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ー「Mの野郎、今朝はエラく機嫌がよかったな。珍しくヒゲも剃ってた」 しばらくはコートを使うことを禁じられているので、エイドリアンはすることもなく壁際でタバコを吸っていた。 「そりゃあ今日は面会日だからな」 となりでタバコを吸っていたブラッドリーが言う。 「オンナか?」 「奴の面会でオンナを見たことはねえ」 「ゲイってわけじゃねえんだろ」 「さあ。だがいつも来るのは、ずいぶん若い男だ。ローレンスにちょっと似てるな。身なりがいいから弁護士とか生活相談員とかかと思ってたが、そうじゃないらしい」 「へえ」 「エイディー、僕にもタバコちょうだい」 子供が砂場で使うようなプラスチックのスコップを持って、花壇の手入れをしていたライアンが休憩にやって来た。 「自分のはどうした」 エイドリアンが胸ポケットから取り出したタバコ2本をライアンに渡す。 「きのうポーカーで負けて、Mにぜんぶ取られた」 「あいつにカードで勝てるわけねえだろ。特にお前が」 ライアンの鼻先についた土を、指ではじきながら嘲笑うように言った。 「ブラッド、Mは?」 「たぶん面会中だ」 「……そっか」 「寂しいか?」 「ううん」 ライアンが壁にもたれかかったまま、ずるずるとずり落ちるようにしゃがんだ。 「奴が仮釈放になったら、誰がライアンの子守をやるんだ?」 エイドリアンが、力無くぼんやりとタバコを吹かすライアンを見下ろしながら聞くと、ブラッドリーは「マシューが適任だな」と言った。 「今後はマシューが世話係に?」 「世話係はケンカを止められる奴だろう。マシューはおとなしい奴らの子守くらいがちょうどいい」 「ライアン、今から親離れしとけよ」 エイドリアンが、うずくまって煙を吐くライアンの肩を膝で蹴った。 「エイディー、今日は元気だね」 「耐えられねえから、断薬治療の甲斐もむなしくアルにを仕入れてもらったんだ」 「そう」 「ライアンは?」 「手を出したらクロエが死ぬってMが言ったから、ぜったいぜったいやらない……」 弱々しく声をあげ、膝に顔をうずめて丸くなった。 ー「さっきサミュエルに渡していたものは何だ」 食堂で、ロバートとその取り巻きが陣取るテーブルにやって来たアダムが、険しい顔をしつつ声を潜めて尋ねた。 ロバートはB棟のボスで、ギャングの一員であり、ここでは麻薬の密輸を生業としている。そのため同じ立ち位置のアルと対立している。 「お前の今までの"顧客"はいいとして、更正プログラムを受けている者にまで手を出すな」 アダムは昼食前の刑務作業中、ロバートがサミュエルとすれ違う際、その手に何かを握らせたのを見逃さなかった。 「見つかったら、お前どころかサミュエルの刑期まで延びる。第一、サミュエルがこれまで受けてきたプログラムが台無しだ。何のためにこの減薬にも耐えてきたと思ってるんだ。奴が欲しがったのか?」 何を言っても、ロバートはアダムなど見えてすらいないかのように、差し入れられた雑誌を悠然と読んでいた。取り巻きの男たちはニヤニヤと目配せをしながら食事をしている。 「ロバート。頼むからこれだけは聞いてくれ。減薬に苦しんでいる者たちにだけは近づかないでほしい。彼らから依頼されたとしても、無視してくれ」 ロバートがコップに手を伸ばし、水を飲む。すると次の瞬間、口に含んだ水をアダムの顔にまんべんなく吹きかけた。そしてコップに残った水は、アダムの囚人服の股間のあたりにすべてかけた。テーブルにはドッと笑い声があがり、他の席に着いていた一部の囚人たちも水を滴らせたアダムを見て騒ぎ始めた。 「静かにしろ!静かに!」 看守が声を張り上げるが、こうなると騒ぎはなかなかおさまらない。奇声のようなケタケタとした笑い声、焚きつけようとして囃し立てる声、うるさくピーピーと鳴り響く口笛。興奮してテーブルをバンバン叩く者も出てきて、食堂はまるで試合中の野球場のような騒音に包まれた。これも溜まりに溜まった彼らのフラストレーションが引き起こしている。 ー「やかましい!!」 突如、その喧騒を上回る怒号が響き渡った。「音」は一瞬でピタリと止み、一転してあっという間に静寂に包まれる。扉の前には、偶然そこを通りがかって騒ぎに気付いたフリーマンが立っていた。 「何の騒ぎだ」 近くにいた看守に問う。 「ロバートが、アダムの顔に水をぶちまけました」 そう聞くなり、フリーマンはツカツカと一直線にロバートの元に向かい、彼の前に立ちはだかった。するとパイプ椅子ごとその身体を蹴り飛ばし、床に倒れてから腹を蹴り、うずくまった彼の髪を引っ掴むと、その顔を床に何度も打ち付けた。 食堂には再びざわめきが起こるが、当然先ほどのような嬌声ではない。床にはあっという間に鼻血が広がり、これがパフォーマンスではない本気の制裁であることが見て取れた。ここに力でフリーマンを制することができる者はない。他の囚人同様、唖然として立ち尽くす看守の代わりに、アダムが止めに入った。 「フリーマン看守長、騒ぎを起こして申し訳ありませんでした。どうかお許しください。水をかけられたと言っても、悪ふざけの延長です」 「この施設内で悪ふざけをすることは誰しも許されていない」 「仰るとおりです。これから絶対にそのようなことを起こさぬよう気をつけます」 アダムが必死に詫びると、フリーマンはロバートの胸ぐらを掴んで立ち上がり、目の前の壁に思いきり後頭部を打ち付けた。 「私の管理下でナメたマネをするな。これ以上ふざけたことをしたら、この施設内はおろかシャバに出てからも命の保障は無いと思え」 耳元でささやくとその手を離し、ロバートは壁に血をこすりつけながらずるずると崩れ落ちた。 「昼食は中断しろ。全員今すぐB棟に戻れ。夕食も抜きだ。今夜は消灯を1時間早める」 そう言い残し、フリーマンは食堂を去っていった。残された囚人たちは、唯一楽しみにしている食事を抜かれても舌打ちのひとつすらせずに、先ほどとは打って変わり看守の誘導におとなしく従った。 軍人上がりの屈強な肉体を有したフリーマンによる、自身の立場を顧みない容赦のない制裁を目の当たりにして、芽を成長させていた反抗心が根こそぎ摘まれてしまったかのようであった。 アダムはすぐにロバートの肩を抱え上げ、看守と共に医務室へ向かった。水で濡らされた囚人服は、あっという間に彼の血に染められた。さすがにやり過ぎだし、異常だ。尋常でない憎悪を感じる。 これはもちろん、水をぶちまけたことに対する制裁ではない。ロバートやアルがここで生業としている麻薬の密輸に対する、フリーマンの怒りそのものの暴発だ。プログラムを変更された囚人側と同様に、看守たちも磨耗し疲弊しているのだろう。 アダムは、まもなくもっと大きな何かが勃発しそうな気配を感じていた。
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