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「ファンタジー水族館」の思い出 後編
引きずり込まれたおっさんは、自分に何が起きたか、たぶん理解してなかった。
困惑した顔をしていた。
俺は息を飲んだ。
イルカやシャチが客を水槽に引きずり込むとなると、大きな事故だ。
いま、不用意に人魚の水槽に近づいたおっさんが、同じように引きずり込まれたのだ。
係員も、調教師もいなかった。
それがまずかったのだろう。
人魚は、人間離れした力でおっさんを水中に沈めた。
激しくもがくおっさん。
さすがに何が起きたか理解しただろう。
次の瞬間、水中に血煙が漂った。
人魚たちは、噛みついているのか、引きちぎっているのか、ヒレで切り裂いているのか…あるいはその全部かもしれない。
素早い身のこなしで水中のおっさんをついばんでいく。
もがくおっさんの周りを、縦横無尽に泳ぎ回り、血煙が広がっていく。
そのうち、おっさんの作業着の切れ端や、見たことないような肉が…たぶん腹の中のもんだが…水中に漂い始めた。
もうガキの俺から見ても、おっさんが助からないのは目に見えていた。
おっさんから出たものを人魚は口に加えており、さっきまで激しく暴れていたおっさんは、ドザエモンのごとく水面に揺られていた。
水槽は青色から、赤い色が広がっていた。
俺は怯えていた。
俺は怖いもの見たさの恐怖と、好奇心と、幼いながらも抱いていた性的好奇心に…満たされていた。
…人の臓物を口に加え、血と水に濡れた艶めかしい人魚の姿は…そりゃあ見事なもんだった。
突然、火災報知器のようなベルが鳴った。
金切り声を上げた警備員達がなだれ込んできた。
異変に気づいたのだろう。
俺はすぐに締め出され、トイレから戻ってきた親父ともども人魚コーナーから追い出された。
「坊、何があったんだ?」親父が聞く。
「酔っぱらいのおじちゃんが、水槽に引き込まれた!」俺は親父に言った。
「本当か?」親父は俺たちを押し出す警備員に聞いた。
「ええ。だから近寄っちゃだめなんですよ」
警備員は忌々しそうに言うと、それからは何も言わず、俺と親父を追い出した。
それが俺の見た事件さ。
翌日には、新聞に載ってたと思う。
酔っぱらいが、海獣にいたずらしようとして水槽に落ちたと…。
親父がそう書いてあると言っていた。
「いやなもん見ちまったなあ、坊。すまねえなあ」
親父はそう言った。
「イルカが客を引きずり込むことだってあるんだよ!そんないい加減な水族館に、坊やを連れて行くんじゃないよ!」
おふくろはそう言って怒っていた。
「残念だなあ。人魚のねえちゃん、良かったのになぁ。残念だなあ坊」
親父は仕切りに残念がっていた。
結局、親父も俺もそれ以降水族館に行くことはなかった。
それから風のうわさで「ファンタジー水族館」は潰れたと聞いた。
俺はそのせいで、物心つくまで、人魚ってのは現実に存在して、油断したら恐ろしい事をしでかすと思っていた。
皆から、人魚なんて存在しない。
「ファンタジー水族館」の人魚は、コンパニオンかなんかだと聞くまでは、俺は自分の目で見た事を信じていた。
皆が言うように、俺の勘違いかもしれない。
実際は、イルカとかアシカにおっさんが引きずり込まれただけかも知れない。
人魚なんて存在しなかったのかも…。
まあ、幼い俺の妄想なら笑い話だ。
現実にあんな生き物が海にいると思ったら、恐ろしくて海なんか近づけないもんな。
だが、あの残酷な事件と人魚の妖艶な姿は…はっきりと現実味を帯びて…今でも俺の脳裏に焼き付いているんだ。
【おわり】
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