つづく言葉は

7/8
8人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
 由香はふっくらとしたふとんに、首までうまっていた。頬が赤い。額やこめかみに、汗がうっすらとういている。心地が悪いのか、しかめた顔が痛々しい。一人きりで、心細いのかもしれない。  また風邪をひいたのかしら。額に手を当てようとしても、決して由香には届かない。わたしの手のひらは空を切るばかり。  あんなに熱に弱い子だったかな。赤ん坊のころは、四十度近くてもケロッとしていて、こっちのほうが気をもんでぐったりすることが多かった。  でも、今の由香は苦しそう。  わたしさえいれば、汗をふくことができたのに。ひとりぼっちにして、さみしい思いをさせることもなかったのに。ごめんね、由香。  それはそうと、夫はどうしたんだろう。扉に、不安でいっぱいのまなざしを送ったら、静かにあいた。  あらわれたのは、髪のみじかいあの女性。きつく感じた面ざしは完全に影をひそめ、心配の色が濃い。セーターを軽くまくった手にはおぼん。小ぶりな白の器と、木のスプーンがのっていた。  ひょっとして、結婚したのかも。左手のくすり指に目をやれば、指輪があった。  新しい母親は祈るような目をして、由香の口もとにスプーンをもっていく。  あ、すったりんごだ。  由香は、さじをそっと唇ではさんだ。大きくなったと思っていたが、赤ん坊だったころのおもかげと重なる。なつかしさのあまり、わたしは頬がゆるむ。  新たなリンゴがさし出された。 「はい、どうぞ」  新しい母親も、わが家のやり取りにすっかりなじんでいた。 「ありがとう」  娘はまた、さじを口にふくむ。細めた目が、きれいなカーブを描く。  新しい母親にも、笑みがうかんでいた。本当にやさしげで、やわらかな笑顔だった。  知らない人が見れば、じつの親子が笑いあっているように思うだろう。  普段から、親切に接してもらっていることがよくわかる。  由香、かわいがられているんだね。 「よかった」  涙のまじった声が、息にあわせてこぼれた。  熱でぼうっとするのか、由香が弱い目を宙にうかせた。  でも、次のりんごをみとめると、またにっこりとほほ笑む。わたしに見せた笑みを、由香は今、新しい母親にもむけている。  涙でぼやける二人を、うっすらとした(もや)が徐々におおう。以前にも増して、娘の顔を見る時間がみじかくなっている。  もしかすると、由香に会えるのは、これで最後かもしれない。  不意によぎった黒い予感に、息が詰まった。  わたしが由香にかけた最後の言葉は、怒りにまかせたものだった。ひどい思い出を残したことをあやまりたい。  だけどわたしは、娘となにも言葉を交わさず、消えてなくなる。  消えて……、なくなる……。  ゆっくりと口の中でつぶやき、強く頭をふった。  わたしのことなんて、もういい。わたしが見守るのは、これでおしまいでかまわない。だって、夫も娘も、三人での生活を順調に踏み出しているのだから。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!