10.脱出

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10.脱出

 マリアを載せたキャビネットを押すヨシダ軍医長とアリスは、廊下の突き当たりに到達した。そこにあるエレベーターに乗り、軍医長は太い指先で遺体搬送中のボタンを押した。 「屋上にオレのドローンがあるから、それを使ってくれ。この子を自宅に置いたら、作戦部の一般駐機場に戻しておいてくれ」  遺体と一緒に乗ろうという者はおらず、エレベーターは誰にも邪魔されず屋上階に到達した。大粒の雨が降り注ぐ駐機場を横切り、軍医長のドローンに人工子宮と生命維持ユニットを載せる。それから、彼は自分の白衣で雨を防ぎながらキャビネットを開き、中のフィルターを取り出してアリスに渡した。 「キャビネットはあのドローンに載せる」  軍医長が顎で差した方を見ると、アリスや軍医長のものより大きい高級ドローンが駐機しており、その前で傘を差しているのはマエヤマ司令官に間違いなかった。 「キャビネットにはGPSが装着してある。これで、マリアは司令官が連れ去ったと偽装できる」 「え?」 「マリアを無事に逃がすための作戦だ。おまえは何も言うな」 「そんなことしたら、司令官が……」 「それが、あの方のご指示だ」  アリスは背筋を伸ばし、マエヤマ司令官に敬礼した。こみ上げる涙を、雨が隠してくれた。コクピットに飛び乗り、エンジンを始動する。遠ざかる屋上で、司令官と軍医長が雨に打たれキャビネットをドローンに積み込むのが見えた。  およそ十分のフライトで自宅に戻り、スッタローネとふたりでマリアを地下室へ運び、ユニットのセキュリティ・システムを起動する。そうして、アリスは再び基地の作戦部に戻った。    *  どれほどの騒ぎになっているか、と案じたが、そもそも、マリアの存在自体が機密事項であり、サコタ作戦部長以下、事件の詳細は何も伝えられていない。ただ、海軍大学病院でモスキートが捕獲されたという情報だけは伝わっていた。 「情報統制で全く事態がつかめない。いったい、何が起きているんだ?」 サコタがアリスに詰め寄った。 「三匹のモスキートがマリアの近くで捕獲された。今、工学研究所で素性と能力を調べているはず」  サコタはすぐさま工学研究所に調査結果の共有を求めた。そして、今回モスキートの捕獲に活躍した温熱探知センサーの配備状況の確認と、不足と思われる施設への緊急配備、そして、探知作業のランダム化を指示した。 「相変わらず素早いわね」  アリスに褒められたサコタ部長は、鼻から短く息を吐いた。 「おまえならどうするか、おまえなら何を忘れるか――。それを考えて行動するクセがついた」  七年前、アリスが外務局へ異動する直前、サコタは彼女にプロポーズした。真剣な目で告白したサコタを前にして、アリスはぷっと吹き出し、ごめん、大好きだけどタイプじゃない、と答えた。  数日前、基地に隣接する造船所で新造の飛翔潜水艦を見た帰り道、彼はちょっとした皮肉を言った。 「ところで、タイプな男とは出会ったのか?」  すると、大きな目をいたずらっぽく光らせたアリスは、こう答えた。 「そうなの。頭が悪そうで、放っておけないくらいタイプなんだ」 「いつか、紹介してくれるか?」 「もちろん。あたしが面食いじゃないってことが証明される」 「そんなことは知っている」  工学研究所からモスキートの調査結果が共有されたのは、深夜〇時過ぎだった。  モスキートは第四世代といわれる技術を使ったもので、映像と音声の情報をパッケージ化して、半径百メートル以内に置いた増幅装置を経由して公共ネットワークに送信し、ネットワーク内を巡回させる回収シグナルが捕捉することで依頼者の元へ届けられる。