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誕生日が来る前に
恋人の髪は、秋の匂いがした。
× × ×
次の週末は何処に行こうか、と2人で相談して、訪れたのは秋の山だった。
色とりどりの木々に囲まれながら、整備された遊歩道を歩く。ゆうは辺りを見渡しながら写真を何枚も撮影している。何でも次の大学内イベントの為に必要な資料なのだと言う。
ゆうは大学病院で医療従事者として働く傍ら、院生として日夜研究に明け暮れている学生でもあった。一方で就職活動していた俺は心の中で燻っていた職人への道を諦めきれず、専門職の仕事を見つけ、染物と和裁の工房で働いている。見習いのうちは身入りが少ないが、元ヨメからの慰謝料がまだ残っていて生活には苦労しなかった。
いつか親父の呉服屋再建を…なんて大それたことは難しいけれど、日々充実している。そしてどうやら俺にはサラリーマンという生き方が性に合わないらしい。
俺が就職してから同じ日に休みが取れるのは久しぶりのことで、景色と共に掛け替えのない時間を過ごしていた。
「へぇ、綺麗なもんだな…」
「そうだね。あ、あっちには銀杏の木がある!」
「はしゃぎすぎて転ぶなよ?」
カメラ片手に子供のように駆けていく恋人の後ろ姿を眺め、何度か深呼吸をする。先日大喧嘩したのが遠い昔のように思えて、ふと夫婦と言うものは、こういう事の繰り返しなのだろうかと思った。ゆうの向かった先へと俺も足を向けて、巨大な銀杏の木を見上げる。
ひとひら落ちてくる銀杏の葉を一枚掴まえて、指先で茎を摘まみくるくると弄ぶ。その色は鮮やかな黄金色だ。赤く色づいた紅葉も捨てがたいが、色の変わった銀杏も本当に綺麗だと、心から思う。
「まこ!」
「ん?」
カメラを首から提げて、声を掛けてくる深友の方を見る。パシャ、とシャッターを切る音が聞こえ、自分の写真が撮られたのだと数秒遅れで気が付いた。そのままにこやかに笑いながらこちらにやってきて、俺の頭をちらりと見上げる。
「へへ…いい顔もらった。やっぱりイケメンだな」
「スマホで不意打ちなんて卑怯だ…!」
「これは僕のアルバムに入るだけだから大丈夫。あ、葉っぱついてる」
「そうか?」
髪の上で着地した銀杏の葉を取ろうと手を伸ばした隙を見て、ゆうの手首を掴む。そのまま銀杏の木に背中を押し付けて、驚く顔を見下ろした。
こういうの、学生時代に憧れてたんだ。
「どっ、どうした…?」
『きょとんと見上げる深友の顎を指先で摘まみ、上を向かせる。誠人はそのまま深友の唇に緩く噛み付いて、舌先で撫でた。唐突な出来事に目を白黒させて、口を開こうとするが開いた瞬間食べられそうな気がして、深友は必死に口を閉じることしかできなかった。』
そんなナレーションが頭の中で流れてきそうで、目の前にいる深友しか視界に入らなくなった。
「んっ…んぅ…」
「…深友、じっとしてて」
×
低く通る声が耳元で囁いている。
先程とは打って変わった優しいキスを何度も何度も繰り返されると、今度は熱の籠った声で囁かれる。何が何なのか分からずにようやく口を小さく開き、深く息を吐く。心臓はドコドコと煩く鳴り響き、もしかしてこれがアオカンと言うやつなのでは、と思い起こして(後で違うと知った)顔から火が出てきそうな思いだった。
僕自身が思っている以上に、自分の顔は紅葉のような赤い色に染まっているのだろう。目の前に年相応の格好良さを持った恋人の顔が間近にあって、僕は急に恥ずかしくなった。
「まこ、えっと、あの」
「明日はおまえの誕生日だろ?」
「明日…って、うん…そうだけど」
「週明けから学校に行って、また暫く忙しくなる。だからその前に、」
「え!?それって、その」
「ぷ、プレゼントみたいなもんだ…!俺の給料、まだ入らないし…」
まこは僕の額にデコピンを喰らわせて、恥ずかしそうに背を向ける。そのすぐ傍で、色づいた銀杏の葉が風も吹かないのにひらひらと舞っていた。とても綺麗で絵になる光景に、スマホを構えるのを忘れてひたすら自分の目に焼き付けた。
「誠人!」
名前を呼び、誠人の背中に抱きつく。肩が跳ねるのを見て、してやったりと笑いそうになる。
「…何だよ」
「もういっかい、して?」
× × ×
体格差は縮まったのに、俺と同じくらいのガタイなのに可愛くて仕方がない恋人。そんな奴に強請られたら、断る理由など微塵も無かった。
「覚悟しろよな」
「…っ、あ…」
「声、抑えて」
「無理、っ…!」
深友の首筋に鼻を埋め、敏感な項を舌先で舐める。息ができず溺れてしまいそうなくらい、俺は深友を愛しているのだと自覚していた。片思いから一転し、ようやく結ばれた俺たちに怖いものなど何もない。こうして2人きりの時間を重ねる度に、またひとつ恋人の秘密を暴くようでゾクゾクしてしまう。顔を近づけると恥ずかしそうに目を伏せて、睫毛を揺らす癖は数日前に知ったばかりだ。
銀杏の木の下で部位問わず何度もキスをしてから、まだ足りないとでも言うように再び唇を塞いでしまう。
これ以上はマズいと判断したのか、ゆうが俺の背中を何度も叩いた。
「…何と言うか…まこからしてもらうの凄く恥ずかしい…」
「俺はゆうに貰ってばかりだから、少しでも…その、喜んでもらいたくて」
「…君に見つめられて興奮しない訳ないだろ」
ぶっきらぼうな口調でゆうが答えると、勝ち誇ったかのような笑いが漏れてしまう。ゆうの頭をわしわし撫でて、ちくしょう、と悪態をつく。
俺の恋人が可愛い過ぎる。
行楽シーズンになると観光客で賑わうこの一帯や宿泊施設も、まだ一足早いからなのか閑散としていた。静まり返った山の中に、2人の息遣いだけが聞こえるようだ。
「まこは旅館着いたら何がしたい…?」
「部屋についてる露天風呂に入ろう。あとはそれからだ」
「君がナニ考えてるのか当てようか」
「多分おまえも一緒だろ」
お互いニヤリと笑い、ゆうの腰に手を回して抱きしめる。するとゆうも俺の耳元に唇を寄せて囁いた。
「…今夜は寝かさないからな」
それはこっちの台詞だろ。
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