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「ひさしぶり!」
街で声をかけてきたのは若い男性。うーん、どこかで見覚えがあるような、ないような。知り合いを装ったナンパの手口かとも疑ったけれど、あいにくそう断定できるほどの記憶力は持ち合わせていない。もし小中学校あたりの同級生だとしたら、むしろ覚えていない方に自信がある。とりあえず、軽く会釈を返して相手の出方を伺ってみる。
「あれ? ミキさんだよね? 違った?」
ほう、私の名前を知っているということは、どうやら思いつきのナンパ術ではないらしい。しかし、そうすると今度は詐欺のセンも出てくる。油断はせず、ゆっくりと頷いた。
「だよね〜! 元気してた?」
「ええ、まあ……」
ずいぶんと気安い。それだけフランクな会話ができる間柄だということだ。となると、私が一方的に忘れていることがバレたら一気に関係性が壊れる可能性がある。まずい。ますます迂闊な返事ができなくなった。
「いや〜、それにしても変わらないねぇ」
「そうかな。ありがとう」
適当に返事をしつつ、記憶のアルバムに一致する人物がいないかどうか相手をよく観察する。……うーん。顔は割と好みのタイプだけど、服のセンスがズレてるのはいただけないな。いくら80年代ファッションがリバイバル中だからといって、さすがにケミカルウォッシュはやりすぎだ。髪型もなんだか昔のアイドルみたい……って、違う違う。誰なのか思い出さなきゃ。……よし、こちらから情報を引き出そう。
「えっと、何年ぶりかな?」
我ながら会心の質問。小中高大、社会人。これでどの年代の知り合いなのか大まかに特定できる。……と思ったのだが。
「んー。どうだろ。忘れちゃったな」
なんとも歯切れの悪い返事。ひさしぶり!って声かけといてそれはないでしょ。
「それよりさ、これからどこ行くの?」
「……今から家に帰るとこ」
その私の声にはあからさまな苛立ちの感情が乗っていた。そう、私は今非常に機嫌が悪いのだった。
「え、なに。どうしたの?」
「別に」
どうもこうもない。デートの待ち合わせ場所で自分の彼氏が他の女と談笑している場面に出くわしたのだから、機嫌が悪くて当然だ。私はその場で踵を返し、鼻息荒く帰路についているところなのだ。
「そう! なら、これから一緒に遊びに行かない?」
……めげない男だ。
「ごめんなさい。今そういう気分じゃなくって」
「なら、ますます気分転換しなきゃ! このまま家に帰ったって、ずっと嫌な気持ちのままだよ?」
「それは……そうかもしれないけど」
「じゃあ決まりだ! 行こ行こ」
強引に手を引かれた。でも、意外と嫌な気持ちはしなかった。この人には不思議と親近感が湧く。やっぱり知り合いなのだろうか。話しながら思い出さないといけない。
「行くってどこに?」
「それは……まだヒミツかな。オススメの場所があるんだ」
言われるまま彼についていく。進行方向とは逆、つまりさっき引き返してきた道をまた戻っていく。繁華街がそっちにあるのだから、それはそうだろうと思った。しかし。
「えっ……ここなの?」
「そうだよ」
着いたのは商業施設のたくさん入ったビル。どうして、よりによってここなのか。
「ねえ、別の場所にしない?」
「ダメだよ。もう行くところは決まってるんだから」
たしかに、このビルにはここらで最も多くの店舗が入っているのだから、彼の目的の場所がこの中にあるのは確率的に考えれば仕方のないことだ。でも、ここだけは都合が悪かった。だって、彼氏と待ち合わせをしていたカフェもこの中にあるのだから。
「ねえ、やっぱり……」
「行こ!」
私の言葉を遮って、彼が今まで以上に強引に手を引っ張ってエレベーターへと連れ込んだ。押したボタンは五階。ダメ、そこはダメだ。他の階ならまだしも、よりによってカフェのあるフロアだなんて。そんな私の気持ちなど知らないエレベーターは高速でビルを昇っていき、扉を開いた。
「!」
居た。
彼氏はいまだにカフェの前で知らない女と話し込んでいた。……最悪だ。
「……おっ、やっと来た!」
彼氏は私を見つけると、女から逃げるように早足でこちらへ向かってきた。その表情には安堵が見て取れた。
「……なあ、助けてくれよ。あの女の子しつっこいんだ」
そっと私に耳打ちした。……一体どういうこと? もしかして私、何か勘違いしてた?
「え〜、待ってくださいよ〜。もっと色々お話聞きたいなぁ〜」
甘えるような声で女が追ってくる。どういうつもりか知らないけど、これは私の彼氏だ。やめさせなきゃ。
「おい、そこまでにしとけ」
両手を広げて女を静止したのは、私でも彼氏でもなく……誰だか思い出せない彼だった。
「えっ、お兄ちゃん!? なんでここに?」
「なんでって、お前を追いかけてきたんだよ、バカ!」
この二人が兄妹? 何がなんだか状況が掴めない。二人は小声で何かを言い争っていたが、だんだんヒートアップして声のボリュームが上がってきた。
「いいから帰るぞ!」
「え〜、まだ話したいことたくさんあるって〜」
「バカ! お前が父さんと話し込んだせいで母さんがデートすっぽかすところだったんだぞ! 見ろよこれ!」
私の位置からは距離があってよく見えなかったが、そう言って妹に見せた手は少し透き通っているように見えた。妹はそれを見て顔をみるみる青ざめさせた。
「いや本当にお騒がせしました! それじゃ、また!」
言って、誰だかわからない兄は妹の手を最大限に強く引いてその場から駆け出した。突き当りの曲がり角へと消えた。
「……なんだったんだ、あれ?」
彼氏が私の隣で呆然と立ち尽くして言った。私も同じ気持ちだった。それからしばらくして、彼氏が思い出したように「遅かったな」と言ったので、私は彼の頭をはたいた。
「何すんだよ」
「知らない女といつまで話し込んでんのよ」
「しょうがないだろ。……なんか他人のような気がしなかったんだよ」
「あっそ」
もっとも私も人のことは言えなかったので、この話はこれっきりで終わった。
※ ※ ※
……と、そんなことがあったなぁと、私は分娩室で一仕事終えて思い出した。
「ミキさん! ほら、産まれましたよ! 元気な男の子と女の子!」
それはきっと、助産婦さんが抱いた双子の赤ちゃんの顔を見たからだろう。彼の忘れ形見。うん、お父さんに会いたかったんだよね。私は二人に笑顔を向けて言った。
「ひさしぶり」
-おわり-
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