満面の笑み

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いつものように? 春月は朧の言葉に違和感を感じていた。しかし朧に直接聞く勇気もなく、結局聞きそびれてしまった (朧は、私と霞が入れ替わったことに気づいているのかもしれない) あの入れ替わりの術式を組んだのは、絶対とは言えないが朧で確定だろう。そうすると、朧がこのことを知っている可能性は非常に高くなる。 (あの術式を確実に組めるのは朧だけだが……) 能力だけで言えば、霞と朔も頑張れば組めないことはない。しかし霞は入れ替わりに驚いていたようだし、朔は病院送りになっている。 蔵で長時間術式を組むとなると、第三者の仕業という線も薄い。 (やはり、朧で確定か……) 春月が悩んでいるその隣でちりぺっぺは小皿に盛られたきゅうりとささみハグハグと勢いよく食べている。 結局、ちりぺっぺも霞も次の日の朝まで起きることはなかった。 「これは味がして、おいしい」 霞は久しぶりのまともな味付けに感動していた。ちりぺっぺは舌なめずりが止まらないようだ。食べ終わったあと、春月を見上げる。 講義は10時からはじまる予定だ。それまでにいろいろと準備しておかないと。春月が動くと、ちりぺっぺも走る。 行く先々、どこにでもついていきたい。 ちりぺっぺは春月を監視するのが昔から趣味だった。 慌てているうちに、いつの間にか午前10時。 春月は、緊張の面持ちで広間に立つ。向きが揃えられたローテーブルに本を置いて、座布団に座った門下生たちが熱心にこちらを見ている。 その中にはちりぺっぺもいた。お行儀よく座布団の真ん中におすわりをしている。 「では、みなさんはじめますよ」 号令をかけた朧はなぜか、バランスボールに乗っている。 「今から、変身の術式を教えたいと思います」 春月は朧のことは気にしないことにした。 「今から私が手本を見せます」 床に術符を三枚の置き、それを指でなぞる。すると、淡い光が春月の体を包み込む。 「どうですか?」 霞の体だった春月は、外見だけは元の春月に戻った。感心するような声が聞こえる。きっと成功したのだろう。 「今の術が成功したなら、皆さんには私が春月さんに見えているはず」 じっと見つめる視線が痛い。春月は朧に尋ねた。 「朧さん、どうです。私の術は成功してますか?」 朧は春月をじっと見た。 「およそ成功はしていると思いますけどね。服装がちょっと」 春月は洗面台へ向かう。そしてわずかな時間の後、すぐに引き返してきた。 「失礼。服装が変でしたね。もう一度やり直します」 確かに、顔も体つきもしっかり春月ではあった。問題は服装である。変身した春月はなぜか例のダサい狸パーカーを着ていた。 「私はそのパーカーもかわいいと思いますよ」 朧が謎のフォローを入れた。ちりぺっぺは何か言いたげな顔をしている。いや、実際に霞が何か言っている。 「黒っぽくて目立たない服がそれしかなかったんだよ……すまない。許してくれ」 もちろんそんな声を聞く余裕は春月にあるはずもなく、あわてて術符を床に置き順番になぞる。 「あら、今度は私が二人に?」 そこには朧の姿。その場に朧が二人いるという謎の状況が完成した。 「今回はあえて、朧さんの姿になりました。これは失敗ではありませんよ?」 実際には、春月は失敗していた。本当は春月の元の姿に変身するつもりだったのだ。しかし、あわてて二回も失敗したとなれば示しがつかない。 ここは失敗していないことにしよう。 春月の思いもむなしく、そこにいた誰もが失敗したことを察していた。誰もそのことを指摘しない。それは紛れもない優しさだった。
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