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「このリハビリコースを歩きはじめてから二ヶ月くらいだろ。それで、一段つまずかなくなった。だったら、残りは十九段だから十九かける二で……あと三十八ヶ月したら、すべての石段をつまずかずにあがれるようになる。きっとその頃には普通に歩けるようにもなってるよ」
妻はぽかんとした顔をしたが、すぐにフッと口もとに笑みを浮かべた。
「三十八ヶ月って何年と何ヶ月?」
「えーと……」
僕は頭の中で計算した。
「三年と二ヶ月だね」
妻は自分の足をちらりと見て、それから僕に視線を戻した。
「じゃあ私、三年と二ヶ月後にはちゃんと歩けるようになるんだ」
「なるよ。でも、ならなくてもいい。ゆっくりしか歩けないのなら、ゆっくり歩けばいいんだよ。原稿の締め切りが迫っているときは時間がないけど、それ以外は特に急ぐ理由なんてないからね。それに僕はこうやってゆっくり歩くのもそんなに嫌いじゃないんだ」
僕と妻はこういうところでも違う。妻は石段のところで闘志を燃やしていたが、そのときの僕はこっそりと落ち込んでいた。
今は逆だ。珍しく妻が弱音を吐いているとき、僕は前向きな言葉を口にしている。
僕たちはいつだって正反対だ。とことん違うのだ。
しかし、違うからこそお互いが必要だ。たとえるなら鉛筆と消しゴムだろうか。
鉛筆と消しゴムは形状も役割も異なる。細長い鉛筆は文字を書くためにあり、太く短い消しゴムは文字を消すためにある。だが、ふたつが揃っていなければ、文字をうまく綴っていけない。
両者は形状も役割も違うからこそ一対だ。
僕たちも鉛筆と消しゴムのように一対であり、お互いを必要としながら生きている。それは妻が歩けなくなってからも同じだ。妻は僕の助けが必要だし、僕は妻がいないと寂しい。どちらか一方が欠けてしまうと、きっとぼくたちはうまく歩いていけない。
そろそろ休憩が終わるというとき、妻が「ねえ……」と話かけてきた。
「私、こんなことになっちゃったでしょう。いつか、もう嫌って死にたくなることもあるかもしれない」
「うん、あるかもね」
「そのときは私と一緒に死んでくれる?」
「いいよ」
はたから聞けば心中を仄めかすような物騒な会話だ。けれど、妻はおだやかな顔をして笑っている。妻と一緒に死ぬのはやぶさかではないが、そのおだやかな笑みを隣で見ていると、これからもふたりで歩いていけそうな気がした。
きっと長く歩いていけるだろう。
「よし」
妻は決心したように声をだすと、杖を手に取り、ベンチから立ちあがった。
僕もベンチから腰を浮かす。
二十段の石段は神社の正面出入口に設けられている。リハビリ目的でその石段をあがっているが、おりるのはさすがに転げ落ちてしまいそうで危ない。だから、帰りはいつも裏門を通って境内の外に出る。裏門には砂利を敷いた坂道がゆるやかな角度で伸びている。
妻は不自由な右半身を引きずりながら、裏門に向ってちびちびと歩きだした。僕はその妻に歩調を合わせつつ思った。
そういえば、昨日買ったパクチーが冷蔵庫にしまってある。
冷凍の海老もまだ残っていたはずだ。
今夜は妻の好きなパクチーと海老のサラダを作ろう。
すると、杖を手にしてちびちび歩いていた妻が、僕の心を読み取ったかのように言った。
「今夜はパクチーと海老のサラダが食べたい」
僕は思わず妻の顔を見つめた。
妻が、どうしたの? と目で尋ねてきたので、僕は「なんでもない」と答えた。
僕たちは大学生の頃から趣味も嗜好もとことん違っていた。違うどころか正反対だった。しかし、それほどまでに違うふたりであっても、心は案外通じ合っているのかもしれない。
今夜はパクチーと海老のサラダを作ろうと、僕は改めてそう思いながら妻の隣を歩く。
了
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