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桜の咲く公園を通り過ぎた僕たちは、古い民家が立ち並ぶ住宅街に入った。家と家の隙間に海がチラリと見える。海沿いにあるこの町にはいつも潮の匂いが漂っている。それは優しく感じることもあれば、野暮ったく感じることもある。
妻と僕のあいだには子供ができなかった。三十歳を少し過ぎた頃に、友人のひとりが、僕たちに不妊治療をすすめてきた。だが、不妊治療は女性ばかりがつらい思いをすると聞いた。僕はそんなことを妻に強いたくなかったし、妻もそこまで子供をほしがってはいないようだった。
「できたらそのとき。できなかってもそのとき。それでいいんじゃない?」
妻がそう言うものだから、僕たちは不妊治療はしなかった。
しかし、三十代も半ばを過ぎると、子供がいない夫婦は、普通ではないらしかった。未だ子宝に恵まれていないと伝えると、露骨に気の毒そうな顔をされることがあった。
こんなふうな会話をしたことも一度や二度ではない。
「お子さんはいらっしゃるんですか?」
「いえ、いませんよ」
「あ、すみません。変なことを聞いてしまって……」
どうやら、ある程度年齢のいった夫婦に子供がいないと、不憫な人たちだと思われるようだった。誰でも簡単に手にできるはずのものを、手に入れ損ねてしまった可哀想な夫婦。
僕はそれを気にして妻に尋ねた。本当に子供はほしくないのか、と。
妻の答えは一貫していた。
「できたらそのとき。できなかってもそのとき。それでいいんじゃない?」
僕は周囲から影響で意見がぐらぐらと揺れるが、妻は自分の意見をそう簡単に変えたりはしなかった。優柔不断の僕とは違って、妻には太い芯が通っていた。
リハビリコースを一歩一歩ゆっくり進んでいると、だんだん民家よりも空き地が増えていき、緑がモコモコと生い繁っている場所が見えてきた。その樹々の中に古い石段が伸びており、石段をあがった先には小さな神社がある。
石段はちょうど二十段あり、僕にとっては少しばかり足が疲れる場所にすぎない。だが、妻にとっては大変な場所であり、リハビリコースの最大の難所だ。
妻はここを決して避けて通らず、必ず石段をあがろうとする。宿敵に挑むような顔をして石段をじりじりとあがっていく。
今から半年ほど前のことだった。妻は仕事中にくも膜下出血にみまわれた。
顧客先に向かおうと自分のデスクから立ちあがったとき、足に力が入らずその場に崩れ落ちてしまったそうだ。まもなくして妻の視界は暗転した。
近くにいた同僚が異変に気づいて救急車を呼び、妻は意識のない状態で病院に運ばれた。
妻の容態は重篤なもので、緊急手術が必要だった。手術を担当した初老の医師は、手術後すぐに僕を別室に呼んだ。
「奥様はくも膜下出血を起こしていました。手術は無事に済みましたが、日常生活に支障をきたす深刻な後遺症が残るでしょう。生きているだけでも運がよかったと思ってください」
その後の妻は医者の見立てどおりだった。失語症などの問題は起こらなかったものの、右半身に重度の麻痺が残った。それまでの妻は活発に快活に生きてきたが、今はなにをするにも僕よりゆっくりだ。
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