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どうしよう、と迷う間に小日向くんたちは上履きからローファーに履き替えてしまう。話しかけるなら今しかない。
――今日、アイス食べたくない?
ほんの数分前に聞こえた小日向くんの声。
――え、アイス?
――外めっちゃ寒いのに?
――寒いからいいんじゃん。
前から流れてきた、小日向くんたちの会話。廊下に響くいくつもの声にかき消されることなく、まっすぐ届いた。僕の手は自然とスクールバッグの持ち手を握る。だって、こんなタイミングあるだろうか。
昨夜、母さんから渡されたのは某アイスクリームチェーン店のチラシだった。一グループ四名までのクーポン券付き。
「ちょうどもらったから」
友達と行ってきたら、と言われ、受け取らないわけにはいかなかった。友達なんていない。そう答えたら、きっとこの笑顔は崩れてしまうから。
チラシはそのままスクールバッグへ突っ込んだ。駅のゴミ箱に捨てるつもりで。僕には無理だから。誰かを誘うことも、一人でお店に行くことも。明るい声が響く店の前で立ち止まるなんて、僕にはできない。だから母さんには悪いけど、使ったフリをするしかない。
――そう、思っていた。小日向くんの声を聞くまでは。
渡してみようか。クーポン券付いてるし。何より彼らなら何の躊躇いもなくアイスを食べに行くことができるだろう。「友達にあげた」と言えば、母さんへの嘘も半分になる。
そっと息を吸い込むが、声になる前に口の中で消えてしまう。音を出すまで辿り着かない。たったひと言「これあげるよ」と言うだけなのに。
そんな些細なことすら僕にとっては難しい。
小日向くんとは席が離れてからあまり話していない。これが当たり前だったのだと半年かけて体に馴染ませたところだ。そんな僕が渡したら、どう思うだろう。うざいって思われないだろうか。無視されたりしないだろうか。小日向くんはそんな人じゃないけど、でも。
あのシールのときのように。また、僕だけ。僕だけが勝手に小日向くんを意識しているのだとしたら。それはとても恥ずかしい。やっぱりこのまま通り過ぎるべきだ。挨拶だけして。それがいつも通り。いつもと変わらない、僕たちの距離だから。
「あれ?」
不意に降ってきた声に、ビクッと肩が跳ねる。
「立花も帰り?」
うん、と顔を上げることなく頷く。きっと「また明日」って言われて終わる。じゃあな、って。だってそれがいつもの……。
「駅まで一緒に行く?」
「え」
思わず顔を上げれば「立花も電車だよな?」と小日向くんが言って。周りの友達も「あ、そうなの」「方向同じじゃん」って普通に返していて。みんな、足を止めていた。ただそれだけのことに、なんでか泣きそうになる。
「……あの」
ローファーを取り出すよりも早く、バッグから紙を取り出す。どうして渡したかったのか。友達になりたいという期待もあったけど。それだけじゃなくて。僕は、ただ。
「これよかったら」
「おっ、クーポン付いてるじゃん」
「マジ?」
「行っちゃう?」
わいわいと盛り上がるみんなを見て、思う。
僕は、ただ喜んでもらいたかったのだと。
「みんなで使って」
そのまま先に帰ろうと歩き出す。が、すぐに引き戻された。
「何言ってんの」
小日向くんの口元で息が白く溶けていく。
「立花も一緒に行かないと」
友達じゃないのに? 浮かんだ戸惑いを小日向くんが「立花が持ってきたんだから当然だろ」と、呆れたように笑いとばした。
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