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木々の青が目にしみる。葉をゆらす風に、冷たさよりもぬくもりが見てとれた。透き通った水色の空が晴れ晴れしい。春の気配がわたしにまでつたわる。
丘の公園に遊びにきているのね。
広い緑の原っぱと、木陰を楽しむ自然公園。由香をつれて何度も通った公園。歓声をあげてちょうちょを追いかける娘を、夫と肩をよせあって笑った公園。
また、かつて生きた世界をのぞけるだなんて。ひょっとすると、お別れの言葉をかける機会を、神さまが与えてくれたのかしら。
麦わら帽子の赤いリボンが愛らしい。白く小さな毬のような花にかこまれ、由香はうずくまっていた。足もとに、くまなく敷きつめられた緑の葉に視線を落とし、熱心になにかをしている。
なんだろう? 背中が遠くてわからない。
いつまでも見ていたい。けれど、わたしはもうすぐ、自分が消えることを知っている。
娘のうしろ姿を目にしている今このときも、ゆっくりと意識がうすれる。
早くしなくちゃ。なんて言おうか。車の中では、怒ってごめんね。
ううん、ダメ。わたしがこの先、由香を見ることはもうない。最後の言葉が、これじゃあダメだよ。娘を力強く、未来に送り出さなきゃ。
じゃあ、さよならするね。
「由香。元気でね」
麦わら帽子が勢いよくはねあがった。空をあおぎ、二度三度と、左右に大きく頭を動かす。やがてはくるりときびすを返し、まっすぐにわたしへと顔をむけた。
間違いなく、わたしを見ている。やわらかな光に満ちた瞳。幼い子供とは思えない、思慮深いまなざし。
目があうと、にっこりと頬をあげた。かけ足で、どんどんと笑顔が近づく。
「ママ。ママでしょ。会えてよかった。あのね、気になってたの。いつも由香のこと見てる人がいるって。だからね、ちっともさみしくなかったよ」
ひと息に涙があふれた。しずくが頬に熱い道を引く。
「由香はね、新しいお母さんとなかよしなんだよ。いずみちゃんっていうの」
声がはずんでいる。舌足らずのあまえたしゃべり方が、しっかりとした口調にかわっていた。本当に大きくなったね。
「いずみちゃんがね、教えてくれたの。ほら」
ああ、由香はこれをさがしていたのね。
細い親指と人さし指の先で、四葉のクローバーがゆれていた。
「持ってると、いいことがあるんだって。でもね、由香には、なんにもいやなことがないの」
そうなの。よかった。由香、本当によかったね。
娘の声が耳に届くたびに、体が天へと引き上げられる。
「それでね、ママにあげようと思ってさがしてたの。ママ、車の中で、いやなことがいっぱいって言ってたもん」
浅く眉をよせ、わたしを気遣ってくれる。なんてやさしいんでしょう。
わたしは、この子のそばから消えていく。この子のやさしさを胸に刻んで消えていく。
「ママにいいことがありますように」
由香にこそ、幸せがおとずれますように。
「はい、どうぞ」
明るい声とともに、四つ葉がさし出された。幼い手を、わたしは両手でそっとつつむ。ふれることはできなくても、ぬくもりを感じる。
由香の目が、やわらかな光をとじこめるように細くなった。わたしも眉をゆるめ、目じりをさげる。涙がどれほど流れようとも、視線の糸は二人をつないでいる。由香。
「ありがとう」
かすむ視界いっぱいに、笑みが広がる。意識が、ゆっくりと遠のいていく。
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