820人が本棚に入れています
本棚に追加
今はきっと……
「麦倉麻純さん」
ヒロに名を呼ばれ、胸の熱さと、きゅっとした痛みが心地よい。
「怒っているだろう? 急に姿を消して…… 」
また項垂れて、どう詫びればいいのか、みたいな顔をしている。
「怒ってなんかいない、さっきも言った通り、残念だっただけだ」
“残念だった” どころじゃない、腑抜けの廃人みたいになっていたんだ、それでも、やっぱりそう言うだろう。
「…… 忘れられなかった、ムギを…… でも、必死に忘れようとして頑張ったんだがな、俺…… 」
さらに項垂れて涙を堪えている。
「美術館でムギと偶然会ったとき、どうしていいのか本当に分からなくて、体は震えてくるし…… 去っていく君を追って行こうかと、少し走り出したんだ…… 」
あのどしゃ降りの雨音の中では、ヒロの足音なんか聞こえるはずもなかった。
「…… ん、なら、電話、くれればよかったのに…… 」
あの時、俺はヒロに電話をした、着信番号は残っていただろう。
「…… 怖かった…… 情けないだろう? ムギを忘れられなかったくせに、いざ目の前にしたら怖かった。きっと冷たくされると思って…… 意気地がなかった…… 」
それは俺も同じだ。
関係が壊れてしまうのがずっと怖くて、ヒロに想いを伝えられなかった。
「もう人を好きにならないって決めた俺の決心を、簡単に崩してしまったムギで…… また、俺は捨てられるんだろうって分かっていても、それでも…… それでも君にはまた逢いたくて、逢いたくてたまらなった」
「なぁ、俺はヒロが好きだ、今でも」
ヒロの左頬に右手を当てて、ようやく初めて気持ちを伝えた。
そうだ、忘れてなんかいないし、過去のことでも良い思い出でもない、俺は今でもヒロが好きだ。
それに、俺が人に「好きだ」と伝えるのは、記憶にある限り初めてのことだと思った。
司紗を好きになる前、彼女が出来ても全部向こうからで、「好き」だと言ったことはない。
きっと、好きと言えるほどの想いはなかったからだ。
「………… ムギ…… 」
頬に当てられた俺の手を握って、大粒の涙をポロリとこぼした。
「ごめんなさい、ムギ」
「謝るなよ」
「でも、ごめんなさい…… 」
え? っと、待て…… 。
ごめんなさいって、ここまできて、もしかして断られてる? 俺。
冷静になって考えて眉間に皺が寄った。
「ごめんなさいって…… って、なんで謝ってるんだ? 」
ドキドキした。
『姿を消したことを謝りにきた、今は恋人がいる』
とか言われたら、せっかく立ち直った心が思い切りへし折られる。
今度こそ立ち直れない。
「ムギの心を弄んでしまったようになった。申し訳ない」
弄ばれてた、とか思ってないけどな、俺…… ちょっと目が泳いだ。
俺がヒロを好きだってことは、見抜かれてたんだろうな。
ま、そりゃそうだよな、あんだけ態度に出ちゃってたし…… でもなんか、ちょっと俺、かっこ悪くね?
いや、ヒロだって絶対に俺を好きだったよな、なんて思って眉がひしゃげた。
まぁ、そんなかっこつけてる場合でも、意地も見栄も張ってるときじゃない。
俺はヒロが好きでたまらないんだ、なんでも許す、じゃないとまた、ヒロが俺のそばから離れてしまう。
だから…… 、
「ヒロ、大好きだ、愛してる。これからもずっと俺たち、ずっと一緒にいよう。俺は絶対にヒロのそばに、ずっといるから」
絶対だ、絶対にヒロを離さないし、俺はヒロから離れない。
俺の言葉に頷きながら、再び大きな涙をぽろりとこぼすヒロ。
「…… ムギを思うと、ひどく切なかった」
そう言って、こぼれんばかりの涙が溜まった瞳で、わずかに赤らんだ頬の顔を上げ、あどけない、あの満面の笑みを俺に見せてくれる。
ああ、俺はもっとヒロを
好きになってしまうんだろうな。
そんな事が容易く想像できてしまって、
今はきっと、
俺の方がもっと切ない。
── fin ──
次頁「あとがきとお知らせ」があります。
どうかお付き合いくださいませ!
最初のコメントを投稿しよう!