満面の笑み

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満面の笑み

静かな室内に、チーン!と小気味良い卓上ベルの音が響き渡る。 「朧さんはなぜそんな笑顔なんですか?」 春月は尋ねた。 朧はその言葉を聞いていないようで、満面の笑みで卓上ベルを鳴らし続ける。 この近くに他の民家がないから、近所迷惑にはならないだろうが。 そんなに鳴らす必要がどこにあるというのか。 「なぜベルを鳴らすんですか?」 朧はベルに夢中で答えない。 それでもベルを鳴らすものだから、春月は聞かずにはいられなかった。 「あぁ、これはおりんの代わりなんです」 朧によると、卓上ベルはおりんの代わりになるらしい。 なぜかはわからないが、今朝から朧はとてもご機嫌である。 (なんだこいつ怖すぎるだろ) 身近な人が一人いなくなったというのに、なぜこんなに笑顔になれるのか霞には理解ができなかった。 せめてもう少し、仮に嘘だとしても悲しそうにすべきだろう。 霞は朧のことは苦手だったが、これを見てもっと苦手になった。 ちりぺっぺは朝からみかんを食べてお腹がいっぱいで、少し眠そうにしている。 「ちりぺっぺ、朝なんだから起きなよ」 春月はちりぺっぺを起こそうとするが、びくともしない。 ちりぺっぺが眠りによって意識を失うと、ようやく霞に主導権がまわってきた。 とはいえ、特にやることもないので大人しく座布団に座る。 (それにしてもこの屋敷の人間は謎が多いな) あれからちりぺっぺの墓の隣、元は蔵があった場所に春月の墓が立てられた。 そして、屋敷の広間の片隅に小さな一人用テーブルが置かれる。 その上には春月が菓子を食べている写真、ちりぺっぺをだっこしている写真、昼寝をしている時の少し間抜けな写真の三枚。 それぞれ写真立てに入れられ飾られていた。 そばにはなぜかみかんの食べられた後の姿がいくつか、卓上ベルとともに添えられている。 「これからは春月様のお仕事も霞さんが頑張ってくださいね」 朧は突然振り返って春月の方を見た。つまり、頭領の仕事をやれということだろうか。 確かに霞は弟子のなかでは古株ではあるが、朧に比べれば赤子のようなものだ。 「頭領の仕事は朧さんがやればよいのでは?」 「私より、霞さんの方が適任ですよ」 春月がそう言うと、朧は即座に否定する。 春月のときも先代から頭領の座を打診されはしたものの、朧はすぐに辞退していた。 「朔さんも怪我で入院しておりますから、霞さんには三人分働いてもらわないと困りますねぇ」 そうだった。あの時気絶させて放置した朔のことを忘れていた。 今さら朔のことを思い出した春月は急に心配になってくる。 「朔さんっていつごろ退院できそうですか?」 別に聞いたからどうなるわけでもない。それでも春月は、なんとなく知りたかった。 「そうですね。ま、一ヶ月くらいかかるのではないかと聞いております」 一ヶ月と聞いて、春月は少し申し訳ない気持ちになった。 しかし朔はあの時、そこにいた霞の顔をハッキリと見ている唯一の人物だ。 彼だけが霞の罪を知っている。 「おい、あいつが帰ってきたら面倒なことになるぞ」 ちりぺっぺは春月にささやく。 「いや、おそらく大丈夫だろう」 春月は落ち着いた様子だ。 「どうしてそう言えるんだ?」 春月はちりぺっぺに近づいて小声で話す。 「朧から何も言ってこないということは、おそらく朔はまだ何も話してはいない」 霞はまだ信じられないらしい様子だ。声からだけでも疑いの気持ちがひしひしと伝わる。 「確証はあるのか?」 霞は尋ねた。確信を得ることなんて、不可能だ。 そんなことは、霞自身もわかっている。 「朧は朔に付き添って病院に行っただろうから、話すことがあるなら朧に話しているはず、もしかすると何か話さなかった理由があるのかも」 そこで春月は少し考え込んだ。 朔は春月と違ってしっかりした性格なのでうっかり言いそびれるなんてことはありえない。 おそらく朔は自分の意思で何も話さなかったのだろう。 そして朔にとって、霞は師匠を殺した憎い仇だ。 「朔は誰の手も借りず、私に復讐するつもりなのかもしれない」
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