これは………………え?味

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これは………………え?味

 ガタゴトと心地良く揺れる電車内で、私は舟を漕いでいた。  最近は残業が多く、終電間際に会社を飛び出して電車にぎりぎりで駆け込んでばかりいる。終わりの見えない残業のせいで心も身体も疲弊しており、電車の椅子に座った瞬間からうとうとしてしまう。目的の駅につくまでの三十分。その僅かな時間が辛さから徐々に解放されていく至福の時間だった。  ふわりと空気が動いた。  目を瞑っていても、私の前に誰かが立っていることが気配で分かる。  お婆ちゃんの家の匂いがした。私はどきりとしながらも寝たフリをする。どこの老人かは知らないし本当に申し訳ないが、せっかくの至福の時間を邪魔されたくない。席を譲って欲しいなら元気そうな他の人をあたって欲しい。  一分ほど寝たフリを続けてみたが、目の前の人が移動する気配はない。もしかしたら案外若い人だったりするかもしれない。そう思い、薄目を開けてそっと確かめてみる。すると、そこには私をじっと見ている腰の曲がった老婆が立っていた。  老婆は私と目が合うと、会釈をしながらにちゃあと嬉しそうな笑顔を浮かべる。 「譲ってもらっても……いいですかねぇ?」  やってしまったと後悔している私に、老婆は優しく問いかけてくる。寝たフリを続けていればこんなことにはならなかったが、なってしまったからには断る訳にはいかない。妊婦さんやお年寄りには席を譲る。これは私としても事情がなければ守った方が良いと思うマナーだからだ。 「ど、どうぞ」  心の中では大きな溜め息を吐きながら、表には出ないようにできる限りの笑顔で応える。すっと立ち上がり、ありがとうねぇ、ありがとうねぇ、と何度も感謝する老婆の右横をさっと抜けて車両の前方へ向かった。  その最中、偶然にもすぐにぽつんと空いている席を見つけたため安堵して腰をおろした。しかし、目が覚めてしまったのか一向にうとうとすることができない。今日に限って何て運の悪いことだ。何度目かの大きな溜め息を吐きながら、対面にあるベンチシートの空席をぼんやりと眺める。 「あれ?」  ふと感じた違和感に、辺りを確認してみた。すると、多くはないがちらほらと空席はある。満席だからと私に席を譲ってもらったのではないのか。もしかして私が眠たそうにしていることを承知のうえで、嫌がらせをするために私の前に立ったのか。そうであれば何と性格の悪い老婆だろうか。  睡眠を妨害された怒りから、そんなことを取り留めもなく考える。  ——お出口は左側です。  車内アナウンスではっと我に返った。気がつけばいつの間にか駅についていた。至福になるはずだった貴重な時間が無情にも終わりを告げる。ただでさえ疲れているのに、邪魔をされた苛立ちからどうしようもない怒りが湧いてくる。いつもなら下品だと気をつけている舌打ちを聞こえよがしに鳴らし、まだ開いていない扉へずかずかと近づいた。  自分でも相当きつい目つきであることを自覚しながら、苛立ちに任せて老婆の方へ目を遣る。その瞬間、流れていたはずの時間がぴたりと止まった。  そこには。  ()が座っていた。  私は何が起こっているのか理解できなかった。席を譲ったはずの老婆が居ないだけでなく、そこに何故か私が居るのだ。私は、ここに居るのに。他人の空似などではない。髪も顔も服装も鞄もすべて同じだ。だからあれは確かに私だった。  もしかしてこれは夢なのだろうか。私はまだ眠りこけていて、変な夢でも見ているのか。そうだ。きっとそうだ。それ以外には考えられない。だってそうじゃないとこんなこと。  私がゆっくりとこっちを向いた。私と目が合う。鏡を見ている訳でもないのに自分と目が合うという異様な感覚。気持ちが悪い。  にちゃあととびきり不気味で嬉しそうな笑みを浮かべた私が、ゆっくりと会釈しながら言った。 「譲ってくれて……どうも、ありがとうねぇ」
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