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嘘じゃなかった笑顔
「…… ムギ…… 俺は…… タクシーで帰る」
俺たちの関係が大きく一歩進むんじゃないかって思えた空気を、一瞬でかき消すようにヒロがそう言って、俺の手を一度握ると、笑顔のまま何歩か後ろにさがり、向きを変えて背中を見せた。
ヒロのその背中を見送り、ひどく気落ちした。
それでもそんな関係のまま、俺たちは続いた。
それはたぶん、長く過ごした司紗との関係で、それ以上求めないという俺の感情が普通になり、ヒロとの関係に違和感を持たなくなっていたのだと思う。
この俺が、ヒロの前ではよく喋った。
聞き上手って、ヒロみたいな人間をいうんだろうって思う。
真剣な話しをすれば真剣な顔で聞き、少し困った話しをすると眉間に皺を寄せて、なんなら俺より困ったふうな顔で、それでもアドバイスをくれる。
さほど面白い話しなんてできない俺なのに、よく笑ってくれた。時には涙まで流して笑ってくれるから、俺は得意になって、ヒロの前ではすっかり饒舌になった。
…… この俺が。
俺は当然ながら、ヒロに会うのが一番の楽しみになっていた。
ヒロを待つワクワクした胸を抑えるのが大変で、そんな俺を見てバーテンダーの涼さんが冷やかすように、それでも嬉しそうに笑っていた。
そしてある日。
身体を重ねた翌日の午前、この日はヒロがおすすめだという店に行った。
「美味しいぞ」
と小悪魔みたいな顔で言う。
そんなヒロに「好きだ」と言ってしまいそうになる。
おすすめだけあって、目の前に運ばれてきたのは、とても美味しそうなエッグベネディクト。
「絶品だぞ」
添えられた野菜も美味しそうで、どれから食べようか手にしたフォークを泳がせてしまい、迷い箸ならぬ迷いフォークをしてしまって(あっ)と思う。
ヒロが少し上目遣いで微笑んだ。
「悪い…… 行儀悪かった、昔、これをひどく怒る女がいた」
何の気なしに昔のことが口に出た。
ほんの一瞬、ヒロの眉が曲がった気がした。
「君は、バイ、なのか? 」
バイセクシュアルなのかと訊いてきたヒロの顔は微笑んでいたから、深く考えずに
「ああ」
と答えた俺。
バイじゃない。
かつて司紗が好きだっただけでノンケだと自分では思っていた。でもヒロが好きだ、今となってはバイだと認めていいかも知れない。
そのあともいつも通りに、他愛のない話しで盛り上がり美味しく食事をした。
本当に美味しいエッグベネディクト、綺麗なヒロに、似合いすぎる朝食だと思った。
あっ、
と、俺は思い出して、ジーパンのポケットから、すっかりぐしゃぐしゃになってしまった紙を取り出した。
「ぐしゃぐしゃで読めねぇな」
笑いながら紙を手で伸ばしてヒロに見せた。
「個展? 」
思い切って、個展のチラシをヒロに見せる。
俺の素性は少しずつ知らせていこうと思った。
シワだらけでぐしゃぐしゃのチラシは、読めなくなっている部分もあったけど、興味深そうにヒロが手に取って見てくれる。
「知り合いのカフェで個展をやるんだ」
「ムギは絵を描くのか!? 」
驚いた顔で俺の顔を見るから、途端に気恥ずかしくなって頭を掻きながらも笑って頷いた。
「…… えっと、来てくれたら…… 嬉しい」
俺が人に、自分の個展に来て欲しいと話すのは初めてで、どう言ったらいいのか困惑したけど、ヒロには俺を知って欲しかった。
俺がヒロを知る術はなかったけれど。
「こんなに魅力的なムギなのに、絵も描くなんて、ずるいな…… さらに興味を持ってしまう」
目をキラキラと輝かせて俺を見るから、俺はヒロの手を握って、想いを伝えようとしてしまう。
── ヒロ、好きだ
と。
いや、言ってしまっていいだろう、そう思ったとき、
「このお知らせは、いただいてもいいだろうか? 」
「お知らせなんて、面白い言い方するな、ヨレヨレだから今度新しいの持ってくるな」
お知らせ、なんて言い方、可愛すぎる。
「好きだ」と伝えるタイミングを失った。
「いや、これがいい。君の温もりがある」
そう言って、今度はヒロが紙を手で伸ばし始め、丁寧に角を合わせて大事そうに折りたたんでいる。
「来てくれるか? 」
「ああ!必ず行く!」
ヒロは思い切り顔を綻ばせて、にっこりと笑った。
その笑顔は、嘘じゃないと思った。
でも、それきり、個展はおろか火曜日にも金曜日にもヒロは姿を見せなくなった。
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