これはどっちがどっちなの味

1/1
前へ
/25ページ
次へ

これはどっちがどっちなの味

 鏡の前ではいつでも笑うことはできる。鏡に映る私が楽しそうに笑う。なにがそんなに面白いのかわからないくらいに。でも、人の目に映る私は笑うことができない。眼球が私に向けられると途端に笑うことができなくなる。 「あなたはいいわね。なにも悩みがなくて」  鏡の中の私に悪態をつく。私が嫌な顔をすると同じ表情で私を見つめ返してきた。私とあなたはこんなにも同じなのに、私がこっちの世界で苦しんでる間あなたはそっちの世界でのんきにしてるんでしょうね。 「馬鹿みたいじゃない。なんで私だけ……!」  こんな世界なんてなくなってしまえばいい。そうおもいきり鏡の中の自分を睨みつける。私の気持ちもわからないのに、馬鹿みたいに笑ってんじゃないわよ。響き渡る笑い声が私の頭の中を塗りつぶして、どす黒い感情が芽生えてくる。まだ笑い続ける私に我慢の限界をむかえ、感情にまかせて拳を振り上げようとしたそのときだった。  私はまだ鏡の前にいる。それなのに、鏡の中の私は笑いながら背を向けて歩きだした。私が私に置いていかれる。まるで私が鏡の中の私だとでもいうように。 「だったらずっとそこにいれば?」  私が振り返って冷ややかに笑う。そんな嘲笑に苛立つことすら忘れたまま、鏡に映る世界は私の背中をずっと追っていく。まるで映画のスクリーンを見ているような、不思議な気分に視線をそらすことができない。  私は近くのデパートへ赴き、普段の私では考えられないような露出の多い洋服を物色している。鼻歌を歌いながら、洋服を手に取っては私に見せつけるように即興のファッションショーを繰り広げ、店員さんと談笑しながら気に入った洋服を購入する。買ったばかりの洋服を着て歩いていると男性に声をかけられた。手のひらで男性を転がすような火遊びを堪能し、充実したような一日を終えた。  それからというもの、職場で明るく振舞う私に一目置くように同僚たちが私を取り囲む。輪の中心に立つことを夢見たことは何度もある。けど、そんなことは所詮夢の中の出来事だった。現実には起こりえない。だって、私だから。私みたいなのが逆立ちしても無理なものは無理なのだ。  それなのに。それなのに、悔しくて涙が止まらなかった。  私にだってできる。だってあなたにできたんだもの。あなたは私。私はあなた。あなたにできて、私にできないことなんてないはず。だって、私だから。  返してほしい。私の居場所。あなたじゃなくて、そこは私の居場所。お願い。 「返して!!」  声を荒げた瞬間、私は暗い部屋のベッドの上にいた。目蓋はまだ少し重くて、布団は眠りを誘うような温もりがある。もしかして、私は眠っていたのかな。さっきのは夢だったのかな。私の中にいるまだ知らない私が、まだ知らない私になりたくてこんな夢を見せたのか。夢だとわかって安心したような、不安になったような、少し複雑な気分だった。  現実味があったせいか、ただの夢より本当に頑張れそうな気がしてくる。周囲の人間が私を見ていなかったのではなく、私が周囲の人間を見ていなかったのか。それじゃあ、あんな風に私が変わったら、私のことをちゃんと見てくれるのかな。もしそうなってくれたら嬉しい。ううん、もしじゃなくて、そうしなくちゃ。明日から、頑張ってみよう。  それから、私は変われた。  友達が沢山増えて、素敵な彼氏もできた。街を歩けば私に視線が注がれる。昔のような侮蔑ではなく、煌くような羨望の眼差しで。これが、私の望んでいたもの。やっぱり、私にもできた。あの時の私以上に。やっと私も奪われる人生じゃなくて、幸せな人生を歩むことができる。それが、とても嬉しかった。 「ねえ、また」  ふいに、私が小さく呟く。その瞬間、私はすべてを理解した。とても悲しくなり涙が溢れた。やっぱり。やっぱりそうだったんだ。私はこんなにも泣いているのに、私はあんなにも笑っている。  ——夢が褪めるよ。
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加