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どうしても訊けない
「今日は朝まで、一緒にいないか…… 」
終わったあと、勇気を出してヒロに言う。
ひどく驚いた顔をされて、やはり駄目かと落ち込んだその時、
「…… いい…… のか? 」
嬉しそうに、それでもはにかんだ顔をして、俺に訊く。
「当たり前だろう!」
嬉しくて、思わず大きな声で答えてしまった。
俺としたことが…… ポッとほんのり頬が赤らむ。
ぐしゃぐしゃになったシーツを二人して引っ張り、手で伸ばして綺麗にして、またベッドに潜り込んで抱き合った。
そしてそのまま朝まで、抱き合ったまま俺たちは眠りについた。
こんなに幸せに思うことって、こんなに嬉しい気持ちに弾むことって、世の中にあるんだなって、初めて知る。
目が覚めると腕の中にヒロがいて、ものすごく、なんとも言えない安堵感。
まつ毛が長い、スースーと寝息を立てているヒロを守ってやりたくなる。
ガタイは俺と変わらないのになって思って、クスクスと笑ってしまうとモゾモゾとヒロが動き出した。
いけない、起こしちまった。
「ん…… ムギ…… 手、痺れてないか? 」
ずっと俺の胸の中で寝ていたから、腕が枕がわりになっていたのを気遣ってくれる。
「大丈夫だ…… ま、ちょっと痺れてるけど」
冗談まじりで言ったのに、
「えっ!? ごめんっ!」
慌てて上体を起こすヒロが愛おしい。
「ヒロがここにいたって、肌で感じる」
こんなセリフを俺が言うなんて、俺自身が信じられない、言ったあと恥ずかしくなって顔が真っ赤になる。
「嬉しい…… 」
俺の胸に顔を埋め、そのまま乳首を舐め始めるからくすぐったくて体をよじった。
幸せだ、本当に幸せで、ずっと自分を抑えてきた恋をしてきたから、こんなにも素直に気持ちを言える今が夢のようだった。
そうしてそのうち俺たちは、火曜日はバーで飲むだけ、金曜日には飲んでからホテルで宿泊と、どちらから決めたということもなく、暗黙のうちにするようになった。
それでも互いのことは知らないまま。
知っているのはヒロは広瀬、俺は麦倉ということだけ、何をしている奴なのか、俺が何をしている人間なのか、知ることもなく、伝えることもなく二人の時間を過ごす。
── 何をしてるんだ?
訊きたかったけれど、ヒロはそんな質問を一切受け付けない空気を放っていた。
── お互いのことを明かすのは名前だけにしよう
最初に言われたヒロの言葉を思い出す。
どこに住んでいて、何をしているのか、好きになれば知りたくなるだろう、ヒロは俺を知りたくはないのかと、深く深く、長い溜め息。
俺は…… こんな一方通行の恋ばかりをしている。
おそらく恋愛運がないんだろうな…… そう思わないとやってられない、どこか諦めみたいなものを感じて、切なさに耐えるのだって、すっかり慣れてしまっていた。
ある時、フロントで手続きをするヒロの後ろにそっと立った。
『広瀬亨』
チェックインの際に書き込んだ宿泊者名を盗み見をした。
ひろせ…… “とおる”? それとも、“きょう”? どう読むんだ? 電話番号…… 『080……… 』
覚えてすぐに自分のスマホのメモに残した。
広瀬亨が本名で、電話番号が本当なのかは分からなかったけれど。
くるりと振り向いたヒロに、なんでもないふうに微笑むと、あわせて嬉しそうに微笑み返してくれるヒロ。
訊いていいかな…… 。
ヒロは、何の仕事をしているんだって、
どこに住んでるんだって、
広瀬…… なんていうんだ、名前…… って。
俺はイラストや絵を描いてる、
東京に住んでる、
麦倉…… 麻純
って、いうんだ。
だけど、そんなことを訊いたら、そんなことを伝えたら、俺たちのこの関係が、この空間が、ヒロが…… ふっと消えてしまうんじゃないかって怖くて、どうしても訊けなかった。
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