入れ替わりの術式

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入れ替わりの術式

月明かりのなか、我を忘れて走る。 今は一刻もはやく師匠の屋敷に行かなければならない。 今晩に約束していた鍛練に師匠が来なかった。几帳面で約束を破ったことのない師匠が来ないはずがない。 ふと脳裏に師匠の笑った顔が思い浮かんだ。 嫌な予感がする。 「師匠、どこにいるんですか」 屋敷をくまなく探したが、師匠はどこにも見当たらない。顔を冷たい汗が流れるのを感じた。 屋敷でまだ探していないのは、あとは蔵だけだ。 「師匠!!どうか……どうか間に合ってください!!」 いつもは固く閉ざされている分厚い蔵の戸を押すとギチギチと嫌な音をたて、それは開く。 そこには想像を絶するほど異様な光景が広がっていた。 天井から床までおぞましいほどの術式が張り巡らされている。 その中心には力なく横たわる師匠と、その傍らに刃物のようなもの。 そして、兄弟子が立っている。 朔は、間に合わなかったのだ。 「師匠から離れろ!!」 そう叫ぶと兄弟子はこちらを振り向く。その顔は笑っていた。 なぜかその顔が師匠に似ているような気がして、朔の足はすくむ。 その隙に突き飛ばされ、あっという間に逃げられてしまった。 しかし、そんなことより今は師匠のほうが大事だ。 慌てて師匠に駆け寄るが、師匠はもう手遅れだった。 朔は頭が良い方ではない自覚はあったが、この状況を見れば誰に聞かずともわかる。 地面に伝う赤がそれを克明に物語っていた。 「起きてください師匠!!師匠!!」 ダメだとわかっていても、叫ばずにはいられない。 揺すって師匠を起こそうとした。けれど師匠は少しも動かない。 ここは山奥だから救急車を呼んでもきっと間に合わないだろう。 それでも諦められなくて、スマホを取り出したその瞬間。突然蔵がミシミシと音を立てて崩れはじめた。 スマホを投げ出し、慌てて師匠を運び出そうとしたが上手く抱えられない。 「どうした、朔。そんなところにいればお前も巻き添えを食うぞ」 兄弟子は蔵の外から冷めた灰色の目でこちらを見ていた。 「うるさい!!私は師匠を助けるんだ!!」 私はなんとか引きずってでも師匠の体を外に出そうとした。そこから私の記憶は無い。 次に目覚めたのは、病院のベッドの上だった。 「春月様……」 師匠の名前が聞こえる。あわてて飛び起きると、そこには師匠の付き人である朧さんがいた。 「師匠は助かったのですか!!」 そう尋ねると、朧さんは悲しそうな顔で首をふる。 「私が着いた時にはもう……」 そうか……私は、助けられなかったのか。受け入れたくない現実。 幼い頃、泣かないでくださいと頭をなでてくれた師匠の手のぬくもりを思い出した。 息が苦しくなるほど泣きたくなるけれど、もはや泣くことさえできない。それほど絶望している。 私は師匠を愛していた。それをはっきりと自覚したのは、師匠がいなくなってからだった。
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