3/3
前へ
/66ページ
次へ
「お忙しいのに、ありがとうございます」 10時20分。学習室に併設されたガラス張りの面談室で、アダムはローレンスと久々に対面した。 「いや。遅れてすまない」 表情はいつもと変わらないし、制服も着崩さずにきちんと着こなしているが、彼が急いでやってきた様子が雰囲気から見てとれた。 席に着くと、ローレンスはすぐにアダムの学習記録に目を通した。アダムは職業訓練を受けず、高校卒業資格の取得を目指している。チェック欄に印をつけながら、黙々と項目に沿って内容を確認していく。するとしばらくして、パッとアダムの顔を見た。 「ちゃんと寝てるか?ずいぶん進めてあるな」 「いやあ、高校を出るの、人よりずいぶん遅れちゃいましたから」 「学校に年齢の上限はない。……このまま継続していくのが好ましいが、もう少し余裕を持っていいんだぞ。時間はまだあるのだから、無理はするなよ」 「はい」 「社会福祉のほうは?」 「昨日ナイトレイ先生にテストをしてもらって、順調だと言われました」 アダムは社会福祉についても学んでおり、出所して一定期間が過ぎたらすぐに福祉士の試験を受けるつもりでいる。 「そうか。そちらは先生にお任せしたきりだが、問題なければいい。僕も教養として学んではいるが、プロフェッショナルを目指すとなると容易ではないからな」 いつでも淡々としたローレンスの瞳は、きらきらと澄んでいて美しい。うっかりするとボーッと見とれてしまいそうになる。しかし彼は書類にひと通り目を通すと、最後のページにサインを記入してからそれをスッと脇に置き、すぐに「本題」に入った。 「それで……話とは、薬物治療のことだな?」 瞳に吸い込まれそうになっていたアダムも、ハッとして意識を切り替えた。 「ええ。MからA棟の現状をいろいろ聞きましたが、うちでも減薬でストレスを抱えた奴らの諍いが増えてます。乱闘だって大きくなる前に防いでいますが、この状況がずっと続くようでは、どんどん互いの不信感がつのり、棟の秩序も乱れていきます。元の量には戻せなくとも、ほんの少しでもいいから薬の用量を増やしてもらうよう、理事会にかけあってはもらえませんか」 「正直なところ、他の看守たちからもそういった声がいくつも上がっている。だが理事会に意見を申し立てることは出来ても、今回の決定が変更されることは恐らく無い。我々が訴える前に、理事会自体がこの施設内の現状を把握した上で、減薬を続行しているんだ。それに、薬物についての取り決めをやすやすと変更させるワケにもいかないのだろう。コロコロ変えていたらよけいに混乱を招く可能性もあるからな」 「それはよく承知していますが、しかし……あの、それよりも先にひとつ、申し上げてもいいですか?」 「?」 「……こうして近くに座ると、微かですがあなたから草の匂いが消えていないのがわかります。施設内では持ち込みも所持も禁止されていますから、あなたのお立場上、もう少し気をつけたほうがいいかと」 アダムが指摘するとローレンスは少し間を置いたが、表情を変えず「気をつける」と返した。そして弁解も何もせず、「続けてくれ」と言った。 「……ローレンス副看守長をお呼びしたのは、理事会絡みのことならばあなたがもっとも適役であると思ったからです」 「適役?」 ローレンスはこの部屋に入った瞬間から、自分の視線や眉の動き、仕草のひとつひとつに細心の注意を払っていた。アダムという男は、匂いだけでなく人の機微を敏感に感じとる鋭い洞察力の持ち主である。 「適役です。イーストウッド所長を相手にするならば、ですが」 「なぜそのように?」 「推測でしかないですが、おふたりのあいだに何か特殊なつながりがあるように感じます。というのも、所長があなたに向ける眼差しは少し異様です。あなたはとても注意深い方ですが、彼はそれに反してあなたの前では油断しきっている」 もっとも警戒していたことをアダムはあっさりと投げかけてきた。 「油断とは?」 「ひとつ例を挙げるとするならば、先月の中頃、所長が誰もいない廊下であなたの頬や腰から下を粘着質に触っていたのを見ました。あなたは困惑しているのに、彼はその様子でさらに助長し、嬉しそうな顔で己の欲望を垂れ流しにして、あなたのことを触っていました」 「…………」 何と返していいのか分からなくなった。思いも寄らぬところを見られていたことへの動揺。誰もいないと思っていた自分の浅はかさに呆れる。……そしてやはり、アレはまずかった。 「ここで易々とそういったいかがわしい振る舞いをすることこそが、彼の"油断"です。僕はおふたりの個人的な仲に何の興味もありませんが、しかしそれによりあなた方の関係を疑っています。あなたとイーストウッド所長は、公私の隔ても無くなるようながあるのではないかと……」 「よせ」 いつも凛々しい表情を一貫させ、囚人や看守に何を言われても毅然と振る舞うローレンスが、あきらかに嫌悪に満ちた瞳で鋭い眼差しを向けた。 ローレンスはまだ若い。 だが押し殺しているのか、もとからこうなのか、その若さをここでは決して感じさせない。 育ってきた環境や、プライベートでの振る舞いや、好き嫌いや喜怒哀楽、すべてが見えない。しかし積み重なっていく疲労は確実に彼の「隙」を広げていた。携帯を机上に放置したり、マリファナの香りを残したままにしたり、このように感情をあらわにした眼差しを向けたりすることは、他の看守ならいくらでもあるが、彼ではありえないことである。 そして時間に厳粛な彼が約束を20分もオーバーしたのは、今朝初めて出勤時間自体を遅刻したからだ。それも理由は寝坊だという。 「不適切な振る舞いであったことは認める。