入れ替わりの術式

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なんとか振り向くと、そこには朔がいた。そういえば今夜鍛練の約束をしたのだった。 術式の騒動で頭がいっぱいだったので忘れていた。 笑ってごまかそうとするも、朔は怪訝そうな顔をしている。 そうだった。今は春月の体ではないのだった。春月はそれも忘れていた。 どう話したってこんな状況わかってもらえるわけがないだろう。 春月はこの状況を的確に伝えるすべを持たなかった。 他に何ができるだろう。春月は焦る。 どうにか逃げ出そうと朔を押し退けると、予想外に激しく突き飛ばしてしまう。 そうだった。これはいつもの春月の華奢な体とは違うのだった。 痛そうに体を押さえる朔に心の中で謝りつつ逃げ出す春月。 そこで思い出す。 そういえば、この術式が見つかるとまずいことになるのだった。 この術式が禁術であることすら、朔は知らないだろう。 知らないのであれば、それを消そうだなんて考えもしないはず。 禁術の証拠を残したまま放っておけば、他の一門の誰かに見つかってしまうリスクは避けられないだろう。 春月は禁術の存在を、頭領になる過程で先代から教わっていた。 それも、ほんの少しの説明と共に一枚の図解を見ただけだ。 普通の陰陽師であれば、直接見たとて。これが禁術だなんて思いもしないだろう。 それでも、見抜ける人間が全くいないわけではない。 頭領を務める程の実力者であれば、禁術を知らないなんてありえないだろう。 (これは、私の責任だ……) 春月はふと思い出す。 それは、幼い頃の朔のあどけない笑顔。 その思い出はあまりにも眩しい。幸せな思い出に、春月は目眩を覚える。 今でも朔は素直で、本当に良い子だ。 本来であれば春月は、朔をこんなことに巻き込みたくはなかった。 懐にちょうど仕舞われていた破壊の術符を取り出す。 本来であれば蔵ごとなどではなく、ゆっくり時間をかけて術式のみを解除する方が無難である。 しかし残念ながら、今の春月にそんな猶予は残されていない。 一族の頭領として、最後の仕事が禁術の証拠隠滅になるとは。 春月は感慨に耽っていた。ゆえに気づくのが遅れた。 先程まで倒れていた場所に朔がいない。 あれだけ痛そうにしていたからもう、動かないものと油断していた。 崩れ行く蔵を覗けば、そこに朔はいる。しかも倒れた元の春月の体にぴったりと寄り添っていた。 「どうした、朔。そんなところにいればお前も巻き添えを食うぞ」 なるべく平静を装って声をかけたが、少し声がふるえていたかもしれない。 「うるさい!!私は師匠を助けるんだ!!」 春月は泣きそうになった。しかし、蔵の崩壊は待ってくれない。 健気に寄り添う朔には悪いがここは強引に引っ張り出すことにしよう。 静かに朔の後ろに寄り付くと思わぬ抵抗を受けた。 なので仕方なく軽くはたいてみると、今度は気絶させてしまった。春月は己の怪力ぶりに少し震える。 「うぅ……」 難なく担ぎ上げて蔵の外へ連れ出すと、朔は短く唸るような声を出す。よかった。どうやら生きているようだ。 その時の春月の手元には、治癒の術符はおろか治療できそうな道具が何もない。 いっそ、はたいて起こそうか。 春月は一瞬考えたが、やめておくことにした。この使いなれない怪力では、本当に息の根をとめかねないからだ。 そうしていると、向こうから誰かがやってきた。 朧だ。反射的に身を隠すと、朧は倒れている朔に気がついたようだ。 蔵の術式の破壊は完全とはいえないが、ここは立ち去ったほうが良さそうだ。 春月はその場で耳を澄ませる。 門の近くには、朧が連れてきたのか数人の気配が感じられた。 春月は誰の体と入れ替わったのか。 おそらく男性ではあるだろうが、鏡を見ない状況では正確に判断することはできない。 いったい誰と入れ替わったんだろう。大きな不安と少しの好奇心が春月の心を覆う。 後ろから急に襲うくらいだから、おそらく春月の一門とは敵対関係にある人物には違いない。 そうでなくとも、すぐそばに破壊された蔵や、倒れた朔がいるのだ。 問答無用で攻撃されても、何もおかしくはない。 春月は己のみが知る、秘密の裏口の存在を思い出した。 それは昔、朔との遊びで使っていたものだ。 その扉は春月か朔しか開けられない、特殊な術式がかけられている。 そこからなら、誰にも見つからず出られるだろう。 懐かしさと寂しさを同時に覚えながら、春月は扉を開く。 当然のことながら、その先には誰もいない。
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