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05.なにもかもを忘れてどこか遠くに
「ふうん、それで小説が書けなくなったってわけ?」
あれから半月ほどが過ぎた昼休み、佳史は会社脇の空き地で野田さんにそう聞き返された。佳史は力なくうなずく。
「パソコンに向かっても、なにを書けばいいのかわからなくて」
「それで、一行も書けないままなのね」
野田さんの言葉に、佳史はふたたび力なくうなずくばかり。
「でも、小説を書くこと自体が楽しいんでしょ? 前にそんなこと言ってなかったっけ、堀川くん」
昼休みの空は、なにもかもを忘れてどこか遠くに遊びに行きたくなってしまうくらいに青く澄み渡っている。そう、小説を書くことさえもすっかり忘れてしまって、どこか遠くに行けたなら、どんなに気分も楽になるだろう。
「うーん、小説を書くこと自体は別に楽しいことじゃないんです。苦しいことばかり。でも、その苦しさの先にちょっとだけ楽しいことがあるから書いてるって感じかな」
それは佳史の正直な気持ちだった。野田さんが不思議な顔をする。
「楽しいこと?」
「うん、ネットに上げたぼくの小説を読んでくれる人は少ないながらいるし、感想だって書いてくれる。それに……」
佳史は思わず言葉を濁す。
それに野田さんが僕の小説を読んでくれて、感想を言ってくれるのだって嬉しいんです。そう告げたかったけれど、言えなかった。
「それに?」
野田さんが言葉の続きを聞きたがった。佳史は言葉を探す。
野田さんは恋人ではないし、友人でもない。同じ会社の先輩でしかない。けれど、時おりネットに上げた佳史の小説を読み、感想を伝えてくれる。そっけない短い言葉だけど。
空き地の向こうの建物の合間から見える川の流れが銀色に輝く。そんな川面からのまばゆい反射光に思わず目を細めながら、佳史は取り繕うように言葉をひねり出す。
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