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間違いない、ヒロだ
ここのところは、ずっと俺一人なのが分かって、涼さんが掛ける言葉を選んでいる様子に申し訳なく思う。
火曜日と金曜日、店の扉が開くたびに目を遣ってしまっては小さく肩を落とした。
ヒロはもう、店に来ることはなかった。
最後は個展のチラシを渡したときだ。
何か気に障ることをしただろうかと、あれこれと思い返す。
やっぱり、名前…… 個展のチラシには『麦倉麻純展』とある。
ウェブで調べれば俺の素性は分かる、それがいけなかったか。
── お互いのことを明かすのは名前だけにしよう
約束を破ったみたいになってしまったか。
それとも事故に遭ったとか、そんなんじゃないよな…… 考えると果てしなくて、無意識に頭を振った。
いつだったか、盗み見した電話番号に掛けてみようか、そんなことも思ったけれど邪道な気がした。
飽きられたかな…… そう思って諦めるしかなかった。
「…… 麦さん、まもなく…… ラストオーダーです…… 」
言い辛そうな涼さんの声に、はっとする。
「あ、うん、もう、いいや、ありがとう…… 」
「…… 閉店後、よかったら酒、付き合いますよ」
涼さんにそんなことを言われて、正直嬉しかった。
傷心しているのが丸わかりだったんだろう、でも、軽く微笑んで首を横に振った。
「気ぃ遣ってもらって悪いな、大丈夫だよ」
「気なんか遣ってない」
涼さんの、いつになく強い口調に少し力をもらった。
「まじで、ありがとう、ご馳走さん」
カウンターに代金を置き、心配そうな涼さんの顔を見て、ふふっと笑って見せる。
強がった。
ヒロに会いたい、そう思うと涙が滲んでしまいそうで、無理して笑った。
ヒロと身体を重ねたのは三ヶ月足らず、店に来なくなってからはもう既に、三ヶ月が過ぎようとしていた。
それでも俺の胸の中はヒロのことでいっぱいだった。
あの、作っていない笑顔、俺の話を食い入るように、一語一句聞き逃さないようにと傾けていた耳、そして、驚いたり困ったり、笑ったりと、俺の望むままの反応をしてくれたヒロ。
おまえ以外に、俺を分かってくれる奴、俺を満たしてくれる奴はいないって、そう思った。
だから……
忘れることなんてどうにもできずに、ヒロの顔を、声を仕草を、思い返しては涙を流す毎日。
観たかった絵画展がまもなく終わってしまうことに気づき、慌てて出かける俺。
三年ぶりに来日した好きな画家の絵、どうしても観たかった。どうして忘れていたんだ、気づいてよかったと胸を撫で下ろす。
美術館に着くと、館外の敷地で高校生の集団が目に入り、チッと舌打ちをした。
社会科見学か、ツイてねぇな…… そんなことを思いながら館内へ入ろうとした時、聞き覚えのある声を耳にする。
「いいか!館内では絶対に大きな声で喋らないこと!無駄話しも一切禁止だぞ!」
ん? と思い、立ち止まる。
「先生の声が一番大きいよっ!」
生徒の野次に笑いが起きている。
「そうか!すまない!では、二時間後にまたここに集合するように!遅れるなよ!」
笑いながら生徒の言葉に返した、その声が合図だったかのように生徒たちがバラバラと館内へ入って行くと、そこに残った教師らしい男が目に入って、俺は驚愕した。
ヒロ、だった。
まだ数名残っていた生徒に囲まれて、「あっはっは」と談笑しながら歩く姿は、俺の知っているヒロとは全く別人で、そこにいる男は人気者の教師、豪放磊落と言う言葉がぴったりな好青年だった。
あまりに違うので似てる人間か? とも思ったけれど、あんなに綺麗な顔をした人間はそういない。
遠くからでも分かる目の下の泣きぼくろが俺の目に入り、言葉を失う。
間違いない、あれはヒロだ。
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