難破船

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難破船

 薄暗い部屋の中はしんと静まり返って、誰もいないかのようだった。  それでもシングルベッドの反対側から聞こえる寝息に、彼はまだ目が醒めていないのだと安堵する。周りが静かな分、二人分の呼吸音がやけに大きく聞こえるようで、寝返りを打って横向きになり、指先に触れる温かさに目を細めて名前を呼ぶ。 「まこ、寝てる…?」 「……」 「…寝てるなら、いいや。これは僕が勝手に喋ってることだから、気にしないで」  10年越しの親友から恋人へと関係性を深めた彼に背中を預けると、体温が肌に触れてじんわりと温かさを伝えてくる。規則正しく動く胸の動きがダイレクトに伝わってきて、妙に安心する心地よさを感じた。昨夜あれだけ喧嘩したのに何故だか嬉しくなってしまい、ゆっくりと口を開く。 「…君が遅くに帰ってきたのは知ってる。僕が誠人に八つ当たりして、酷いこと言ったのに帰って来てくれた。本当は自分が出ていかないといけないのに…僕は最低な奴だな」  前途多難な航海の先に、暗雲が立ち込めていた。 ×   ×   ×  小さくため息をついて、一度言葉を区切る。  あのボトルメールがきっかけで想いが重なり合ってから、僕たちは住んでいる部屋を行き来するようになった。泊りがけで遊ぶようにもなり、同じベッドで朝を迎える日も増えていく。沢山のはじめてを二人で共有して、この上ない幸せを噛み締めていた。  そんな中、些細な事が切っ掛けで喧嘩になってしまった。その上お互いが知らない相手の十年間、空白だらけの過去が不安と疑心を呼んでしまう。  発端は誠人の部屋に来ていた僕がたまたま卓上に置いていたノートに、彼がコーヒーを零してしまったから。自分の不注意で申し訳ない、と謝るまこに、僕はきつく当たってしまったのだ。困っていた彼は落胆していたけれど、何故それだけで激怒するのか理解できなかっただろう。そこまで汚されて困るものなら、自分の部屋には持ってくるなと悲し気に笑っていた顔が脳裏から離れない。  また汚してしまうかも知れないから、と追い打ちを掛ける誠人の言葉に、僕は泣き出しそうになるのを必死に堪えて「もう帰る」と言葉を返した。これ以上、彼の顔を見ているのは苦しいから。しかしとうに陽は沈み、窓の向こうには闇しか広がっていない。そして、自分が出ていくからお前は残れ、と誠人が部屋を飛び出してしまった。暫く経っても、彼からの着信音や帰宅の合図であるドアチャイムも鳴らなかった。ただ一人残されたがらんどうになった部屋には、自分が海に投げたボトルメールが置かれたままで、あの頃から純真な彼は何も変わっていないのだと自覚する。変わってしまったのは自分だけで、関係性は変わらず親友でいられたらどんなに気が楽だっただろう。丁寧に保管されていた硝子のボトルは色褪せず、ヒビ一つ入っていなかった。手紙と一緒に入れたペアブレスレットの片割れは、いい加減買い直すと言ったのに未だに彼の腕で鈍い光を放っていた。自分の右腕につけた対になっているブレスレットをなぞり、また溜息をつく。  高2の夏休みに小遣いを貯めてこれを買ったことを、不意に思い出した。シルバーでできたペアブレスレットで、当時学生たちに人気だったデザインだ。あの時の僕は…もっと子供っぽかったのに、かなり大胆な行動をしたと今更ながらに思う。 「…本当に馬鹿だ、僕は」  誠人の住んでいる部屋なのに、片付けをしていなかった自分が悪いのに、怒りに任せて怒鳴り散らすなんてどれだけ子供じみているのかと後悔した。連絡したいのに意地を張り、向こうから出ていくなら知らない、好きにすればいいとまで思ったが、時間が経つに連れて不安が高まっていく。コーヒーを淹れようとしても、空腹を紛らわす為に果物を切ろうとしてもいつの間にか失敗していた。  飛び出した弾みで事故に遭っていやしないか、自暴自棄になって本当に何処かへ消えようとしていないか、誰かにぶつかり因縁をつけられていないか。肥大する不安感は萎むことがなかった。あの空虚な日々を過ごすのは二度と経験したくなかった。急ぎ打ったメールの文面には『どうか帰ってきて』と懇願した謝罪のメッセージを書いて送ったが、返事はこないまま日付を跨いでしまった。  誠人のベッドに横たわり、彼の匂いを吸い込むと溢れるように涙が零れる。本当はノートが汚されたことよりも、彼に中身を見られていないか不安になっていた事の方が大きかった。長い間燻り、学生時代から変わってしまった感情をひたすらに綴った紙の束。