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由香はふっくらとしたふとんに、首までうまっていた。頬が赤い。額やこめかみに、汗がうっすらとういている。心地が悪いのか、しかめた顔が痛々しい。一人きりで、心細いのかもしれない。
また風邪をひいたのかしら。額に手を当てようとしても、決して由香には届かない。わたしの手のひらは空を切るばかり。
あんなに熱に弱い子だったかな。赤ん坊のころは、四十度近くてもケロッとしていて、こっちのほうが気をもんでぐったりすることが多かった。
でも、今の由香は苦しそう。
わたしさえいれば、汗をふくことができたのに。ひとりぼっちにして、さみしい思いをさせることもなかったのに。ごめんね、由香。
それはそうと、夫はどうしたんだろう。扉に、不安でいっぱいのまなざしを送ったら、静かにあいた。
あらわれたのは、髪のみじかいあの女性。きつく感じた面ざしは完全に影をひそめ、心配の色が濃い。セーターを軽くまくった手にはおぼん。小ぶりな白の器と、木のスプーンがのっていた。
ひょっとして、結婚したのかも。左手のくすり指に目をやれば、指輪があった。
新しい母親は祈るような目をして、由香の口もとにスプーンをもっていく。
あ、すったりんごだ。
由香は、さじをそっと唇ではさんだ。大きくなったと思っていたが、赤ん坊だったころのおもかげと重なる。なつかしさのあまり、わたしは頬がゆるむ。
新たなリンゴがさし出された。
「はい、どうぞ」
新しい母親も、わが家のやり取りにすっかりなじんでいた。
「ありがとう」
娘はまた、さじを口にふくむ。細めた目が、きれいなカーブを描く。
新しい母親にも、笑みがうかんでいた。本当にやさしげで、やわらかな笑顔だった。
知らない人が見れば、じつの親子が笑いあっているように思うだろう。
普段から、親切に接してもらっていることがよくわかる。
由香、かわいがられているんだね。
「よかった」
涙のまじった声が、息にあわせてこぼれた。
熱でぼうっとするのか、由香が弱い目を宙にうかせた。
でも、次のりんごをみとめると、またにっこりとほほ笑む。わたしに見せた笑みを、由香は今、新しい母親にもむけている。
涙でぼやける二人を、うっすらとした靄が徐々におおう。以前にも増して、娘の顔を見る時間がみじかくなっている。
もしかすると、由香に会えるのは、これで最後かもしれない。
不意によぎった黒い予感に、息が詰まった。
わたしが由香にかけた最後の言葉は、怒りにまかせたものだった。ひどい思い出を残したことをあやまりたい。
だけどわたしは、娘となにも言葉を交わさず、消えてなくなる。
消えて……、なくなる……。
ゆっくりと口の中でつぶやき、強く頭をふった。
わたしのことなんて、もういい。わたしが見守るのは、これでおしまいでかまわない。だって、夫も娘も、三人での生活を順調に踏み出しているのだから。
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