つづく言葉は

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 わたしのいる世界と由香たちが生きている世界では、時間の流れが違う。日を置かずに娘のことを見守っているつもりでも、季節のはしばしが変化している。  今、わたしが目にしている部屋はすっかり冬。パスタで口のまわりを赤くしたのは、もう何カ月も過去のことらしい。  夫はセーターをかぶり、娘はふとんの中。風邪をひいているようだ。鼻をしきりにすすっている。  枕もとに座った夫が、黙ってティッシュをさし出した。うなずきながら手にとり、「ふん」と鼻をかんだ由香のしぐさには勢いがあった。  よかった。そんなにひどい風邪じゃないみたい。  ごめんなさいね、あなた。わたしがいれば、会社を休まずに済んだのに。仕事よりも、娘を優先してくれたんだね。  夫の手には、見慣れたスプーンがにぎられていた。娘が生まれたときから愛用している木のさじだ。すったりんごが、小さな山を作りのっていた。 「はい、どうぞ」  夫の声に、つづく言葉は「ありがとう」。  親子のやさしい会話。  このやり取り、もとはと言えば夫の習慣だった。人にものをわたすときには、丁寧に言葉を添える。受け取るときには、必ずお礼を言う。  なんて物腰のやわらかい人なんだろう、と印象に残り、いつの間にか引きつけられていた。  同じ会社に勤めていたせいか、その先は早かった。夫の口癖が二人のあいだに定着するのもあっという間。由香はしゃべり始めのころから、当たり前のように口にしていた。  わたしが欠けても、家族の習慣は変わらない。父と娘だけになっても、わたしのいたときと同じ営みがつづいている。  もしもぜいたくがゆるされるのなら、わたしもあの輪に入りたい。  できることなら、もう一度、娘とあのやり取りをしたい。  叶わぬ願いだとわかっている。由香がわたしに、なにかを手わたすことなど、もはやないのだから。  由香が、口もとによせられたスプーンをそっとついばむようにくわえた。赤ちゃんのころからの可愛らしいくせ。  ああ、またこの顔が見られるなんて。  器をからにしたあと、由香は神妙な顔つきで小ぶりなカップをつまんだ。シロップでといたオレンジ色の薬が、さざ波をうつ。  おそるおそる、うすくあけた唇に運ぶと目をつむり、ひと息に飲んだ。  あまい中にひそむ薬くささを、いやがっていたのに。 「えらいね」  思わず口をついて出た。  だけど、やっぱりまずいんだろうな。眉をよせて小首をかしげている。
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