失恋して引き摺って、一度誰かと結ばれた彼と今更再会し、恋人になってもお互い幸せになれるのだろうか。そんな不安が募ってしまい、書きなぐったそれは本人おろか誰にも見られてはいけないものだ。  だがそれを彼の部屋に持ってきたのは、心の何処かでそれを彼に知って欲しいと思っていたからなのだろう。『俺には深友しかいない』、その一言が聞きたいが為に。  気付けば何時の間にか泣き疲れ、眠っていたのか目元のシーツがひやりと冷たくなっていた。  それと同時に微かに玄関の鍵が回される気配がすると、僕は壁と向き合い寝ている振りをした。背中の向こうから衣擦れの音がして、ベッドのスプリングが軋む。直ぐに謝りたいのに、彼の顔を見たら何も言えなくなりそうだったから。 「…ごめん、深友。好きになってごめんな」  その言葉だけを残し、誠人が横たわり寝がえりを打つのが分かった。  ……それは僕が言わなきゃならない台詞だよ。 ×   ×   ×  会いたい、なんて言わなければ良かったのかも知れない。  泣き過ぎて腫れぼったくなった目元を手で覆いながら、ひとつしかないベッドに横たわる。背中の向こうで深友が深く息を吸って吐き出すのが分かった。 「…謝るのは僕の方。今更遅いかも知れないけれど、君がいないと何も手につかないのが分かった…。コーヒー淹れようとして熱湯被って火傷するし、林檎の皮剥こうとして指切るし…いつもはこうじゃないんだけど。僕は何もできない奴だ…」 「おまえはそんなこと言うなよ。……すまん」  自分でもどうすればいいのか分からず、ただ謝ることしかできなかった。今までどうやって生きてきたのかさえ、忘れかけていた自分に嫌気が差してしまう。しかし聞き捨てならない言葉を聞いた気がして、咄嗟にいろいろなものが吹き飛んだ。 「…なぁ。その話は本当か?」  背中を預けていた温もりに向かい合うため、ごろんと転がって深友の腰に腕を回す。まさか聞かれていたとは思わなかったのだろう、深友の顔は驚いたり恥ずかしがったりと忙しい。電気を消した暗がりでもよく分かる。 「んなっ、まっ…!まさか、起きて」 「火傷したってのは本当なのか?あと…包丁で指切った…?相変わらずそそっかしいな」 「……うん。どちらも大したことなかったけどさ」  仕方ない奴だなぁ。深友の掌を持ち上げる。切り傷が塞がりかけている人差し指を見つけ出し、その指先を口に含んだ。      昔、よく深友が俺にしてくれたやつだ。 「ぅ……誠人?もう、出血してないから大丈夫だって」 「俺が大丈夫じゃない」  一度離した指を再び、つぷりと音を立てて舌先で舐める。    妙な気持ちにならないよう自制するのがやっとだった。全身の皮膚が泡立ち、今すぐにでもこいつの背中に爪を立てたくなる。舌先が過敏な傷口を撫でる感触に、深友は変な声を出さないようにするので精一杯のようだった。 「まこ…もう、いいって!ありがと…!それから…」 「ん…。大事なものなんだろ、あのノート」  深友の指を解放すると、彼はなんとなく満足そうに笑い身体を向かい合わせにした。真正面から深友の顔を見る。涙の跡が残っていそうな気がした。    × 「…悪かった。机の上、片づけようとして…まさかおまえのノート汚してしまうなんて思わなくて。たかが紙に何であれだけ怒るんだよって悔しくなったけど、俺もおまえのボトルメール割られたらそりゃキレるし…。顔合わせるのが恐くて、本当に暫く出て行ってやろうとしたけど、財布忘れて何処にも行けなかったんだ。情けないよな」 「ふふっ、なんだよそれ!でも、帰ってきてくれて…本当に良かった」  まこの前髪をなぞると、くすぐったそうに眼を細めていた。    あ、と何か思い出したのか、表情が和らいで自分の前髪を撫でていた僕の手を握る。 「そうだ。今日、一日俺に付き合え。それで帳消しにしてやるよ」 「えっ!?最近ずっと一緒にいるから、まこがそれで良いなら…」 「今日の夜、またあの祭りをやるんだよ。浴衣着て、一緒に花火を見に行こう」 「…そっか。それなら夜だけでも…」 「何ってんだよ。風呂に入って浴衣着つけして、それから屋台回ろうぜ。またあの公園で花火を見て…、キレイだろうな」  屈託なく笑う恋人に、つくづく自分は弱いと思う。わかったよ、と頷いて、僕は誠人の手を握り返した。    沈みかけた難破船は再び浮上して、また穏やかな海を漂うのだろう。窓の外から差し込んでくる一筋の陽の明かりが、僕らを優しく照らそうとしているのが見えた。
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