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すっかり日も登った午前10時、誰もいない屋敷の壊れた蔵を一人の男が眺めていた。
背が高く切れ長で色素の薄い紫の目、美しい黒髪。
その男は、昨夜この蔵を破壊した人物と同じ容姿をしている。
その姿は、春月の弟子の霞と瓜二つ。
(中の術式は破壊できただろうか)
霞によく似た男は、蔵の様子を眺めている。
けれど外から見るだけでは、よくわからなかったようだ。
(念のために追加で投げておこう)
そう考えた男は、瓦礫に向かって術符を投げる。
札が張り付いたその瞬間、瓦礫は弾けた。
その衝撃は大きな瓦礫すら木っ端微塵にしてしまうほどすさまじいものだ。
男は砂利の山のようになった蔵を見下ろしている。
ゆっくりと目線を動かし、山の全体を見渡す。大きな瓦礫は、もうどこにも残っていない。
それでも男は、しばらく山を見続ける。
上から下へ。目を動かし、今度は下から上へ。
そうして再び視線が頂点へ向かった時。男は、ふいに山から目を離した。
どうやら満足した様子だ。
用を済ませた男は、手持ち無沙汰にでもなったのだろう。
呆然とその場に立ち尽くしはじめた。
手足から力を抜き、力無くその場に佇んでいる。その姿は、今にも消えてしまいそうなほど儚い。
(なんだか、疲れてしまった)
男は、別につらいわけではなく。かといって、絶望しているわけでもない。
ここまで短時間に色々なことがあると、誰だって精神的にくたびれるものだ。
どこか遠くの景色を眺めるようにぼんやりとしながら、この短時間の記憶を辿ってゆく。
昨日の夜空には、満月が浮かんでいた。
それを見ていた記憶だけは、はっきりと残っている。
それ以外は今思い出してもよくわからない。覚えていても、理解ができない。
それほど衝撃的な出来事だった。
こんなことが起こるだなんて誰が予想しただろうか。
突然、何かを起点として入れ替えの術式が発動したのだ。
それをある程度理解するのは、入れ替わってしばらくしてからのこと。
春月の体は、瞬く間に誰かのものと入れ替わっていた。
倒れた自分の体を見下ろす視点に、春月はしばらく呆然と立ち尽くす。
その時は、幽体離脱でもしてしまったのだろうかとも考えていた。
「……なぜ」
倒れた春月の体が何か言っているようだ。
そもそも、春月は入れ替えの術式を解除するために蔵にいたはずなだ。
それなのに、なぜ術が発動してしまったのか。
そこが一番の疑問であったが、それはすぐに解決する。
そうだ、蔵に入ってしばらく術式を眺めていたら突然後ろから激しい衝撃と痛みを感じたのだ。
(もしかして、刺された……?!)
春月は思い出した。そうであれば、その時の血が術式を発動させる引き金になった可能性は非常に高い。
とはいえ、どうすべきか。
混乱した頭で辺りを見回すと、一面に張り巡らされた術式が嫌でも目に入った。
事故とはいえ、入れ替えの術式は禁術である。
禁術とは、禁止術式の略。この術を使ってはいけないことは、もはや言うまでもないだろう。
それに加え禁術に手を出した一門は、厳しく罰せられる決まりとなっている。
この術式を組んだのは春月ではないが、頭領としての責任は軽くはないはずだ。
黙っておけば無いのと同じ。
これを最初に見つけたときから、春月は隠蔽するつもりでいた。
正直に申し出たところで、情状酌量が得られるとは思えないからだ。
部外者の犯行か、身内の犯行か。どちらにせよ潔白が証明されることだけは無い。
この禁術は無かったことにする。それだけは確実に決まったことだ。
(それはそうとして、犯人は誰なのだろう)
黙っているにせよ、誰がやったのか把握くらいはしておきたいところだ。
春月は、身近な人間の顔を思い浮かべた。
犯行を身内に限るのであれば、おそらく犯人は朧だろう。
春月の一門に属していて、禁術を簡単に組めるほど腕の立つ者。
それは、おそらく朧だけだ。
もし彼だとしたら、いったいなぜこんな術式を組んだのだろう。
考えても、春月にはわからない。
そもそも、春月がこの術式を見つけたのはつい最近だった。
普段蔵に出入りしない春月は、こんな大規模な術式が組まれているなんて夢にも思わない。
扇風機を探していて偶然これを見つけたとき、春月は本当に焦ったものだ。
これが他の一族の連中にバレたら本当にろくでもないことになる。なんとかせねば。その当時からずっと考えていた。
しかし、今はそれよりももっと深刻な状況にある。
そんな風に様々なことを考えていると、突然背後の扉が開く音がした。
「師匠から離れろ!!」
突然の大声に驚いて一瞬肩がはね上がる。
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