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Ⅱ
「おはようございます、ミスター・ローレンス」
アダムが挨拶をすると、ローレンスは堅い顔のまま「おはようヘムズワース」と返して早歩きで通り過ぎて行った。
「いけ好かねえ野郎だ。あいつまだ20代だよな?生意気なガキだな」
広間でコーヒーを飲んでいた囚人のブルースが、それを横目に見て忌々しげに言った。
「だが今朝のローレンスさんは、機嫌が良さそうだ」
アダムが微笑みながら、遠ざかっていくまっすぐな背中を眺めている。
「あれでか?それなら今の俺も相当ゴキゲンに見えるだろう。」
「いいや。キミはここんとこ毎日ゴキゲンななめだ」
「ヤク切れのつらさを味わえばわかる。味わうためにお前も後学としてやってみろ。俺の気持ちがわかるぜ」
「なぜいきなり治療用の薬を減らしたんだろうな。所内の空気が悪くなる一方だ」
「そりゃあ経費削減だろ。俺らの治療も税金で賄われてんだ。国から通達がきたに違いねえ。だからまずは俺たちみたいなクズの依存患者から切り捨てた。これからどんどんいろんなモンが削られるはずさ。メシだって、あのグズグスの煮豆の水かさが増えてさらにゲロに近づいてきた」
「メシは確かにな……だが薬の経費削減?そんな節約術、聞いたことないぞ。こんな荒療治に出たからには何か策があるんだろうが……段階ごとに徐々に減らさないといけないのに、だいぶすっ飛ばしてる。不眠症患者に、睡眠薬1週間分を3日分しか渡さないようなもんだ」
「いっそのこと大量に睡眠薬を処方されたほうがラクだ。身体からクスリが抜けきるまで目覚めなくていいようにな」
「A棟も荒れてるし、よけいに密輸が横行するぞ。こうなるとまたアルとロバートのあいだでシマがどうのとイザコザが起きるんだ」
アダムが顔をしかめる。シマだけでなく、密輸のための人員の取り合いも起こる。
そうなるとまたリンチが乱発し、それぞれが疑心暗鬼におちいり、緊張状態が長く続けばやがて暴動につながっていく。
やはりローレンスと、一度話し合うべきだ。どうにか手を打ってもらえるかもしれない。理事会の方針とあらば易々と覆らないが、ローレンスを介するならばチャンスはある。
それに看守長のフリーマンは、大義のためなら何でもやる人間であるため油断ならない。
柔軟なのは意外にも、ふだんはお堅いローレンスのほうだ。しかしフリーマンとローレンスは、もっとも密接であるべき役職なのにもかかわらず、業務以外では互いを一切認めていない。だからローレンスに相談をする際はフリーマンに気付かれることは避けたい。
ローレンスはおそらく看守長の座を狙っていたが、前看守長が何者かに殺害されても代理にすらなることもなく、すぐにフリーマンが新たな長として配属されてきたことによって昇格のチャンスを閉ざされたのだ。態度には出さずともそれに納得しているワケがない。そういう見えない軋轢によって、2人のあいだには冷戦の気配すら感じる。だからヘタにどちらかの肩を持つようなこともしたくない。
ともかくアダムは機を待つことにした。Mとも連携をはかっておくべきだ。暴動につながる可能性がある以上、これは全棟の問題である。
ー「よせ!落ち着くんだ」
止めに入ったマシューに腕を取られるが、エイドリアンはその手を振り払い、シュートを妨害したアフリカ系の囚人に食ってかかった。あっという間に乱闘が起き、周りの囚人が口笛を鳴らしてはやし立てる。
「どうした」
その様子に気がついたMが、ようやくありつけたタバコを中断しバスケのコートにやって来た。後ろにはその様子をヘラヘラと笑って見ていたライアンがくっついている。
「M。エイディーが……」
マシューからケンカの原因を聞いて、げんなりと肩を落とす。看守はフェンスの近くで腕を組んで静観している。無線で応援を呼んではいるものの、ここでの殴り合いなどは日常茶飯事なので、よほどのことが起きない限りはわざわざやって来ない。
「エイディー、エイディー。わかった、少し落ち着け」
荒れ狂う2人のあいだに割って入る。頭ひとつ分大きいMに割って入られ、振り払えないほどの力で腕をつかまれ、ようやく少しだけ興奮が収まる。マシューもそれにならい、片方の囚人をなだめた。
「こいつをコートに入れるな、ジョーダンと同じ肌色のくせにクソみてえなセコいイカサマばっかしやがって、目障りだ、消えろ!」
青筋を立てて叫ぶ彼を見て、ライアンが面白そうにケラケラ声をあげ、かぶっていたフードが頭からずり落ちた。
「エイディー」
アゴをつかみ、Mは眼前でその充血した目をじっと見つめる。名前を呼ぶ以外よけいなことは言わずに、ただ目で制するのがいちばん効果的だ。なんせ今の彼は猛獣に近い。コート内に静寂が訪れる。Mが来ればこれ以上は激化しないので、集まってはやし立てていた者たちは各々の場所へ散っていった。
「離せ」
エイドリアンが忌々しげにMを睨みつけるが、あきらめたのかすぐに目を伏せてその場を去っていった。しかしパーカーの袖で口元を隠しながらまだニヤニヤと笑うライアンを見ると、その頬を思いきり平手打ちして張り倒した。
「やめろ!」
Mが掴みかかり、その胸をドンと押す。するとエイドリアンは挑発的な笑みを向け、そのまま一足先に屋内へ戻っていった。
「ライアン、平気か?」
尻もちをついたままぼんやりする彼の手を引っ張って起き上がらせ、囚人服の汚れを手で払う。
「エイディーも僕と同じだね」
「同じなもんか。奴は根っから気性が荒い」
「薬をちゃんと飲んでるときはあんなことしなかったよ。」
「……」
「クロエが泣いてる」
ライアンが腹をさする。
「クロエは腹が減ってるだけさ。そろそろ昼メシだ。ライアン、さっきみたいなケンカが起こったときに近付くな。……ライアンが巻き込まれたらクロエも危ないだろ?」
「うん」
「俺は戻る前にもう1本タバコを吸いたい。お前はそこのベンチにおとなしく座ってるか、マシューの手伝いをしてきてくれ」
「わかったー」
テクテクと頼りない足取りで花壇へ向かい、「マシュー、僕がお水あげようか?」と花壇の手入れを再開するマシューのパーカーをひっぱった。
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