サラブレッド

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 前後左右に騒々しい人、人、人。梅雨が去って湿気をどこかへ飛ばし乾いた空気。先月の誕生日で三十路の旅を終えた不惑の俺の首筋に容赦なく差す日差し。芝生の鮮やかな緑。キャップを忘れてきちまった頭がクラクラとする。あぁ、この感じはあれか、いつかボートで勝った気まぐれで息子を連れて行ってやった芦屋の浜辺か、いや、前の女房と出会った野外ライブか、ははっ、何十年前だそりゃ。  次の瞬間、高らかに鳴り響いたファンファーレが、過去へ馳せる俺の意識の首根っこを掴み現在に引き戻す。  小倉競馬場のゴール前ではにわかに群衆のざわめきが大きくなる。大型ビジョンに続々と馬たちがゲートに入る様子が映し出されている。俺はもう一度緑の美しい芝を見る。『良』だ。問題ない。本日のメイン重賞十一レース。今日のここまでの収支はマイナス六千円也。散々だ。が、しかし、ここで勝てばなんの問題もない。競馬なんてのはこのメインレースが全てだ。ここで全てひっくり返す。借金も返す。いや、利息を払う。とりあえずあれだ、酒を飲む。  俺はマーカーで細かく印を付けた競馬新聞を改めて凝視する。うん。問題ない。絶対に勝てる。それにしても学生の頃はノートも教科書も見事に生まれたての美しい姿のままだったこの俺が、こんなにマメな書き込みをするなんて大したもんだ。人間やりゃあできる。出走馬の名前は勿論、体重、得意距離、ここ数レース分の順位等々全てインプットできる今の脳みそなら、歴代大統領の名前程度簡単に暗記できそうなもんだ。それくらい出来りゃもうちっとはマシな人生だったかもしれねえな。  少し荒れていた十七頭目の馬がようやくゲートに入った。俺はビジョンに目をこらし新聞を強く握りしめる。そして反対の手で『単勝:四番ドゲンシタト』と印字された馬券を、ジャージのポッケから取り出し顔の前に持ってくる。頼む。頼む。頼む。勝ってくれ。お前ならできる。頼む。頼むぞ健司!  スターターの右手が天高く挙げられ、ゲートが開く。同時に、俺の命運を握る十七頭の馬達が地面を鳴らして一斉に駆け出す。わっ、という一瞬の破裂音のような歓声が轟く。俺の後方から「二番出遅れたあぁ!」という悲鳴とも怒声とも取れる声が聞こえる。あらあら一番人気の逃げ馬なのにな。いくら突っ込んだか知らんがご愁傷様だ。  千八百メートルの中距離レース。各馬達は一度このゴールの前を通過し、芝を一周してこの俺の目の前で決着をつけることとなる。地鳴りが大きくなり馬達がこちらに迫ってくる。四番、四番はどこだ。後半得意の差し馬とはいえ、いい位置を取れているか。ちゃんと遅れずにスタートできているのか健司。  馬達がこの一度目のゴール前を通過していく。目の前でバカでかい声で叫んでいる、上下ジャージの若い男の後頭部が、ちょうど俺の頭と同じくらいの高さにあるせいでよく見えない。くそっ、どけ。邪魔だ。でけえよこの兄ちゃん。  頭を左右にふりふりようやく目視できた馬の団子の中に愛しの四番ドゲンシタトちゃんはいた。現在六番手くらいだろうか。よし、まずまずいいぞ。もうしばらくその位置にいろ。  十六頭の団子と、少し遅れた二番の馬があっという間に目の前を通過して遠ざかっていった。俺も、周りの連中も一息つく。うん。スタートは問題ない。さあ、ここからだ。長い戦いの始まりだ。頼んだぞ健司。俺の未来、俺の今夜から給料日までの生活費一万円丸ごとお前に託したんだからな。 『ドゲンシタト』この馬に俺は一万円を賭けた。十四番人気でオッズは三十倍以上。当然、当たればデカイがはっきり言って見向きもされない馬だ。しかし、俺はあえてこの馬に全てを託した。  