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会計
「ねぇ、会計で、私より後の人が先に呼ばれているって、どういう事?
えこひいきか何か?」
コムデギャルソン風のファッションに身を包んだ40がらみの女が、周囲の視線などお構いなしといった感じで、病院の受付カウンター越しに文句を言っている。
対応した来栖奈々は「また、この人か!」という思いで、女に冷たい視線を投じてしまいそうになるも、一旦、気持ちをリセットし
「こんにちは。どうなさいましたか?」
と応対する。女は
「順番がおかしいのよ。後の人が先に呼ばれてさ。
私なんかずっと、待ちぼうけ食らわされて…お宅の病院は人の時間をなんだと思ってるの?」
とかみついた。
「さようでございますか。今、確認してまいります」
奈々は一旦、奥に引っ込み、女の言っている事が事実なのか確認する。何か事情があったようだが取り敢えず女の下に戻り
「すみません。こちらの手違いだったようです。直ぐにお呼び致しますので
もうしばらくお待ちください」
と謝った。
女は「ふん」といったような感じでその場から立ち去るが、結局のところ、鬱憤ばらしをしたいが為の言いがかりである事には間違いない。
四年前、宮田総合病院の事務として採用された当初は、受付業務中、チンピラ風の男にからまれたり、狂言で物を盗られたと大騒ぎする女性に遭遇したりとありとあらゆるアクシデントが勃発した。
それらに対して真面目に取り組み、ほとほと疲れた時、奈々は事務局の同僚である佐藤卓に声をかけられた。
「来栖さん、今日ちょっと時間ある?」
フレーズの響きから、決して誘ってきている訳ではないと判断した奈々は恐らく仕事上のミスを指摘されるか、何かだろうと推測した。
病院から数分の距離にある喫茶店で差し向かいに座り、やや緊張気味に佐藤の顔を見ると、彼はこちらの予想を裏切るように初っ端から自分の生い立ちや学生時代のエピソードを話し始めた。
佐藤は病院の理事長と田舎が一緒らしく
「そのおかげで、この病院の採用が決まったと思う」
と、さもラッキーな出来事のように言う。
そして、彼が病院に入った当初は専門学校で身につけたスキルで対応出来、特に壁にぶつかる事もなく、仕事をこなしていたという事だった。
「ただ、クレーマーに対しては何の対応も学んでいなかったから本当に悩まされてね。
休日に向こうからそのクレーマーに似たような人が歩いてきただけで心臓がバクバクしたりとか。
今、思い返してみても相当参ってたんだろうな」
初回は、終始、お茶を飲みながら一方的に佐藤が話をするだけで終わった。
その後も何回かお茶に誘われるものの、彼の方から奈々に対しての質問などはなされなかった。
一度「来栖さんて、自宅通勤?」と聞かれた事もあるにはあったが、そこから話が膨らむ事もなかった。
こうして男の意図がどこにあるのかはっきりしない、蛇の生殺しのようなデートが再三繰り返されたある日、奈々は、佐藤から
「今日はちょっと付き合ってほしい場所があるんだけど、時間、大丈夫?」
と切り出される。
奈々は、この何の変哲もないデートに飽き飽きしていた事もあり
「いいですよ」と二つ返事で承諾した。
病院所在地の最寄り駅から、電車で30分ほど移動した後、降り立った駅は馴染みのない地名だったが、奈々は、すっすっとこちらを振り返る事もせず先を行く佐藤に遅れまいとするように速足で追う。
7~8分でたどり着いた建物はギリシャ神殿のような建築物で、佐藤の後につき、裏門から中に入る。
内部は体育館を思わせる造りになっていて、畳一畳分位の引き戸を開けると、
プール大の面積の大広間が目に飛び込んでくる。
そこには、簡易式の椅子が整然と並べられており、大勢の人が席に着いていた。
人々は皆、隣同士会話するような事もなく、広間の正面に設えられた写真に向かってぶつぶつと念仏のようなものを唱えていた。
それを見て、やっと、奈々は、佐藤の思惑に気づく。
異様な光景を目にしても「私、失礼します」と言って帰ることもせず、後方の空いている席に座って、事の成り行きを見守ってしまったその時の心境は一体何だったのか、今、思い返してみても答えが出ない。
しかし、ただその場にいるだけで、仕事によってささくれ立っていた気持ちがリフレッシュされるような、言わば心が自動的に修復されていくような時間を味わった。
佐藤はこの宗教の青年部におり、神の加護が必要な人間を見定めては、礼拝所に連れてきているのだと言う。
奈々は、初回だけ連れて来てもらい、その後は一人で、神との対話に出向いていった。
奈々自身、この宗教に携わって、劇的に運命が変わったり幸運に見舞われたりというような事実はなかったものの、仕事上では大いにプラスになった。
ある日、奈々は、礼拝所で宮田総合病院で知る人ぞ知るという存在の看護師長、羽鳥葵の姿を発見する。
羽鳥の情報も、同僚の佐藤卓からもたらされたものだった。
羽鳥葵は看護学校時代から、他の学生より、頭ひとつ抜きん出ていたという。
成績優秀で、ナースとしては外す事の出来ない実技が、既にそつなく出来ていたという羽鳥は、五年も経つと、新米医師達が絶大な信頼を寄せる存在になっていた。
羽鳥は常に、ナースとしての仕事を優先的にこなしつつ、箸にも棒にもかからぬインターン達をそれなりに使える様に教え込んだ。
こうした経緯から、奈々は一方的に羽鳥葵の事を知っており、勝手に親近感のようなものを抱いていた。
今日の羽鳥は、東欧の女性の様に、スカーフて頭を覆い、幹部が読む経典に耳を傾けている。
時折奈々は、同じ信仰に救いを求める者として、彼女に声をかけたくなる衝動にかられるも、周囲の静けさもあり、未だにそうするには至っていない。
現代人は、毎日、多方面から情報を取り入れ、その取捨選択をするだけで1日が終わると言っても過言ではない。
そうした事を踏まえても、心の拠り所となる信仰を持ち「周囲の雑音を断ち切って、神に祈りを捧げる」という行為は、あながち間違いとも言えないのではないか?と、奈々は考えた。
ーモンスターペィシェントの人達も、信仰に限らず、我を忘れて打ち込めるものを見つけられればいいのにー
奈々は「推し」も持つのもアリだなと思い、この先も増え続けるであろう信者達の姿を目におさめた。
宮田総合病院のレントゲン技師、中川良太は勤続10年を振り返り「早いものだ」 と思った。
自身の仕事は、日がな1日、暗い中での業務を余儀なくされ、放射線被曝と共に、健康からは大分かけ離れた仕事と思い込んでいた。
それでも医師と共にレントゲン写真読影会に参加すると、正確に画像診断を下す自分がおり、少々誇らしかった。
このレントゲン写真読影会は、外科医の真鍋によって、月二回行われていた。
レントゲンの画像診断が大の苦手だった真鍋は、当時の放射線室、室長、村木に頭を下げ、教えを乞う。
村木は、家族の待つ家に早い所、帰りたい気持ちを返上し、真鍋の為、時間を作った。
多少、荒っぽい言い方になっても、真鍋のやる気に火をつける為と思い
「こんな事もわからないでどうする?」
と、敢えてきつい言葉を吐き、焚き付けたりもした。
二人の勉強会は、数年に及び、真鍋は、自信を持って、画像診断が出来る医師に成長した。
そして村木が病院を去る際、彼から言われた
「次はあなたが若手に教える番です」
と言う言葉にならい、後進達の為、独自の画像読影会を開催していたのだった。
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