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かほるが与えられたのは、小林夫妻が営んでいた旅館「鹿子」の三階の一室だ。
「ごめんね!男子校生が来るっていうのに、何にも娯楽がないじゃない?と思って、テレビだの、スマホの充電器のタコ足配線だの用意してたら、当日になっちゃって」
美里は、元女将だけあってちゃきちゃきした美人で、かほるがあまり関わってこなかったタイプの大人だ。
「温泉は一階だから。好きな時に入ってくれて良いよ。早速入ってくるか?」
道康は、落ち着いた大人の男といった感じ。包容力がある。かほるは道康の言葉に頷いた。
「荷解きしたら、お言葉に甘えて入らせてもらいますね」
「うん。今日は温泉入って、よく体を休めてね」
かほるは一人になりたかった。
「ほぅ」
かほるは湯に浸かり、ようやく一息ついた。湯は無色透明で、癖がない。適温で、長く浸かって溶けてしまいたいとかほるは思った。
「帰りたい……」
どこへ?
かほるに気を遣う両親のいる京都の家にか。それは違う気がした。
「……還りたい、や」
肩を壊す前に還りたい。こんな鬱屈とした己になる前の、弓を引くことにただただ夢中だった己に還りたいのだ。いや、もっと前、無垢な胎児だった頃、そのもっと前に。
「還りたい」
かほるはぶくぶくと湯に浸かって願った。
さっぱりしたかほるは部屋に戻ると、窓を開けてみた。元旅館の一室なだけあって露台があり、かほるはそこへ頬杖をついて外を眺めた。外はいつの間にか日はとっぷりと暮れて、向かいの寿の家が営むという旅館、鹿苑から明かりが零れ落ちている。宿泊客で賑わっている、というわけではなさそうだがちらほら客はいるようだった。
「……なんやったやろな、あの痛みは」
寿と出会った時を思い出してかほるは首をさする。そして呟く。
「……めんどくさい」
唯一の同世代だという寿とうまくやっていかないと、ここでの生活の快適さは段違いになるだろうとかほるは悟っている。たが、かほるには人好きのする青年の寿がどうにも眩しい。相容れない。苦手だ。
この後に控えている、かほるの歓迎会も、寿との登下校、新しい学校での自己紹介、全てがめんどくさい。煩わしい。
かほるはそう思いながら、うとうとと眠ってしまった。
「すみません……」
翌朝、かほるは顔を赤く染めながら小林夫妻に謝った。あの後、かほるはすっかり寝入ってしまい、用意してくれていた歓迎会は延期になってしまった。
「ううん。こちらこそごめんね。疲れているのに歓迎会なんて。わたしたち、はしゃいでいたみたいね」
「疲れて、温泉で体がほぐれたらそりゃ眠くなるよな」
小林夫妻の優しさが痛い。風呂上がりにすやすやと小さな子どもみたいに眠ってしまい、道康に布団に寝かせてもらったと聞いた時は恥ずかしくて思わず顔を覆った。
「ねえ、わたしたちも、かほるくんもゆっくり慣れていこうね」
美里の言葉にかほるは頷いた。その日の晩、3人で控えめに歓迎会を開いてご馳走を食べた。旅館の主人で板前長でもあった道康の料理はどれも優しい味で美味しかった。
ほんの少し、かほるは緊張と警戒を解いた。
それから数日間、かほるは荷解きや学校の準備に追われた。外へ出れば「例の山村留学生」という物珍しいものを見るような、好奇心のこもった視線をあびたり、実際に声をかけられたりもした。
「物好きだなあ」だなんて、かほるは好きとか嫌いとかを越えたその先の無関心の結果、この地に来ているので好き好んで来たわけではないと毎日確認する。
だが、数日でかほるの山村留学は新しい段階を迎えた。初登校の日がやってきたのだった。
初登校。4月1日。
とはいえ、桜は咲いていないし、空気はまだ冷たい。春うらら、とは程遠い。
かほるが鹿子の玄関先でそう思ってると、向かいから寿が出てきた。
「おはよう。制服似合ってる」
寿がはにかんで言う。かほるは自身の姿を見下ろす。かほるが転校生として通うことになる、私立大志館高校の男子の制服は紺地の学ランだ。ボタン式ではなく、ホック式なのがややめんどくさいが、シックで思ってたより悪くないとかほるも思っていた。
「ありがとう。小林さんの息子さんのがぴったりやったんで」
素直にかほるがそう答えると、寿はちょっと驚いた顔をした。
「どうしたん?」
「ううん。なんでもない」
かほるは、妙な奴と思ったが気にしなかった。
「行こうか。朝のバス逃したらもう遅刻だからさ」
かほるは眩暈がした。じゃあ絶対に逃せないし、寿とはいつも一緒の登下校だ。
「うん」
かほるにはこれからの一年の通学が長く、つらく思えた。
桜はまだ咲きそうもない。
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