つづく言葉は

6/8
8人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
 わたしと由香や夫をへだてる霧のむこうがわは、うだるような暑さなのだろう。光が強い。入道雲のいただきが、目に痛いほど白くかがやいている。遠くの木のこずえが、水の入ったグラス越しのように、ゆがんでいた。  容赦ない炎天のもと、娘はカバの前で、長い時間足をとめている。柵に手を置き、手の甲にはあごをのせ、麦わら帽子をじりじりと焦がしながら、水面からわずかにのぞく丸い背中と四角い頭に釘付けだった。  水につかっただけのカバの、なにがおもしろいんだろう。  少し離れたベンチには、一組の男女。  一人は夫。わたしとならビーチサンダルだったろうに、今日は淡い茶色のスエード靴。動物園にくるにはおしゃれなよそおいだ。  やつれ顔はすっかり治まり、口もとに刻まれた深いしわは消えていた。  もう一人は、女性。初めてみる人。わたしよりも若い気がする。さっぱりとしたショートカットで、ちょっときつそうな顔立ちなのが気がかりだ。  デートが動物園だなんて、中学生か高校生みたいだけれど、きっと由香がいるからなんだね。  まだ三十をいくらか超えたばかりの夫が再婚をすることに、文句を言うつもりなどさらさらない。むしろ、早く相手がみつかってほっとしている。よくやったね、と褒めてあげたいくらいだ。  でも、由香はどうなんだろう。新しい母親にとまどってないかな。  あ、もしかして……。わいた疑問は胸の内を重くする。  カバの前から動かないのは、気まずいからなのかも。父親が見知らぬ女性をつれてきた。その人は、新しいお母さんになるかもしれない。とまどって当然だ。 「由香。どうなの?」  わたしからの問い掛けが合図だったかのように、娘は顔をあげた。そのまま空へと目をやり、太陽のまぶしさにまぶたをとじる。  夫が娘の名を呼び、手まねきした。はーい、と明るい声だけを返し、由香はまだ空に目をとどめたままだ。  もう一度名を呼ばれたため、娘が一歩前に出たところで、分厚い霧がわきだした。娘と女性のようすをたしかめる間もなく、世界がふさがる。  由香の姿をながめる時間が、次第にみじかくなっている気がする。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!