いわゆる逆探知が困難な、スパイ用の情報収集システムとしては最新のものだった。  生産地や使用者は不明だが、増幅装置を発見できれば大きなヒントが得られる可能性が高い。現在、全力で大学病院の内外を捜索中だという。しかし、結局、増幅装置は発見できず、大きなヒントを得ることもないまま時間は経過した。  そして、七月になって、マエヤマ統合軍司令官の退官が伝えられた。  渚にて 海星拾う手 永久の縁(なぎさにて ひとでひろうて とわのえん)  司令官はこの句を皇帝に送り、退官の許しを乞うたという。クリスト派の司令官にとって、「海の星」は聖母マリアを意味する。マリアの存在は墓場まで持って行く。その強い意志を示した司令官の句を、皇帝はひとこと、見事である、とたたえた。  しかし、そんな司令官の思いとは裏腹に事件は起きた。     *  七月十六日、その年三つ目の台風が去り、カンバはレンタルボートを借りて海に出た。長雨で泥水が流れ込んだせいで海はどんよりと濁り、釣果も芳しくなかった。明け方近くにやっと釣れた虎の子のグレをクーラーに入れ、マルチ燃料駆動の四輪バギーで坂を登り切る。 (あれ? チャチャがいない……)  チャチャは一見すれば本物の三毛猫で動作も猫そのものだが、警備システムのセンサーの役割を果たしている。 (どうしたんだろう……)  バギーに乗ったまま、カンバはコムフォンを確認した。異常を報せる通報はない。 (何者かが侵入したのかもしれない!)  体の芯が震えた。 (どうしよう……)  ふと、結婚式から逃げ出し、チャイバ・アイランドに渡ったときのことが頭をよぎった。あのとき、AACの兵士にレイプされた女をカンバは見捨てた。 (ニュースによれば、あの後、彼女は殺されたという――)  とてつもない後悔が蘇ってきた。 (ここで逃げたら、マリア……いや、ウツボはどうなる?)  人工子宮のガラスの中で、小さな命が恐怖に怯えているような気がした。 (オレが守らなきゃいけないんだ)  カンバはアリスにメッセージを送った。 〈誰かが自宅に侵入したかもしれない。これから見てくる〉 〈すぐに帰るから待っていて!〉  アリスのメッセージが返ってきた。 〈いや、見てくる〉 〈ちょっと待って!〉  カンバはコムフォンの電源をオフにした。  万が一のために、門柱には隠しボックスがあり、中にレーザー小銃を隠してある。 (オレにレーザー小銃が使えるのだろうか……)  トーキョー海賊もレーザー小銃を使うが、カンバは撃ったことがない。カンバが門柱にコムフォンをかざすと、一枚のタイルがせり上がった。 (使えるかどうか、じゃない……使うんだ!)  カンバは中にあるレーザー小銃を手にした。  門前に立つカンバの姿が検知され、門扉が開いた。敷地内に進んでからバギーを降り、門扉の「開放」ボタンを押す。万一、敵と遭遇したときに備え、逃げ道を残しておくのが、幼い頃からカンバが教わったトーキョー海賊の流儀だ。  非常時用の武器はもう一か所、裏口のドアの外に隠してある。カンバはその裏口に回り、電源コントロールボックスからホルダーに収めたアーミーナイフを取り出した。そのホルダーを右腰に装着し、ドアノブに手をかざす。  カンバの帰宅を感知してロックが外れた。  五感を研ぎ澄ませて室内に入る。  真っ先に確認すべきはウツボの人工子宮を置いた地下室だが、どこに敵が隠れているかわからない。カンバはキッチンに回り、そこにあるセキュリティ・コントロール・ボックスを確認した。  案の定、ボックス内の回線は切断され、警報システムは作動しないようになっている。そして、足元には破壊されたチャチャが放置されていた。 そのとき、リビングで何かが倒れる音がした。