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2.ヘタレのカンバ
温暖化の影響で木々はよく育ち、かつて房総半島だったチャイバ・アイランドの沿岸は鬱蒼としたマングローブの林となった。
暗闇の中、黒いカヌーが静かに進み、陸地に到達する。黒い影がひとつ飛び降りた。黄色いTシャツに青い短パン、そして、ビーチサンダルを履いているのは、結婚式から逃げ出したヘタレのカンバだ。ライターの炎を近づけると、カヌーは一瞬だけ赤い炎をあげ、白い煙となって消滅した。
左手首のブレスレット型コムフォンを操作する。IDチップを内蔵した汎用端末だ。
「チャイバ・ポート」
音声入力し、地面と平行に腕を出すと、赤い矢印が進むべき方向を示した。
チャイバ・ポートは、チャイバ・アイランドの中心都市、チャイバ・タウンの海空両用港だ。
元々は、太平洋上にあるメタンハイドレート採掘サイトから運ばれるメタンハイドレートの陸揚げ港として発展し、その精製工場が月面で採取されたヘリウム3をペレット状に加工するサービスを始めたことからカグヤ・シティとのシャトル便が運航されるようになった。
現在、カグヤ・シティとの直行便はなく、静止衛星軌道上の第三補給衛星との間でシャトル便が運航される。第三補給衛星は惑星間輸送の大型船が発着し、各国とシャトルで結ばれるハブ衛星だ。カンバは、チャイバ・ポートから第三補給衛星を経由し、カグヤ・シティへ逃げる計画を立てている。
AACはチャイバ・ポート近隣の工場で生産されるヘリウム3ペレットを独占し、これを保護する名目で港に隣接してチャイバ・ベースを作り、軍隊を常駐させている。
(どうか、危ないヤツと逢いませんように――)
そう祈ってから、カンバは巨木の森に作られた一本道を歩き始めた。
カンバは丸腰だ。銃はしょせん命中しないし、ナイフはリンゴの皮だって剥けやしない。武器は持っていても邪魔になるだけで、チャイバの警察や軍に捕まったときに自分は海賊ではないと言い訳するのにも丸腰の方が都合いい。
コムフォンのIDチップには、チャイバ・タウンの住人であるとのニセ情報がインプットされている。しかし、これだけではカグヤ・シティ行きのチケットは買えない。身元保証人もしくは雇い人の承認シグナルが必要だ。
そのために、カンバはチャイバ・ポート近くで「ピエールの湾岸食堂」を経営するピエール・M・タナーカを訪問するつもりだった。オーナーのMは三代目の「ピエール」で、カンバとは同い年の友達だ。祖父の代からトーキョー海賊の支援者であり、虎視眈々とチャイバ・タウンがAACから独立するチャンスを待つパルチザンでもある。カンバは、このMから湾岸食堂の従業員としての承認スタンプをもらい、カグヤ・シティへ逃げるつもりだった。
ようやく巨木の森が途切れ、民家の明かりが見えてきた。そよ吹く風にまじり、声が聞こえる。
(なんだろう……女の人みたいだけど……)
民家が近づくにつれ、声は大きくなる。
「あっ、ああっ……やめてっ!」
家の前に、軍用のエア・スクーターが二台停まっている。カンバは明かりのついた窓へちかづき、息を殺して中を覗いた。
(これは!)
ベッドの上で、四つん這いになったアジア系の若い女を二人の白人男性が前後から犯している。一人は背後から貫き、もう一人は口にねじ込んでいる。 ベッドの手前の床に、頭から血を流した男女が倒れていた。
(レイプされてる……)
男たちは女に突き立てながら酒瓶をあおった。トーキョー海賊の掟が頭をよぎる。
〈決して権力に媚びることなく、弱きを助け、強きをくじき、自由にこそ命を捧げる――〉
女を襲っているのは、おそらくAAC駐留部隊の兵士だろう。
(こんなとき、爺ちゃんなら絶対に迷わない。レンだって、迷わない。あっと言う間にあいつらをやっつけて、あの子を助けるに決まっている)
犯される女の喘ぎに、犯す男たちの嗤いが重なる。ベッドの上で、レーザー小銃が黒い光を放っていた。
(だけど、オレにはムリだ……)
男たちの動きがいっそう激しくなった。
(……ごめんなさい)
カンバは窓から後ずさった。
「あああああっ!」
女の悲鳴が響く。
カンバは耳を塞ぎ、逃げた。
(オレって、ろくでなしだ……)
己を呪いながら、それでも逃げることしかできなかった。
*
日中の容赦ない紫外線を避け、チャイバ・タウンが最も賑わうのは日没から夜明けまでの時間だ。賑やかな繁華街を抜け、カンバはチャイバ・ポートの外側に建つ「ピエールの湾岸食堂」に到着した。
「よっ!」
賑わう店内で客の対応に忙しいMを見つけ、カンバは軽く右手を挙げた。レイプを目撃して何もできなかった自己嫌悪のせいで、まだ顔が引きつっていた。
「……カンバ!」
Mはカンバの腕をつかみ、店の奥にある小部屋へ連れて行く。
