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第3話
しかし、一歩を踏み出したその瞬間、水樹の脳裏に、鮮明な光景が思い浮かんだ。
真夜中のハイウエイを走り抜ける一台のアストンマーティン。運転手である黒髪の探偵一人と、今宵の相棒であるところの、アルバイトの十七歳の少年が乗っている。その後ろから別の車が何台か、チーターのようにすっ飛んで、追いかけていく。
俺たちはもう死ぬかもしれない。探偵はハンドルを切りながら言った。そして、忘れるな、もしも生き残ったその時は、今夜の恨みを必ず晴らすのだということを。そう付け加えると同時に、地面を引っ掻く音がし、ドアは吹っ飛び、二つの体は、外に投げ出された。
人の体というものはアーチを描きながら飛んで、地面に叩きつけられると、七十度くらい右に首が曲がるのを、水樹は見た。
そう、確かに見た気がしたのである。
***
俄かに目の前で起きているかのように再生された光景に、水樹は額を押さえた。よく見た悪夢のような気がする。何故突然、こんなものを思い出したのか、全く分からない。
「水樹、どうしたの?」
陽希の声がして、ハッと我に返った。
「いえ、少し白昼夢を見ただけです。疲れているのですかね」
「白昼夢……?」
陽希は至極心配そうな顔をしたが、水樹が大丈夫だときっぱり告げると、また曖昧ながらも笑顔に戻った。
***
水樹たち三人は、騒動がひと段落ついてから、先ほどのコンサートが開かれていた会場へ戻った。
ピアノは木っ端みじんになっており、破片のようなものが床に散らばっていた。そしてその上は、海のように大量の血が、たぷたぷに溜まっている。近くのスタッフが話していたのを漏れ聞いたところだが、藤森友香理は即死だったそうで、他は怪我人こそ出たが、死者はいなかったそうだ。彼女の遺体は誰かにより片付けられていたが、理人は目を逸らし、陽希はその背を摩っていた。
「船は、急遽、近くの港に停泊するそうですが、手続き上の問題等で、少なくとも三日はかかるそうです」
理人が懸命に落ち着いた風を装い、漏れ聞いた話を事務的に告げる横で、水樹はといえば、またここにはない景色を見ていた。
***
「水樹君は、夢を追いかけるってどういうことだと思う?」
古民家を利用したカフェで、向かいに座った女性は、水樹をまっすぐに見て首を傾げた。
「夢は友達みたいなもので、仮に一生自分のものにはならなくても一緒にいられるだけで前向きにしてくれるから良いものだと思うんです、僕はね」
「水樹君のそういう前向きなところ、私は好きだなぁ」
艶やかな黒のロングヘアを、水樹は確かに美しいと思った。触れたいと思った。思うより先に、手が伸びている。そして、その指に髪を通す。
「私はやっぱりどうしても、夢を叶えないと気が済まないんだ。強欲なのかな」
ただ、その時に笑顔を曇らせていた彼女の顔も、髪の感触も、何故か明確には浮かんでは来ない。そういう事象が、実におぼろげな古い映画のように見えただけだ。
***
遂には軽い頭痛がして、水樹は再び額を押さえる。そうしているとすぐに治った。何とも不思議な現象だ。陽希の視線は感じたが、言語化できそうもないので、特に何も言わずに捜査に戻る。
理人はぐちゃぐちゃになったピアノの天板の欠片を、腰を少し折って眺め、首を傾げた。
「ピアノに爆弾が仕掛けられていたとしか考えられない破損状況です。ただ、気になるのは、友香理さんが弾かれる前に、弾いていた方がいらしたという点です」
「ええ、コンサートが始まってからピアノに近づけたのは、ピアニストだけ。爆弾を持っている風もなければ、爆弾を仕掛ける時間もなかった。ならば、一曲目で爆発している筈です」
応じる水樹の肩の後ろから、陽希が、にゅっと首を出す。
「時限爆弾だったんじゃねぇかな。犯人は、ピアニストのうち、誰が死んでも良かったし、ほかの何人が死んでも良かった。無差別殺人だ。時限装置があれば可能だろ?」
「なるほど、一理ありますね。まぁ、一先ずは、関係者に聞き込みに行きましょう」
水樹が歩き出そうとすると、陽希が「ちょっと待って」と素っ頓狂な声を上げる。
「聞き込みは、やっぱりやめておこうよ」
「どうしたんですか、藪から棒に」
「それか、俺だけが行くよ」
「聞き込みには全員で行かないと、後ほどの情報共有が面倒でしょう。僕をのけ者にしないでください」
水樹が語気を僅かに荒らげると、陽希は肩を竦め、不服ながらという風に、頷いた。
***
ピアニストたちの控室は、ステージの裏側にあり、廊下は長く、窓から差し込む光でほんのりと照らされている。先を見通せる程度の明るさはあるが、薄暗い印象を受ける。壁には何も飾られておらず、絵が飾られている客室のあたりとは大違いだ。足音がよく響いた。ただ、床の中央に敷かれたカーペットには埃一つ見られず、手入れが行き届いていることが分かる。
控室のドアの前で、ボディガードらしい男性二人組に遮られた。水樹が得意の英語で彼らに説明したため、攻撃は受けなかったが、通してもらえそうにはない。まぁ、当然のことではある。
しかし、そこでドアが僅かに開き、真っ赤なドレスに巻き髪の女性が片目だけ見せた。
「水樹君」
水樹はまた、親しそうに名前を呼ばれたことに、不信感を覚えた。しかし、彼女が「入っていい」というので、その言葉を利用する。
どうしても、この事件だけは解かなくてはならないような気が、その時はした。
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