勝ち数も少なく、中距離もあまり得意ではない、直近の順位も七位、十位、八位と酷いものだ。特筆すべきところがあるとすれば父馬がG1馬だった『ニワカヂカラ』であることと、その父親の父、つまり祖父に当たる馬が伝説の『サウスシーエンペラー』であることくらいだ。しかし、馬の世界では父方の血はあまり重要視されない。優秀な種馬ってのは、実に羨ましいことにどいつもこいつも雌馬に種付けしまくってやがるのでそこかしこに子孫だらけだ。なので基本母親や母方の祖父が何者であるかの方が注目される。だからちょっとばかり父方の血が優秀でも、なんの意味もない。  しかし俺は信じている。父親の力を、祖父から息子へ、息子から孫へと受け継がれる神秘の力を。ドゲンシタト、お前にはサウスエンペラーの血が流れているんだ。信じろ。あの伝説の復活劇、奇跡のレースを起こしたてめえのジジイと、それを繋いでくれたオヤジを、俺は信じてる。だからてめえも、てめえ自身を。信じろ。  そしてもう一つ、俺がこいつに賭けた大きな要素。それが騎手だ。  そいつの名は『田丸健司』別に大した騎手じゃない。戦績も良くて中の下。メインの十四番人気に騎乗するに相応しい凡夫だ。でもこいつは、今日必ず勝つ。そう運命が決まっている。なぜならこいつは俺の息子と同じ名前だからだ。  笑いたきゃ笑え。でも覚えておけギャンブルの本質は閃きだ。直感だ。運命だ。しこたまかき集めたデータを元に組み上げたロジックを全てぶっ壊すほどの閃きが己に降りたならそれに従え、全てを賭せ。それがギャンブルってもんだ。  今日は息子の誕生日だった。二十年前の七月十七日に生まれた俺の息子健司は、俺の中では六歳の姿で止まったままだ。あぁ別に死んだわけじゃねえぞ。会ってねえんだ。小学校の入学式をすっぽかして競艇に行って、四月分の給食費まで全部スッて家を追い出されたあの日以来、会わせてもらってねえんだ。まあしゃあねえよな。女房の怒りもっともだ。  そんな愛しの息子の誕生日に同姓同名の騎手が俺のホームタウンである小倉のメインレースを走る。これはもはや運命なんてヌルいもんじゃねえ天啓だ。天神様が俺に勝てと言ってんだ。ここでツッパんねえ奴はギャンブラーじゃないだろ。  ちなみにこいつは何も本物の息子ってわけじゃない。赤の他人だ。まず顔が違う。次に身長がありえない。俺は日本人男性の平均身長をはるかに上回る百八十五センチを誇るなかなかの大男で、息子である健司も今頃はそれに近い身長になっていることだろう。まあ俺の中では百センチくらいで止まったままだが。ともかく、少々の誤差はあるだろうが平均百六十センチのジョッキーの世界に息子がいることは考えにくい。そして何より『田丸健司』の『田丸』は俺の苗字だ。嫁の苗字になっているであろうあいつはもう俺の息子の『田丸健司』じゃねえんだ。  でもそれがどうした、記憶の中の息子と同じならそれで十分だ。俺はこの健司に生活の全てを託す。さあやってくれ健司!  十七頭の馬たちは第二コーナーを回りちょうどこのゴールの向こう正面を走っている。残り八百メートルといったところだ。ぼちぼち団子は千切れ、引き伸ばされ、馬どもに差がついてきている。四番は……いた。俺の未来を載せたドゲンシタトは先頭から七番手でやや外側を走っている。いいぞいいぞ。その位置なら最終から十分捲れる。まだ足も残せている。それにこの馬は差し馬だ。こいつは本当に可能性が出てきた。  俺は馬券をさらに強く握りしめる。その右手首には半年前、藁にもすがる思いで買った金運ブレスレッド。パチスロ情報誌の裏に載ってたやつだ。こいつのおかげでこの半年、金運女運が上がりまくってるハズだがいまだにその兆しは見えていない。だから今日こそは頼むぞ。一万二千八百円(税込)もしたんだ。ホント、頼むぞ。マジで。  