後編

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後編

 妻は石段を見あげた。やはり今日も宿敵に挑むつもりなのだろう。妻の小さな手が僕の手を握り締める。  普段の妻は極力僕に頼らないようにしているが、この石段をあがるときだけは別だ。杖を僕に預けて、僕の手をしっかり握り、サポートを求めてくる。二十段程度の石段であっても、踏み外して転げ落ちてしまうと、半身に麻痺がある妻は大きな怪我をするかもしれない。  さすがに怖いのだろう。  妻は、よし、という顔をして、石段に足を踏みだした。だが、足が突っかかってグラッと身体が傾く。僕は手に力をこめて妻を支えた。 「ありがとう」  ぎこちなく笑う妻に、僕は注意喚起する。 「礼はいいから、足に集中して」  妻は頷いてまた石段に挑む。だが、足がうまく動かないために一段あがるたびにつまずく。それでも決して止まりはしない。目に負けないという意志をたぎらせて、ゆっくりではあるものの一歩ずつあがっていく。  けれど、妻の手術を担当した医師は僕にだけこう告げていた。 「後遺症の改善は期待できないでしょう」  妻は毎日無駄なことをしている。こうやって必死で歩いても後遺症は改善しないのだ。妻はもうもとには戻らない。  しかし、それをはっきり告げるような酷なことはできない。僕は妻をサポートしながらこっそりと落ちこんでいた。そして、虚しく思った。歩行訓練につき合っても、彼女はずっとこのままなのだ。後遺症の改善は期待できない。  空で(さえず)り合っている小鳥たちが、僕たちを嘲笑っているような気がした。  妻は何度も何度もつまずきながらも、長い時間をかけて石段をあがり切った。朱色がすっかり()せた鳥居をくぐると、僕の手を離して、ふう、と大きく息を吐いた。  こじんまりとした神社の境内に人けがないのはいつものことだった。手水舎(ちょうずや)の脇に古びたベンチがひとつあり、そこに座って十分ほど休憩するのが僕たちの恒例だ。  ベンチに腰をおろしてすぐだった。妻が弱々しい声で言った。 「私、いつになったら歩けるようになるんだろう。なんだか情けない……」  妻がそんなふうに弱音を吐くなんて意外だった。妻の気持ちは基本的にいつも前を向いており、石段をあがっているときも目に闘志をたぎらせていた。  だが、今の妻は小さく見える。どうしたのだろうか。後遺症にはっきりとした好転が認められず、虚無感に苛まれているのだろうか。  耳の奥に医師のあの言葉がよみがえった。  ――後遺症の改善は期待できないでしょう。  しかし、と僕は思う。 「十九回……」  僕の呟きに妻が反応した。 「十九回?」 「そう。今日は二十回じゃなくて十九回だった」  妻は、なにが? という顔をした。 「前にも言ったけど、ここの石段は二十段あるんだ。一段あがるたびにつまずくから、いつもは二十回つまづく。でも、今日は最後の二十段目だけつまずかなかったんだ。だから、十九回しかつまづいていない。ちゃんと見てたから確かだよ」  再び医師のあの言葉が呪詛のようによみがえった。  ――後遺症の改善は期待できないでしょう。  僕は頭の中で医師に、そんなことない、と言い返した。  それから妻にこう告げた。
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