「いいか、ここを動くな。店が落ち着くまで、ちょっと待ってろ。ああ……何か食うか?」
「シュリンプ・サンドイッチ――」
小エビをマヨネーズで和えたシュリンプ・サンドイッチを食べ終わり、一時間ほども待たされてから、ようやくMが戻ってきた。
「フジツボのマサから連絡があったぞ。おまえ、結婚式から逃げたんだってな?」
「……うん」
「なんでそんなことした? レンが可愛そうじゃないか!」
Mもレンの熱烈なファンだ。
「色々あって……」
「そういう色々は結構式の前に解決しとけってんだよ」
「……そうしようと思ったんだ。でも……」
「はん?」
「できなかった」
「何を?」
「アレを……」
「アレ?」
「エッチだよ……」
「ん?」
「レンが初夜の練習をしようって言うから……なのに、オレ、立たなかった……」
「ちょっと待て」
Mは腕を組んで状況を思い浮かべた。
「もしかして、レンの裸を見ても、立たなかったのか?」
「……うん」
「信じられない。オレなんて、レンの姿を想像しただけでビンビンだぞ」
「それが正常なんだと思う」
「つまり、おまえ、アレか?」
「アレ?」
「インポか?」
「……かもしれない」
Mはぷっと吹き出した。
「こりゃあ、すっげえスキャンダルだな。トーキョー海賊の将軍になろうってヤツがインポか。北京城国だのAACだの、バレたら、すぐに攻められるぞ」
「だろ?」
「だろ、じゃねえよ。おまえ、よく今まで生きてこれたな」
「そこまで言うか……」
「わかった。おまえ、本当はあっちなんだろ?」
「あっち?」
「男の姿をした女――」
「……そうなのかもしれない」
カンバが膝に載せた手をMは慌てて払いのけた。
「そうか。そういう事情があって、結婚式から逃げたんだな?」
「うん」
「まあ、大喜びするヤツは大勢いるよな」
「おまえもそうなんだろ?」
「そりゃあ、レンがこれからも未婚だと思えば、生きていく張り合いがひとつ増えたようなものだ」
「やっぱり……」
「でもな――」
Mはレーザー短銃の銃口をカンバの頭に向けた。
「レンを悲しませるヤツをオレは許さない」
「おまえ、ちょっと矛盾してない?」
Mは考え、銃をひっこめる。
「そうだな。カンバを殺したら、レンはもっと悲しむもんな……」
「だろ。だから、オレは死ぬわけにもいかないんだよ」
「じゃあ、どうする?」
「カグヤ・シティへ行くつもり」
「そんなところまで行って、何をするんだ?」
正直、何をするかなんて考えていない。
「それは、向こうへ行ってから考えるよ」
「いい加減だなあ」
「だって、思いつかないのだから仕方ないだろ」
「修行して、強くなって帰ってくる、とか、そういう覚悟はないのか?」
「じゃあ、それでいいや」
「だから、ヘタレって言われるんだよ」
「そうなんだよね……」
「困ったやつだ」
「ああ、認めるよ。ともかく、月に行くために、ここの従業員ってことにしてほしい」
「偽造IDで逃亡するのか?」
「旅行承認スタンプを押してくれれば、まんざら偽造でもなくなる」
「見せてみろ」
Mはポータブル・コムフォンを持って来た。カンバの腕にあるブレスレット型コムフォンを通信する。
「ジリーノ・スッタローネ。けったいな名前だな」
「仕方ないよ。これが一番安かった」
真剣な目で、Mはカンバを見た。
「いいか、ひとつだけ約束しろ」
「何を?」
「カグヤ・シティには、どんな病気も治せるメディコ・エスベルトっていうヤツがいるらしい。そいつを訪ねて、インポを治してもらえ」
「メディコ・エスベルト……」
「インポが治ったら、トーキョー・ゾーンに帰って、レンと結婚しろ」
「……わかった」
Mはポータブル・コムフォンを操作した。カンバのコムフォンにIDチップのデータ更新が表示された。
「ありがとう」
「あと、こいつはオレからの餞別だ」
Mが送ってくれたのは、カグヤ・シティまでの二等客室チケットだった。
「さすがに、低温カプセルで行く月旅行はキツいだろ」
「ありがたい」
「色んなエンタテイメントがあるらしいから、ホントにインポかどうか、確認しておけよ」
「わかった」
「もうひとつ、さすがにTシャツに短パンで月へ行くヤツはいない」
Mはボディ・スーツとブーツをくれた。
二時間後に出発する第三補給衛星経由のカグヤ・シティ行きシャトルに空席があった。それに乗れば、四日後に到着できる。
チャイバ・ポートの宇宙港ターミナルまでMに送ってもらい、画面に現れたサービス・スタッフを相手にチェックインを済ませる。
傍らのスクリーンで放映されるチャイバテレビに、一家三人が殺害され娘は暴行されていた、とのニュース速報のテロップが流れた。
(ごめんなさい……)
カンバは逃げるようにゲートへ急いだ。 (つづく)
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