第七章

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 盛大な水しぶきが上がり、ドレスが水を吸って体の自由がきかなくなる。それを見越していたガウェインはしっかりとジュディを捕まえていて、篝火の炎と星灯りの落ちる湯の中で声を上げて笑っていた。 「湯加減はどう?」 「どうもこうも、動きづらいです!」 「脱ぐ? 手伝うよ」  ジュディはとっさに、腕を突っ張ってガウェインの親切を全力で固辞した。  防ぎきれなかったガウェインの手が髪に伸びて、結い上げているリボンをするするとほどいていく。 「いたずらばかりして」 「ブルー・ヘヴンに来て、温泉に入らないわけにはいかないんだ。諦めて俺に身を任せて。怖くないから」  決して怖がっているわけではない。ただ、ひとと一緒に入るのが慣れないだけなのだ。 (しかも相手があなたなので)  言いたいことはたくさんあったが、じんわりと体を包み込む温もりが心地よく、さらには濡れたドレスごとガウェインにしっかりと抱きしめられてしまうと、抵抗に体力を費やす気もなくなってしまった。  落ち着いて身を任せてしまうと、悪くない。  温泉の縁近くに段差があり、ガウェインはジュディを横抱きに抱え直してそこに腰を下ろした。  星空を見上げて、低い声で話を再開する。 「オースティンだ。第一王子殿下の名前。もっとも、本当に生きているのか、いまなんと名乗っているかはわからないが。俺は、生きて近くにいると考えている。もしかしたら、ティーハウスにいたのはジェラルドではなく、オースティンだったのかも。あるいは、二人ともいたのか。そのくらい近くまで来ているのを感じる」 「ガウェイン様と入れ替わるために」  ジュディが聞き返すと、ガウェインは腕に力を込めてジュディを抱きしめて、髪から水を滴らせつつ顔をのぞきこんできた。 「そう。年齢的に、オースティン自身がフィリップス様と入れ替わることは現実的ではなかった。それに、まだ準備もあるんだろう。時間稼ぎの間、先にジェラルドを宮廷に送り込んだ。王妃様がついているとはいえ、敵地も同然。危険な役目だ。その意味では、ジェラルドをいざというときは見捨てるつもりかもしれない」  ガウェインが、ジェラルドに対しての態度を変えた理由が、ジュディにもわかるようだった。 (彼は幼く未熟な面があるけれど、暗愚ではないはず。宮廷に彼の側の勢力が入り込むのに目を光らせ、ガウェイン様が適切な対応と教育を行えば、寝返るとは言わずともこちら寄りの考え方になる余地がある……? 自分が捨て駒扱いなのだと自覚すれば、オースティン様に対して非協力的になる可能性も?)  フィリップスの教育係も難しいとは思ったが、ジェラルドもまた難しそうだ。だからといって、諦めて野放しにするわけにはいかないのだが。  誰からも何も言われずにただ生きて、名君と呼ばれる徳を備えた人柄が勝手に育つわけがないのだから。  短所である癇癪を抑えて、長所を見つけて伸ばし、他人に思いやりを持つ性格になるよう、年長者が尻込みすることなく向き合って導かねば、彼は変わっていけない。  少なくとも、ガウェインはそのつもりでいるのだろう。フィリップスを元の位置に戻すのだとしても、その過程でジェラルドを単純に排除するのではなく、彼自身が今後生きていくのに必要なスキルを得られるよう、自分の元で育て上げると。 「オースティン様の真の狙いがガウェイン様だとすると、失脚することなく、宮廷の要職にとどまっていて欲しいと考えるでしょうね。ガウェイン様としても、ジェラルドたちの動きを見逃せないから、宮廷を離れるわけにはいかなくて……」 「そう。ブルー・ヘヴンに温泉入りに来る隙もない。役職を奪われるだけならまだしも、君の夫の立場を奪われるわけには」  その声は、冗談を言っている様子もなく、きわめて真面目であった。  ジュディは、自分の隣に彼以外のひとがいる光景を思い浮かべようとしたが、うまくいかなかった。 「もし入れ替わるとすれば、夫婦で入れ替わるのでは?」  そうでもなければ、ジュディは全力で抵抗するだろう。  ガウェインは薄く笑って、「だとすると」と言葉を継いだ。 「いよいよユーニスさんが出てくるのかな。彼女も得体が知れない。素性を追いかけてみたが、全然わからないんだ。初めから向こう側のエージェントだったのかも」 「それならば、私のことは私が思っている以上に調べ上げているでしょうから、入れ替わるのは簡単かもしれませんね……」  だんだんと相手の描いている図式が見えてきた今、想像よりも以前からこの陰謀に巻き込まれていたのではと、またもや寒気がしてくる。  ジュディは無意識にガウェインに身を寄せながら、心細い思いから尋ねた。 「私とガウェイン様が知り合うのも、仕組まれていたんでしょうか」  ガウェインは「まさか」と、その質問を一笑に付した。 「俺の心は誰にも操れない。あれは俺の一目惚れだよ、それ以外の何ものでもない」  きっぱりと言い切られて、ジュディは落ち着かない気持ちになって視線を泳がせる。臆面もなく、一目惚れと言われても。 「足ですよね。足。アルシア様も丈夫そうで」 「母が何か? それはあまり関係ないと思うけど」  絶対に、関係あると思う、という言葉をジュディは呑み込んだ。ガウェインが認識していないなら、わざわざ指摘する必要性は感じなかったので。  大切なのは、ガウェインが自分を好きだと打ち明けてくれて、互いの思いを確認して信頼し合って歩めることなのだ。  ジュディはそこで、ぐっと眉を寄せた。  ガウェインが湯の中で、スカートの上から足に触れた。 「なんの確認ですか」  いかにも「だめ?」という顔で見返されて、ジュディは小さく息を吐きだすと、体の力を抜いてガウェインに寄り掛かる。  だめなわけではない。落ち着かないだけで。  だが、するっとドレスの裾に手を感じたところで、すかさず「だめ」と制止をした。  ガウェインは手を行儀正しい位置まで戻してジュディを抱き直し、そのまま目を閉ざして口づける。  唇が離れたとき、ジュディは目をゆっくりと開き、何か言わねばと思いながら「唇って柔らかいですよね」と口走った。  言ってしまってから動揺したが、ガウェインはくっくっくと喉を鳴らして笑って「いま気付いたみたいに言うね」と囁くと、ジュディの額に口づけた。 「もう何度も、こうして……」  その声は危険なほど甘く、ジュディは思い切りよく腕を突っ張ってガウェインの顎を遠ざける。 「これ以上はいけません!」 「ああ、そうだね。俺もそう思う。止まらなくなる」  笑いながら、ガウェインは名残惜しそうにもう一度、ジュディの唇に唇を重ねた。
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