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「アランは女性ならば警戒しません」 医師に言われて、「私でも平気かな」とつぶやく。 クロエは、先月母親の恋人を撃ち殺したという少年の入院先を訪れていた。 「アラン、福祉士さんがいらしたわ」 職員に促され入室する。そこでクロエが見たのは、日常的に暴行を加えられて顔中が包帯やガーゼまみれの痩せっぽちの少年であった。 仕事柄、こういった子どもには見慣れている。それでも悲愴感というのか、迫りくるような彼らの底知れぬ暗闇というのには、いつも立ちすくみそうになる。アランは右目だけがかろうじて無傷であった。琥珀のような美しい瞳をしていた。 「はじめまして、私はクロエ……」 言いかけたときに、アランは少し訝しげに眉をひそめた。 「女の人?」 問われて、クロエは思わず笑った。 「女だよ。ははは、でっかいでしょ。この服も、靴も……この手袋だって、全部男モノなんだ。でも、女だよ」 クロエがベッドの脇の丸イスにかけると、椅子がギシギシと鳴った。アランは警戒していたが、「この椅子じゃこけそうだな……」とクロエが言ったら、小さく笑った。 「アラン・ローレンスくんだね。よろしく。私のことはクロエって呼んで。……君とはこれからこうしてちょくちょく顔を合わせることになる。新しい家とか、学校とか、お金とか。みんなと同じように、大人になるまでにいろいろと決めることがあるから、その手伝いをさせてほしい」 クロエが右手を差し出すと、アランはその手を数秒見つめたのち、恐る恐るか細い右腕を伸ばした。こんな細い腕にまで、顔と同じように包帯が巻かれガーゼも当てられている。 クロエは、その痛々しい手をやさしく握った。その瞬間、手を介して少年の絶望がビリビリと伝わったように感じた。冷たくて、骨を握っているようだった。 反してアランは、クロエの大きな手の温かさで、手を介して熱い血を送り込まれているように感じていた。自分の身体がずいぶん冷えきっていたのを知り、心臓まで止まっていたのではないかと思った。 その日から2人は、親子のようであり、兄弟のようであり、友達のような関係になった。アランにはクロエがもっとも気の休まる存在となり、彼女もまたそんなアランを心から大切に思っていた。 それから何年か経ち、過去に女兵士として軍隊に所属していたクロエは、その経歴を買われ軍属の職員として遠い国の戦地へ赴くことが決定した。 長期の戦争になると見なされ、軍人らのケアを目的とした任務であるそうだ。アランは高校を卒業する間際で大学も決まっており、これまでクロエのサポートを受けながら生きてきたが、すでに人並みに生活を送れるまでに回復していた。だから「軍属としてのオファーが来た」と明かしたクロエの背中を力強く押した。 「帰るまでどれくらいかかるかわからない。けれど、帰ってきたら必ずやまた会おう。君はもう私の手助けなど必要ない。むしろ君は、誰かを手助けすることに向いている。ここまで君のことを見てきて強くそう感じた。いつか同じフィールドで、今度は相棒としてやっていけたらいいな」 「クロエの相棒?あはは、それいいね。でも僕はクロエのように強くないからなあ」 「いいや、君は強い。強くてまっすぐな男だ。私はこの任務が終わったら、また福祉士としてカムバックするか、州から何かしらの要請があればそれに就くつもりだ。ただ、仲間たちもそうだが、だいたいは刑務官が多いな。軍人という特性柄、看守というのはうってつけだから。友人のナイトレイも軍隊を退いてから福祉士として働いてるが、彼もさまざまな刑務所を渡って仕事をしているよ」 「刑務所か。……クロエが看守になったら、囚人の人たちみんな怖がるね。脱走犯が増えそうだ」 「違いない。そうなると向いてないかもな」 「でも、僕みたいな奴にはクロエがいちばんいいかも。僕は子どもだったから刑務所行きにはならなかったけど……年齢が違うだけで、おんなじような人は刑務所にもいるはずだ。その人のこと、ちゃんと分かってあげる人がいるだけで、救われることもある」 「うん……その通りだ。だがアラン、君こそそういう人間と関わるのが最も向いていると思う。大学でも楽しいことをたくさん見つけて、勉強も今までどおりきちんとして、自分の行く末をしっかり見定められる大人になってくれ。別に何になるんでもいい、君の顔ならハリウッドスターだって夢じゃないぞ。だけど、君はいい男のままでいてくれ」 「死にに行くみたいな言い方しないでくれ。僕はクロエのこと待ってる。相棒になれるかは分からないけれど、同じ気持ちを持って生きていきたい」 2人はまっすぐに向き合い、初めて会った日とは違う力強い握手を交わした。 