馬たちはいよいよ第三コーナーを回りグングンとこちらへ近づいてくる。それに呼応するように観衆の声も熱を帯びていく、自分の張った馬の躍進、思わぬ苦戦、そんな畜生の気まぐれに踊らされる俺たちギャンブラーの悲喜交々の声が、昼下がりの小倉の空に渦巻いていく。第四コーナーに差し掛かり騎手が鞭を入れ始める。歓声は一段と大きくなり、もはや怒号と化す。きたきたきた!これぞ競馬だ。本場イギリスのホースレーシングが貴族の娯楽なら、こちらジャポンの競馬は俺たち庶民のタマの取り合いだ。刺すか刺されるか、いや、差すか差されるかの真剣勝負だ。俺はこの瞬間の為に生きてる。この瞬間の為に毎日粉塵に塗れて八時間以上の肉体労働をしているんだ。いけ!こい!!健司!!!  興奮した俺はたまらず前にいた連中を押しのけるようにして最前のフェンスにしがみつく。さんざその後頭部で俺の視界を奪ってくれた兄ちゃんが隣で迷惑そうに一瞥をくれるが知ったことか。馬見ろ馬。  先頭集団が最後の直線に入った。蹄が芝生を駆ける音が大地と大気を揺らし地鳴りのように心臓を殴る。トップは五番。次が十二番。そして三番手に……四番ドゲンシタト!キタキタキタアアアアアア!!  残りもう三百メートル。トップの五番との差は二馬身も無い。差せる!差せるぞ!いけ!差せ!健司! 「健司ーーー!!!差せーーーー!!!!!」  と、俺はいつの間にか大声で叫んでいた。  刹那。真夏の太陽と歓声、そしてゴール前で息子の名を叫ぶ己の姿に一瞬だけ遠い記憶の俺自身が重なる。十五年ほど前の保育園の運動会、昼のビールに気持ちよくなっちまった俺は小さな運動場で息子の名前を叫びまくった。まるでガキの頃の俺のようにベソかきの甘ったれだった健司は徒競走のスタート位置でグズグズと泣いていて、だから俺は励ましてやろうと思って叫んだんだが、保育士の姉ちゃんにちょっと怒られた。仕方ねえからその姉ちゃんの尻を見てたら隣の女房に睨まれた。  だけど俺だって別にヤジりたかったわけじゃないんだ。俺の親父、つまり健司の祖父は、ほとんど家にいなくてたまに帰ってきたと思ったらお母ちゃんぶん投げて生活費をふんだくってパチンコ屋へ消えていくようなロクデナシだった。もちろんてめえの息子の運動会になんて来るわけがなかった。俺はそれがいつも心細かった。寂しかったんだ。だから泣いている健司に「心配すんな!親父はここにいるぞ!!」って言ってやりたかったんだ。それは本当だ。  しかしいざスタートしたらあいつは立派に走った。ほんのわずかな距離だったがそのみじっけえ手足を不器用に振りながらあいつは精一杯走った。だから俺も精一杯叫んだんだ「差せ健司!!!」と。叫びすぎて女房には後でしこたま怒られたが。それで……あぁ、そうだ。俺は走り終わったあいつを力一杯に抱きしめたんだ。順位なんかどうでもよかった。いつまでも女房の乳ばっかり吸ってたあいつが、健司が、必死に走ったその姿に俺は……クソ、こんな時に何思い出してんだ。そんな日々を全部捨てちまったのは俺じゃねえか。俺にはもう過去を懐かしんでる余裕はねえ。そんな権利もねえんだ。  滲んでしまった視界を競馬新聞で拭ってもう一度目の前の現実に目を凝らす。もう残り二百メートルを切った。いつの間にか健司は二番手に上がっている。トップの五番の馬とはもう半馬身差だ。 「いけ!差せ!健司!お前ならやれる!絶対大丈夫だ!お前なら勝てる!俺がついてるぞ!お前の親父はここにいるぞ!!」  俺は汗だか涙だか涎だか鼻水だからよくわかんねえものをぶちまけながら叫ぶ。そうさ、お前なら勝てる。お前なら絶対に勝てるんだ健司。俺や、オヤジのようにはならない。お前なら大丈夫だ。今どこでどんな風に生きてるのか知らねえけど、きっとお前なら俺達とは違う幸せな人生を送れるはずだ。お前なら、きっと。  残り百メートル。