腰をかがめ、音の方向へレーザー小銃を構える。 (え?)  物音とは逆の正面玄関が開かれ、黒い人影が逃げていった。  それ以上、人の気配はない。  カンバは地下室へ続く階段を駆け降りた。 (焦げ臭い!)  地下室の扉は開け放たれたままだ。 (この匂いは何だ?)  室内に一歩踏み込むと、真っ黒なボディ・スーツを着た男が転がっていた。その全身は無惨に焼け焦げている。防御用の強烈な電流を浴びたのだろう。セキュリティ・システムを解除しないで生命維持ユニットに触れたらしい。  生命維持ユニットに載せた人工子宮を覆う可変遮光シートがずれ落ちていた。露出した人工子宮の中では、ラグビーボールほどに成長したウツボが安心しきった顔で浮かんでいる。 「おい」  カンバは唐突に呼びかけられた。見回しても他に人の姿はない。 「ここだよ。人工子宮を載せた生命維持ユニットだ。オレは、このユニットを 作ったユーバリ・ドームのバリッチだ。アリスの仲間だよ。おまえたちが月を脱出するときの小道具は全部オレが設計した」 「え? このユニットは、月と交信できるのか?」 「そうじゃない。オレは、言うなればバリッチの分身みたいなものさ。本体とは切り離されて、このユニットに移植されたAI、とでも言っておこうか」 「ここで死んでいる男、あんたが攻撃したのか?」 「初めからそういう設計になっている」 「何者なんだ?」 「身元がわかるようなモノを持っているとは思えない」 「ウツボを狙ったんだよね?」 「他には考えられない」 「一人、逃げて行った。仲間を呼んでくるかな――」 「そのリスクは十分にある。少なくとも、ここに『ラシーヌ』がいることは確認されてしまったからな」 「アリスには連絡したから、もうすぐ戻ってくると思う」 生命維持ユニットのバリッチが黙った。 「残念なお報せがある」 「なに?」 「イワクニ基地統合作戦部前駐機場で、アリスのドローンが何者かに爆破された」 「なんだって!」 「アリスは無事だ。無線で話をさせてやりたいところだが、誰が傍受しているかわからない。いいか、オレの言うことをよく聞くんだ」  カンバは背筋を伸ばした。 「この家のどこに盗聴システムが仕込まれたかわからない。モスキートが群れを成して飛んでいる可能性だってある。だから、余計なことは言わず、ポイントだけ伝えるぞ」  カンバはうなずいた。 「何者かがウツボを狙っている」  再びうなずく。 「だから、おまえはウツボを連れて逃げるんだ。アリスを待っている余裕はない。今すぐ――」 「しかし……」 「わかっている。人工子宮と生命維持ユニットを持って逃げるのは至難の業だ。なので、今ここでウツボを誕生させる」 「まさか……」 「大丈夫だ。この数ヶ月、俺はずっと、そのことを考えてきたんだ。まず、荷物を入れるバッグを用意しろ。なるべく大きく、かつ持ち運びやすいものがいい」  カンバは寝室に走り、バッグパックを持ってきた。 「それでいいだろう。その中に、生命維持ユニットの交換用フィルターを詰めろ」  カンバはテーブルの引出しからフィルターを出した。 「これから先、このフィルターは羊水の鮮度を維持するためのものではなくなる。この子が飲むフェイク母乳を作るために必要なものだ。材料はミルクか水。このフィルターに通すことで、必要な栄養と免疫力を摂取できる。冷蔵庫にミルクはあるか?」 「フェイク・ミルクなら」 「そいつを持てるだけ持て。哺乳瓶はあるか?」 「あるわけないだろ」 「どこかで調達しろ」 「次はバスタオル。最低五枚。この子を包んでいくから、なるべく柔らかいものがいい。用意できたら、そのうちの一枚を三十八度に温めろ」 「細かいな」 「さっさとしろ」  クーラーボックスの釣ったグレを捨て、温めたタオルと入れ替える。