だがイーストウッド所長に特別な感情はないし、僕にも当然ない。彼は理事会の中でも、看守たちと比較的フラットに接する人物だ」 「しかしあなたに対する彼の目つきや仕草は、フラットというものの域を超えているように思います。ローレンス副看守長、あなたがどんなに注意深くしていても、あなたに向けられる視線というのはどうにもなりません。あなたが隠すことはできない」 「……それなら、仮に僕と所長が密接な間柄だったとしよう。しかしそれで更正プログラムの方針を変えることはできない。当然、理事会というのは彼の一存で動いているわけではない。彼の上にも本部長や理事長というものがある。そのさらに上には市があり、州がある。それらの総意で、この矯正施設のあらゆる決まりが生み出され、決定され、実行されているのだ。それに………」 言うべきか悩むが、プログラムの改善についてこれ以上は話を続けたくない。ローレンスは数秒の間をおき、アダムの視線から逃れるように伏せていた目で、再び彼の瞳を弱々しく見て言った。 「あの暴動でヨハンソン看守長を殺した犯人が、いまだに見つからないままだ。理事会は何よりもその事件の解決に向けて注力している。それによる警察の指導に伴って、治療薬の減量を取り決めた。要は"あぶり出し"だ」 「薬物依存者による犯行だと?」 「その見方が強い。理由は伏せるが、もしそうだとすれば多少の混乱が必要なのだ」 「混乱?」 「意識が明瞭であれば、何か真相を知っていてもボロが出ないよう注意を払える。しかし正常な判断が困難になれば、自ら何かしらのボロを出すかもしれないし、密告者が現れるかもしれない。疑わしい人物や不穏な動きをする者をマークしやすくもなる。容疑者をとらえた際には、治療薬を餌にした効果的な取り調べもできるかもしれない」 「そんな粗末な方法に効果があるとは思えません」 「しかし他の刑務所でも、所内で起こった犯罪を捜査する際にはその方法を取り入れ、実際に成果をあげているのだ。……今はとにかく、殺人に関与した者を捕らえることが最優先事項だ。治療薬の減量が脳や命に関わることは決してない。荒療治だが、量に耐性がつけば依存から抜け出すスピードが速まる場合もある。陰謀と言われれば陰謀かもしれないが、密輸と乱闘を地道に取り締まり続け、早く犯人を逮捕する以外に打開策はない」 だからこの話はこれ以上の進展はない、と手グセでいじっていたペンを置き、話はそれで区切られた。しかしアダムは、なぜそのような内情まで明かしたのか疑問に思った。世話係として信頼されているとしても、今朝のローレンスはいる。 「僕は決してヨハンソンさんの殺害に関わっていませんが、この話がもしも僕から犯人につながる者に伝わったら、どうされるおつもりですか。」 「それでも構わん。我慢くらべだ。知恵くらべもな。それによって何かアクションを起こしてきた者をかたっぱしから捕らえ、フリーマン看守長の尋問にかけられるだけだ。その際はどんなに潔白を訴えようとも、君も同じように捕らえられるぞ。僕がこの会話を証言する」 「ローレンス副看守長、最後にひとつだけ言わせてください」 ローレンスが時計を見やって、「これで終わりだぞ」と返す。毅然としていたアダムが、少し険しい顔をしながら唇を噛む。背を丸めて机上の指先を無意味に見つめながら、言うか言うまいか悩んでいるようであった。しかし、意を決したようにローレンスに向き直った。 「……僕は世間に背いた罪人です。刑期を終えようとも罪は消えない、一生、死ぬまで罪を背負って生きていくろくでなしのクソッタレです。その上であなたに言わせてもらいますが、僕はあなたのことを、今まで出逢ったどの人間よりも尊敬し、信頼しています」 弱々しく、しかしまっすぐにその瞳を見つめる。 「あなたは他の看守と違い、我々と真摯に向き合おうとしてくれる。フリーマン看守長はナイトレイ先生をこの施設の担当にしてくれましたが、理事会に掛け合ってナイトレイ先生の時間外勤務を許可してくれたのはあなただと知っています。電話機の数を増やしてくれたのも、花壇に満杯の花を絶え間なく咲かせてくれるのも、立場の弱い囚人にいち早く手を差し伸べてくれるのも、いつもあなたです。僕はあなたを欺いたり疑ったりしません。絶対に裏切りません。……僕にできることがあれば何だってします。あなたが要請することは、なんだって……。あなたとイーストウッド所長の仲を疑いたくはありませんが、廊下でお見かけしたときには心がえぐられるようでした。僕は……」 「ヘムズワース」 目を逸らし、思わずその手を抑えて制した。 「……今日はここまでにしよう」 ローレンスの細い指が、力強くアダムの手を握っている。アダムも決して感情の起伏を見せない男だ。穏やかに振舞うが、いつも他者より一歩引いて冷静に状況を見守っている。そんな彼に初めて向けられたその切なげな眼差しに耐え切れなかった。 「ありがとう。僕も君を信頼している。そうでなきゃここまで話さないさ。……中庭に移動する時間だ。ここから連れて行く。……すぐにどうにかできるように、頑張るから。僕を信じて待っていてくれるか」 「はい……」 ガラス張りであることも、監視カメラでのぞかれていることも気にせず、ひとまわり近く年下の青年にすがるようにローレンスの手を両手でぎゅっと握り、自分の頬に当てて涙をこらえた。 だが強く握られた途端、ローレンスはアダムの手が恐ろしくなった。大きな男も、大きな手も怖いのだ。それを悟られぬよう、冷静さを保つためにゆっくりと呼吸をした。
/66ページ

最初のコメントを投稿しよう!

27人が本棚に入れています
本棚に追加