0人が本棚に入れています
本棚に追加
一人の女性が川沿いの道を歩いている。そう、彼女……リリーシュが、顔を上げる。視線の先に湖が見え始める。流れの緩やかな小川は、やがて巨大な湖に流れ込んでいる。安堵の表情が彼女の顔をよぎる。歩き疲れていたのかもしれなかった。
一匹の犬がリリーシュの目の前を横切り、そのまま小川に飛び込んでいった。犬を追うように笑い声がして、続いて一人の青年が現れた。そう、彼……牛飼いのギルは犬と戯れながら、まもなくリリーシュに気づく。二人はしばし、見つめ合う。
リリーシュは突然に現れたギルに驚き、鼓動が激しくなる。血の巡りが速くなったような気がする。実際に、頬に熱を感じている。ギルは、なおもじゃれつこうとする愛犬を手で制し、春の夕暮れ、日がかげり始めた麦畑の隅にたたずむ青白い光に目を奪われた。この辺では見かけない、旅人だろうか、いや、それにしては荷物がない。
二人は二言、三言、言葉を交わす。何か惹かれ合うものがあったのかもしれない。近くにある休憩用の小屋で食事をすることになる。暖かな夜だったけれど、明かりの代わりにたき火を囲んだ。ギルが小屋にあったもので簡単なスープをつくってやると、リリーシュはさざ波のように穏やかな微笑みを浮かべ、礼を言った。
食事を終えると、少しずつ、自身のことを打ち明け合った。ギルは近くの村から放牧に来ていた。この辺りはいい草地があるし、水辺も近い。麦畑はそろそろ収穫の時期だろう、そうなれば落穂拾いの稼ぎも入るのだから、まだ小さな弟や妹たちに何か買ってやろうと思っている。
リリーシュは、町で縫いぐるみ編みをしていたのだといった。縫いぐるみを知らないギルのために、床に敷いてあったワラで小さな人形を編み込んだ。人形は二人の間に屹立した。やがて、人形がしゃべり出す。町での生活、繰り返される日々の話だ。ギルは出し抜けに笑い出した。リリーシュが声を当てているのだった。それは二人の寝物語になった。火が尽きる頃、敷きつめたワラの上で深く交わった。肌と肌をワラがくすぐる。だけど、そんなこと、気にも留まらなかった。
ギルは、愛犬の鳴き声で目を覚ます。朝焼けが小屋の中に入り込んでいる。愛犬は小屋の外で吠え続けている。リリーシュの姿はどこにもなかった。そう、彼女はいってしまったよ、とギルの足元に屹立したままの人形がつぶやく。そう、彼女は川を下っていったんだよ……僕たちでは、どうしようもなかったんだ……
小屋を出る。一面の麦が金色の水面になり、輝いている。麦畑の先にあるはずの湖面も、今では金色に染まり、その境を失っている。ギルの首筋にはワラにくすぐられた感触だけが残り、いつまでも消えなかった。
最初のコメントを投稿しよう!