ついに健司がトップと並んだ。十四番人気の馬が起こそうとしている奇跡に歓声は割れんばかりに大きくなる。俺はもはや「健司ぃぃ……健司よぉおおおお」と嗚咽するように漏らしながらフェンスを掴んで立っているのがやっとだ。  そしてついに、健司が五番の馬を抜き去りトップに躍り出ようとしたその時、俺の後ろにいた誰かが叫んだ。 「二番だ!!!」  その声を合図にするように、歓声と悲鳴と怒号、それら全てがさらに一段大きくなった。えっ、と俺は目を凝らす。決死の追い込みでトップに立った健司、しかしそれを大外から捲らんばかりの勢いで猛追してくる馬の姿。そう、それこそが一番人気にして思わぬ出遅れを見せ、レース序盤、競馬ジャンキー共を落胆させた馬。『二番:スケサンブラック』だった。  本来逃げ馬であるはずのスケサンブラックが猛烈な勢いで健司に並ぶ。もうゴールは目の前。健司はその鞭を必死にしならせドゲンシタトを鼓舞する。  健司!健司!!健司!!!俺も必死に叫ぶ。が、もうゴールまでほんの十メートルといったところでついにスケサンブラックにかわされた。  俺は呆然としていた。そしてそんな俺の目の前のゴールをスケサンブラックが一着で駆け抜けた。次の瞬間大量の馬たちが続々とゴールに入る。きっと今この小倉競馬場は大歓声やため息に包まれていることだろう。が、俺にはもう何も聞こえなかった。こんなことが、こんなことが許されんのか。あんまりだろ。だって今完全に勝つ流れだったのにこれで負けるって、負けるって……なんじゃそれ。  俺はぼやけた視界で着順を示す電光掲示板を見る。四番ドゲンシタトは四着。健司は、最後の最後で他にも二頭の馬にかわされたみたいだ。終わってみればこんなもの。これがギャンブル。これが競馬。これが人生。わかっちゃいるんだ。わかっちゃいるけどよぉ。  もはや紙屑となった馬券を見つめ、そして引き裂いた。悔しい、悔しい、悔しい、クソッ、クソッ!思いの数だけビリビリに引き裂いてどんどん小さくなっていく馬券。そして、最後にそれらを全て発散させるように小倉の空へとぶん投げようとしたその時、隣の男が叫んだ。 「ッッだああああああ!!マジかよぉおおおお!!!今日は絶対四番だろおおおお!ふざけんなよマジでええええ!!!!」  あのでかい兄ちゃんである。そうか、この兄ちゃんも大穴狙いで健司に賭けてたのか。わかる。わかる。すげえわかる。と言って肩でも叩き、人生の、ギャンブラーの先輩として一杯奢ってやりたいくらいだが、あいにくそんな持ち合わせも義理もないので絡まれないうちにこの場から去ろう。と、その場を離れようとした俺の背に。 「クッソおおおおお………田丸健司……昔の俺と同じ名前だから賭けてやったのによぉ………」  えっ。  俺は思わず振り返った、その様子に気づいたのかうなだれていた兄ちゃんも顔をあげてこちらを睨む。 「あぁ?なんだよオッさ………」  兄ちゃんの言葉が止まった。俺を見るその顔が驚きのあまり固まっている。  同時に俺も固まってしまった。十五年経っていても、ジャージ姿でもわかる。そこにいるのは間違いなく我が息子。健司だった。 「健司……」  俺は声を絞り出す。 「オヤジ……?」  健司も十五年ぶりの父親の姿に気付いたようだ。目を見開いた顔のままこちらへ歩み寄ってくる。その顔には、怒りも喜びの感情も読み取れない。ただただ、目の前で起こった現実への驚愕だけだった。そして次の瞬間。 「すまなかった!!」  俺は自分でも驚いたことに頭を下げていた。開口一番自分の口からこんな言葉が出るなんて。  「健司。お前には、お前達には本当に迷惑をかけた。俺は最低な父親だった。今更許してくれなんて言わないが、せめて謝らせてくれ。本当にすまなかった!」  俺はおそらく人生で初めての心からの謝罪をした。