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「由香。いいかげんにして。そろそろ機嫌なおしなさい」
怒っても、娘が笑顔にならないとわたしは知っている。しょげて、ちぢこまるだけだ。思った通り、娘の返事はか細く途切れがちで、車のエンジンの音にまぎれて消えそうだった。
「だってママ……。おそかったんだもん……」
「仕方ないでしょ。仕事なんだから」
またもわたしは、後部座席にとがった声を送ってしまう。
ここ最近、保育園へのお迎えがおくれるのは、電話のせいだ。終業まぎわになると、まるでその時間を狙ったかのように入るあの電話。
お客のふりをした男性が、言いがかりをつけてくる。ねばっこいしゃべり方で、すぐにまたかとわかる。強く言い返すことのできないコールセンターの係員を的に、悪意の矢を放つクレーマー。
今日はたまりかねて上司にお願いした。ブラックリストに入れ、本社対応にしてもらえないかと。
面倒な申し出だったのだろう。顔をゆがめて即座に断られた。
「キミ。文句があるなら契約を切るぞ」
派遣社員への露骨な脅しに、わたしまで顔がゆがみそうだった。
「変な電話を上手くこなすのも、コールセンターの仕事だろうが。対応マニュアルがあるんだから、ちゃんとやれ」
これで終わりとならず、くだらない説教が延々とつづき、その男性顧客との過去の通話内容を細かく記せと命じられた。大急ぎで書き上げ提出したが、こんなものは無駄。報告書なんて誰にも読まれず、シュレッダー行きなのだから。
不毛な残業を済ませ、郊外の職場を出たら渋滞が待っていた。保育園に着いたのは、七時半をまわったところ。夏の空は、わたしの気持ちを映したかのように、明るさを失っていた。
「由香はもう、五歳のお姉ちゃんだよね。ちょっと待つくらい、平気なはずよ」
「がまんしたけど、さみしかったの……」
ああ、もう。ぐずぐず言わないで。わたしのほうがずっとがまんしてる。
クレーマーからの電話。顔も見たくない上司。急いでいるのに、列になって動かない車。どれもこれも腹立たしい。
「今日はいやなことばっかりだったの。由香までママを困らせないで」
「でも……」
娘の小さな反論に、怒りが一瞬で噴きあがった。衝動を抑えることができず、由香にむけて思い切り首をひねった。今、運転中なのに。そして大声。
「うるさい」
声を荒げてすぐ、背すじが冷えた。しまった。こんなの八つ当たりだ。わたし、なにやってるんだろう。言いすぎたと反省したのと、由香が叫んだのが同時だった。
「ママッ」
大音量のクラクションが鼓膜に突き刺さる。
あわてて顔を前にもどせば、ダンプのグリルがフロントガラス一面に広がっていた。ナンバープレートの文字がくっきりと見える。なにもかもが、いやにゆっくりと動く。
わたしは死ぬんだ。
直感とともに、世界が黒くなった。
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