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ヒロが目の前に現れた。
俺がいることに気づくと、狼狽えたような顔を一瞬して大きく目を泳がせたヒロ。
それでも軽く会釈をして、唇を噛みながらテーブル席に座り、俺の絵を見ている。
なんでヒロがここに…… 驚くとか、嬉しいとか、さっぱり分からない感情。
「あれ? あの人…… 」
友人がヒロを見ながら、小声で俺に話す。
その声に、ようやく現実に戻されたようにハッとした。
「やっぱりそうだ、間違いない、あの泣きぼくろ…… あんな綺麗な顔の男性、しっかりと覚えてるよ」
なんて言う。
「なに? 」
「前回の麻純の個展に来たんだよ」
「…… ヒロが? 」
「ああ、『こちらの個展はここですか? 』って、ぐしゃぐしゃになった個展のチラシを持って来たんだよ、そうそう…… 」
記憶をたどるように頷きながら言う友人の話しに、グッと涙が込み上げて喉の奥がツンと痛んだ。
なんでだよ。
個展に来てくれていたなんて知る筈もないし、どうして俺の前から姿を消したのか、全く分からなくて堪えていた涙があふれそうで困った。
「…… ホットコーヒー…… お願いします」
懐かしい愛しいヒロの声に、もう耐えられなくて俯いた。
事情がありそうだと察した友人が、
「コーヒー、どうする? 麻純が持って行く? 」
小さな声で訊かれる。
頷いて、コーヒーを盆に乗せヒロの前に立った。
「…… 久し振りだな」
嫌味じゃない、どう言っていいか分からなくてそんな挨拶になる。
「………… 」
バツが悪そうに小さく頷くヒロ。
「座っていいか? 」
コーヒーを静かにテーブルに置き、ヒロが座る前の椅子を指差しそう訊くと、再び頷いて、恐る恐る俺を覗き込む顔が愛くるしいから、思わず微笑んでしまう俺。
その笑みに少し安心したのか、ヒロは小さく硬い笑みを俺に返した。
「…… ムギ…… すまなかった…… 」
途切れ途切れの小さな声で謝る、どうして謝るんだと思い、胸がチクリとする。
「急に姿を見せなくなったから、残念だった」
もっと、もっと言いたいことはあったけれど、言葉に出たのはそんなこと。
「………… 」
なにも言わないのか、言えないのか、ヒロは俯いたまま黙っている。
「誰か他にいい男、出来たのか?」
ヒロから先に言われるのが嫌で、自分から話しを振った。
ゆっくり小さく、首を横に振る。
「仕事の関係? 」
またも力無く首を横に振る。
俺から去っていったのはヒロだけれど、別に恋人同士だったわけでもない。問い詰めるのもおかしいだろう、俯いているヒロをただ、優しく見つめた。
「俺の個展を見に来てくれたのか? 」
どうやって知ったのかは分からないけど、偶然コーヒーを飲みに来たとは思えなかった。
「…… また、君の個展が開かれるんじゃないかって思って…… このお店の前を毎日とおっていた」
「そうか、ありがとう」
素直に嬉しかった。
ヒロが目の前にいることも、どうしようもなく嬉しかった。
「…… もう、誰かを…… 好きになるのはやめようって…… 思っていたんだ…… 」
ぽつり、ぽつりとヒロが話し始めた。
「だから、身体の関係だけで…… いたかったんだ」
黙ったまま、ヒロの話しを聞いた。
ヒロは時折視線を上げるけれど、決して目を合わせることはなかった。
「もう…… 好きな人が去っていくのは、辛くて耐えられない…… 」
綺麗な顔の目に、こぼれんばかりの涙を溜めて、ヒロが一生懸命に話す。
「去っていく? 」
どういうことだと思って、訊き返した。
「ムギと初めてあの店で会った日、俺は恋人に振られていたんだ」
だから泣いていたのかと思い返す。
「恋人はバイセクシュアルで、結局、女性を選んだ。普通に家庭を持ちたいって、そう言われた。その人だけじゃない、今までの恋人は皆んな、女性を選んで俺の前から去っていった」
ヒロと最後になった日、「君はバイなのか? 」と訊ねられたのを思い出す。
なんて言葉を掛ければいいのか、気の利いたことがさっぱり浮かばなくて、俺は俯き加減で黙ったままになる。
「俺が好きになる人は、どうにも皆んなバイで…… それでも、人肌は恋しくて…… 気になっていたムギに、抱いて欲しいと思ったんだ」
やっぱ、俺とは身体だけだったのか、思わせぶりな態度なんかするから、勘違いしちまったじゃないか。
心の中でつぶやいて、胸がチクリと痛む。
「ムギがバイと知り、これ以上一緒にいたら、どこまでも好きになってしまって、好きになればなるほど、最後の苦しみが大きくなるだけだとあまりに辛くて…… 君から離れた」
え?
と思って、俺は顔を上げた。
「広瀬…… 亨という」
いきなり名前を教えられ、たじろぐ。
「あ、と…… 俺は…… 」
「麦倉、麻純さん」
ヒロに名前を呼ばれる。
個展のチラシを見て、俺の名前を知っていたはずなのは分かっていた。
でも、名前を呼ばれただけで、ひどく胸がきゅっとして熱くなった。
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