自分ではこんなこと言うつもりなくても言葉が心から勝手に溢れてしまう。  健司は何も言わない。きっと困惑しているのだろう。十五年前に消えた親父が、いきなり目の前に現れて土下座せんばかりの勢いで謝罪しているんだ、無理もない。もしかしたら顔をあげたら健司の拳が飛んでくるかもしれない。だがそれでもいい。俺はそれだけのことをしてしまったのだ。受け入れよう。  覚悟を決め、歯を食いしばったまま顔を上げる。とは言っても怖い。やっぱ怖い。自分の息子とはいえ身長百八十超えの大男のグーパンチは怖い。ヒェ〜……と思いながら顔をあげた瞬間。飛んできたのは拳ではなく健司の体だった。抱き締められたのだ。 「ちょっ、え?」  思わぬことにフラつきながら、今度は俺が困惑する。そんな俺の体を再度強く抱きながら健司は言う。 「オヤジ……ずっと会いたかった。会いたかったよ」  耳元で健司の鼻を啜る音が聞こえる。あぁ、そうだ、そうだった。ベソかき健司はこうやって鼻を啜りながら泣くんだ。俺の肩、何度も鼻水まみれにされたっけな。 「健司……本当にごめんな」  俺はまるで優しい父親のように肩をぽんぽんと叩いてやる。  昔、いつだったけな。デパートでこいつが迷子になって慌てて探し回ってようやく見つけた時もこんな感じだった。こいつは、こんなにデカくなってもやっぱり健司のままだ。優しくて、泣き虫で、甘ったれで、すぐ迷子になって……。  俺はそっと、自分から健司の体を離す。うん。ジャージの大男が二人で泣きながら抱き合ってるのは目立つからな。 「なあ健司、怒ってないのか」  俺は鼻を真っ赤にした健司の両肩を抱いて尋ねる。健司はしばらく涙を拭っていたがやがて照れ臭そうに、はにかむような笑顔で答えた。 「別にいいよ。オヤジに会えたからそれで」  その顔は、昔とちっとも変わりゃしなかった。 「よし!じゃあせっかくだしなんか食うか!奢るぞ!牛丼なんかどうだ?」  健司と無事に和解した俺は屋内の方を指差して父親らしいセリフを吐く。メニューのチョイスに関しては我ながら情けない限りの言葉だが、あいにく折り畳めるタイプの金は全てこの十一レースに全て突っ込んじまったんだから仕方がない。帰りのモノレール代に残しておいた小銭をかき集めれば牛丼並くらいは買えるだろう。 「あっ、ちょっと」  意気揚々とフードコートに向かおうとする俺を健司が引き止める。振り返ると健司は大型ビジョンの方を凝視していた。そこには最終レースに出走する馬たちがパドックを歩く様子が映し出されている。競馬は基本十二レース、メインと呼ばれるレースは十一レース目だが、その後にもう一つレースがあるのだ。 「どうしたんだ?」  俺の声にハッと我に返った様子の健司は。改めてこちらの顔を見て、言いにくそうに言葉を絞り出す。 「俺、オヤジに会えて本当によかったと思ってる。昔のことも全然怒ってないし、だからその、ちょっとお願いがあるっていうか……」  言い淀みながらモジモジと下を向いた。あぁ、そうだ。そうだった。こいつは何か悪いことをした時や、わがままを言う時こうやって下を向くんだ。  そして大抵ろくでもないこと言い出すんだ。  俺は恐る恐る聞いた。  「……なんだ?」  健司は意を決したように頭を下げ、叫んだ。 「オヤジ!一生のお願いだ!金貸してくれ!絶対に最終レースで倍にして返すから!これで捲らねーとマジでやべーんだ!なあ、頼むよオヤジ……俺たち親子だろ?」  夏の太陽は西の空から橙の照明を俺たちに当てる。  その光に照らされて、俺を拝むように両手を合わせている健司の、その左手首に掛けられた金運ブレスレッドが儚く輝いていた。    
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