アランは痩せっぽちのままだが、骨のような手ではなく、男らしい筋ばった手でクロエの手を固く握った。 それが今から10年以上前のことだ。 その後ローレンスは在学中に刑務官の試験をパスして、卒業と共に看守としてこの矯正施設に配属され、異例の速さで副看守長までのぼりつめた。 そして元看守長のヨハンソンのもとで、クロエのことを待っていた。 イーストウッドとの逢瀬が始まったのは、副看守長になる前、ヨハンソンを介してである。 いつから目をつけられていたのかは知らないが、アルとロバートが立て続けにこの矯正施設に送り込まれ問題行動を起こし、取り締まっていた密輸が激化するようになり、たびたび理事会が施設の視察に来るようになったから、おそらくそのときであろう。 理事会の中では比較的ジョークの通じる男であるからか、看守たちの下品な雑談にも気軽に応じるので、他の看守達からは大いに好かれていた。 しかしローレンスは、この男を権力を笠にきた嫌な男だと思っていた。それに彼はしつこく食事に誘ってきては、薄暗いバーなどで腿や腰のあたりに触れてくる。他の看守なら背中や肩をポンと叩いたりするのに、自分にだけは触る場所も触り方も違うのだ。 そのことをイーストウッド本人に指摘し、できれば身体に触れるのはやめてほしいと言った。 すると翌朝ヨハンソンに呼び出され、「能力は充分にあっても、お前の出世の妨げになっているのは、お前自身のその堅苦しさだ」と告げられた。 「アラン・ローレンス。この閉鎖的な場所で、君がどう立ち回れば上手に生きていけるかよく考えろ。せっかく理事会の人間に気に入られてるんだ、オンナなら安泰の出世コースにいるじゃないか。もっとも、君は男だから社会的にここでやってくしかない。いずれにせよ、ミスター・イーストウッドのにしていたほうが、今よりずっとラクになれるぞ。……子供のころから男相手はお手の物だろう?今さら傷つくものは何もあるまい。あるいは、この仕事が嫌なら売春宿にでも紹介してやるか?男をよろこばせて金を稼げるんだ。お前なら天職じゃないのか」 もしも録音されていたら、などと考えないのだろうか。今時珍しいくらいに人権を無視した発言をする男だ。 ローレンスは心中で軽くあしらった。長年「強い」クロエといたせいか、このテの嫌みなど、自分には微塵も響かない。しかし上層の腐敗を、このときから予感していた。"売春宿"などという言葉がこうも易々と出てきたことに、妙に引っかかったのだ。 アルやロバートの異様な暗躍もそうだし、この施設内での「麻薬スキャンダル」をマスコミに嗅ぎ付けられる前に内々に済ませようとするのは分かるが、理事会がここを訪れる頻度のわりには、彼らの打ち立てる改善策などが一向に効果を見せない。 どんなに取り締まっても、使用者を独房に入れても、以前より密輸が横行している。 それこそがアルとロバートの手腕でもあるのだが、それにしても彼らのもよほどやり手であるように思えた。 面会や電話など、とにかく彼らを中心に監視カメラや通話記録を解析するが、どんなにチェックしてもそれらしい場面が見当たらない。しかしアルの場合は何度かプッシャーらしき人物が面会にやって来て、話し合うフリで何事かをゴソゴソとやりあっているのを確認できた。注意深く何度も確認してようやく発見した。 しかしロバートにはそれすらも確認できず、彼の供給源は分からずじまいのままであった。 他の囚人すべての面会や電話を、遡ってひとりひとり調べることは不可能だ。だからアルやロバートに注視しすぎているせいで、他の囚人が新たな売人として暗躍していることに気がついていない可能性も大いにある。 しかしそれは本当に? ローレンスはヨハンソンの元でそればかり考えるようになった。看守の動きもできる限り監視カメラで追ってはいたが、たむろしてサボっているところや囚人にタバコを渡していたこと以外で、特に目立った禁止事項は見当たらなかった。 自分が見逃していることはいくつかあるだろう。だがそうだとしても、アルはまだ過去の仲間とつながっているとして、ロバートとつながりのある者は、他の囚人や看守、たびたび訪れる不特定多数の面会者ではないかもしれない。 そう思い始めてから、ローレンスはロバートの「供給源」が理事会であると疑うようになった。 アルは恐らくまだ目をつけられていないようだが、それでも時間の問題であろう。なんにせよ、少しでも詳しくそのことを調べる術を探った。 だがやはり手はひとつしかないので、死ぬほど嫌だったが腹をくくることにした。 そしてそれから数ヶ月後に、ローレンスは史上最年少で副看守長の役職につくこととなった。他でもない、イーストウッドの口添えによってである。
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