指示された物を全て揃えると、バリッチはこういった。 「さあ、この子を誕生させるぞ」 「マジか……」 「だから心配は不要だ。オレの言うとおりにしろ」  カンバは深呼吸した。今は、バリッチに従うしかない。 「人工子宮を両手で持ち、ゆっくり右に回しながらユニットから外せ」  慎重に、言われたとおりにする。 「外したら、底面にあるダイヤルを右へ回すんだ」  人工子宮を満たす「羊水」漏れ出した。 「ガラスの球体をユニットに戻し、上部にある青いボタンを押して『ふた』を外せ。それから、丁寧にラシーヌを取り出し、おまえの膝に抱くんだ」 両手で取り上げ、膝に抱く。 「へそにつながった管を引き抜け。いいか、躊躇せず、まっすぐ一気に引き抜け」  言われたとおりに引き抜いた瞬間、ウツボの両眼がカッと開いた。 「両脚を持って逆さまにしろ。喉に詰まった羊水を吐き出させろ」 「大丈夫なのか?」 「早くやれ!」  両足を持ってぶら下げるが、何も起きない。 「ダメだよ、吐き出さない」 「上下に振るんだ!」  意を決して小さな体を上下に振ると、水のひとかたまりが床に吐き出され、同時にウツボは大声で泣いた。 「よし、これで、彼女は肺呼吸を始める。後は、温めたバスタオルに包んで逃げる」 「どこへ?」 「それはおまえが決めろ。いいか、二度とここへは戻ってくるなよ」 「そんな……」 「誰も信じるな。アリスにも連絡するな。ただ自分だけを信じて逃げるんだ」 (そんなことを言われたって、いったいどこへ行けば……)  生命維持ユニットの背面から白い煙が立ち始めた。 「オレはここで自爆する。全ての記録を消し去るためだ」 「そんな……」 「さあ、行け! 何があっても、その子を守ってやれ」  唇を噛んでカンバはうなずいた。  バスタオルに巻いたウツボと、必要な荷物を入れたバックパックを背負い、左肩にはクーラーボックス、右肩にはレーザー小銃をかけ、建物の外へ出る。 さしあたって、バギーに乗ることしか思い浮かばない。 (どこへ行けばいいんだ……)  エンジンをかける。右手でハンドルを握り、左手にウツボを抱いたまま門を出て、一気に坂を下った。温めたバスタオルがあっという間に冷たくなっていく。バギーを止め、クーラーボックスの温かなタオルと交換する。  このまま坂を下れば港がある――。 (そうだ、あのレンタル・ボートに乗ろう!)  まずは海に出る。そこから先のことは、海に出てから考えようとカンバは思った。  カンバは海岸沿いを南下し、漁港に到着した。この時間から釣りに出かける人はいないせいか、見張りの目はなかった。 (どうせ借りるなら、大型の方がいいよな……)  釣りで借りたレンタルボートではない、高速クルーザータイプの船に狙いを定める。デッキに乗り込み、とも綱を外す。ウツボを抱いたまま操舵室に入る。汲み上げた海水から水素を分離し、それを燃料に発電するモーターで走るタイプだ。ウツボを後部のシートに寝かせ、エンジンを始動する。 「出発するよ」  まっすぐ前を見たままウツボに話しかけ、スロットルを押してスクリューの回転を上げる。ボートはゆっくりと動き出し、カンバは慎重に舵を操り岸壁から離れた  瀬戸内海を吹く潮風にカンバの髪が踊った。 「何があっても、この子を守ってやれ」  バリッチの言葉が蘇る。 (どうすれば、この子を守れるんだろう……)  カンバの瞼に、懐かしい墓標の海が浮かんだ。  (やっぱり、あそこしかない気がする……) 「バブ、バブぅ」  振り向くと、シートに寝かされたウツボがこちらを見て笑っていた。 (了) *「2.墓標の海編(準備中)」へつづく)
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