。それに、特別警護が付いているような人は選びませんから、ご心配なく」  シュウとマーが戻ってきて、所定の位置についた。二人にはなにも変化は見られなかった。まるでアンドーの遺体を、この病院の裏の原っぱにでも棄ててきただけ、みたいに見えた。息すら上がっていない。  一体こいつらは何者なんだ? と伊原は眉をひそめていた。 「じゃ、これからあなたたちに、サクリファイスの情報ヲ、送ります。えっとー、まず、キリヤマさんから――」  モウは携帯の操作をしてから、最後にキリヤマに携帯を向けてボタンを押した。 「ひっ!」とキリヤマは首をすぼめたが、ちょっと間をおいて彼に渡す予定だった携帯が机の上で震えた。  シュウが素早く歩いてきて、その携帯をキリヤマのスーツの胸ポケットに入れる。 「次にイハラさん。――えーと、イハラさんの、まず最初のサクリファイスは・・・・・・、えーと、この人、この人――」とモウは携帯を操作して、やはり同じように最後に伊原に携帯を向けてボタンを押した。  ちょっと間をおいて、伊原に渡す予定の携帯が震える。メールだから、二回震えただけで携帯は止まった。  またシュウがやってきて、伊原のジーンズの尻ポケットに携帯を押し込んだ。 「いま見るの、いけまセン。いっぱいいっぱい質問したくなっちゃいますからね。後で確認してクダサイ。イイですか?」 「オレたちは、普通に生活が送れるのか?」と伊原。 「モチロンです。フツーに生活してくだサイ。なにもモンダイ、ありません。シャワーを浴びても、ブラックボックスは大丈夫デス。でも、あまり触るの、よくありません」とモウは悲しい顔をつくって首をふった。 「わかりましたか?」 「ああ。わかったよ。フツーに殺ればいいんだろ、パスパスと」  伊原は面倒臭そうに言った。 「そうです。五人やれば、終わりデス。我々が望むのは、そのことだけデス」 「じゃ、早速この手錠を外してくれないか」 「それはダメです。これからあなたたちは、また眠っていただきマス。眼が覚めてから、好きに行動してクダサイ」 「わかったよ。好きにしてくれ」と伊原は力を抜いて、椅子の背もたれに身体もたせかけた。  キリヤマは前屈みになったまま、前方の床を見つめていた。おそらく、何度も何度もあのアンドーが苦しむ姿を思い返しているのだろう。それもとても鮮明な映像で――。そんな顔をしていた。  シュウとマーがそんなキリヤマの両脇を抱えて立つようにと促すと、キリヤマは言われたとおり、少し膝をがくがくと震わせながらも、どうにか立ち上がり、部屋を出ていった。 「どうしてオレがこの計画に選ばれたんだ?」と伊原はモウに訊いてみた。  モウは机に肘を立て、眼の前で携帯をくるくる回しながらニコニコしていた。 「どうしてだと、思いマスか?」と試すように伊原を見る。 「・・・・たまたまか?」 「たまたま・・・・。偶然・・・・。イヤな言葉デス」  そう言ったままモウはニコニコ笑っている。まだ言葉が続くのかと思ったが、モウはなにも言い出さなかった。ただ、シュウとマーの二人が戻ってきて伊原を立たせ、その部屋を出ようとしたときに、「ご健闘を、祈ってマス」とだけ笑顔のまま言った。その顔は、健闘虚しく死んでしまうと決めつけているような笑みだった。  そんなモウに向かってなにか言い返すヒマもなく、ドアはバタンと閉じられた。
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