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小さな町の交差点
テンポの良い音が青信号を知らせる
母と手を繋ぎ歩き出すと、足の感覚が微かなおうとつを拾い白線を知らせてくれる。
信号を渡りきった歩道を右に少し進めば、こじんまりとしたスーパーマーケットがある。入り口の自動ドアが重々しく開き、店内は古い水を凍らせたようなにおいがする。真夏でも真冬でも寒すぎるほど冷えきっている。
「カオル、夕飯何にしようか。」
柔らかい母の声が頭上から聞こえてくすぐったく感じた。
「…ハンバー、」
自身の低い声にはっと目が覚める。夢の中での自分の声は、あまりに大人びていた。
「ハンバーグ。」
続きを声に出してみる。寝起きのせいでひどく掠れていて、かなりひどい。
「HeySiri、今何時」「現在九時二十五分です。」
壁つたいに部屋を出てそのまま父親の書斎に顔を出す。
「おはよう、ごめん寝すぎて、」
「んん、大丈夫か」カオルの言葉を遮って父が口を開く。「昨日まで熱が高かったんだから、今日も休ませようと思って学校には連絡しておいたよ。」
「うわ、そうだったんだ、ありがとう。」
「何か食べられるか?」
「うん、お腹すいてる。」
腹の虫が小さくないてふと、先程までの夢を思い出す。
「うどんつくるか、それか...」父が椅子から立ち上がり、冷蔵庫を開ける音がした。
「あ、うどんね、うどんがいい。肉あれば肉うどん。」「はいよ。」
父の声は少し嬉しそうだ。
カオルは二日前に高熱を出していた。かなり久しぶりの風邪で参っていたのだ、父が。
正直当の本人は頭痛と吐き気には苦しんだものの、寝ていれば治るだろうと呑気に構えていた。だが、元々体の弱い一人息子が突然熱を出したとなれば父は大慌てで、初日は十分おきに部屋の戸が開けられるのをカオルは分厚い布団の中で感じていた。
初日、二日目とほとんどお粥しか口にしなかった息子が、肉うどんを食べたいなどとわがままを吐いたことが余程嬉しかったのだろう。
カオルは台所近くの大きな椅子に座り、大きく深呼吸をする。甘辛いような良いにおいがしてきて、よく色付いた薄切りの肉を想像させる。父がつくる肉うどんは味がしっかりしていて、美味しい、身内だから贔屓にする訳でもなく店で出せる味だとカオルは思う。
「できた、まだ熱いからな。」
目の前からもやっと熱を感じる。
ゆっくりと手を出して暖かな椀を両手で包みこむ。「随分熱いね。」「ごめん、急いでつくったから。」父が謝りながら笑い、カオルも口元でにこりと笑う。
「箸、と…」少し間が空いてコトンと手の甲に触れる場所にコップが置かれる。「麦茶。」
「ありがとう、頂きます。」
先に麦茶をのんで、うどんをよく冷ましながら食べていく。父はすぐ隣の書斎に戻ったようでパソコンを弾く音が聞こえてくる。
「HeySiri、リラックスミュージックかけて」
ジャージのポケットに入れていたスマートフォンから滑らかなクラシックが聞こえてくる。
「なんだか寂しげな音楽だなぁ」
書斎で聞いていた父が一人ごとのようにつぶやいた。
途端にピリリリリリ…と高い音が素早い鼓動で鳴り響く。父の仕事用のスマートフォンだ。
「はい、こちら……」父が話し始めてカオルはポケットに手を入れると小さなボタンを指で探り音を消した。
大分冷めたうどんは変わらず美味しく、あっという間になくなってしまう。麦茶を飲み終えると椀とコップを掴み、流しにごとりと置いた。
「カオル。」
突然近くから声がして思わずびくりと肩があがる。
「ビビった、どうしたの、あ、ご馳走様でした。」
「カオル…」今度は震えるような父の声にカオルは困惑する。何か答えようか迷ってカオルは口をつぐみ身体を父に向けて待った。
「母さんが、亡くなったらしい。」
正直、母の記憶はあまりなかった。
カオルが四歳の頃に離婚して、それから一度も会ってはいない。なので夢で聞いた母の声もどこかぼんやりしていた。
父の話によると、父の母である祖母が母を気に入らなかったらしい。これに関しては、それ以上の事を父は何も語ってはくれない。
「お母さん…」カオルがつぶやいた後暫く沈黙が続いた。
「ああ、ああ、あれだ、とりあえず…今週末に通夜で葬式らしいから、葬式に…葬式にでてもいいと母さんの姉が言ってくれたんだけど、カオル、どうだろう。」
「えっ。」それは予想外の提案だった。
正直、嫌でも嬉しくもない。ただほとんど会ったこともない親戚が集まる場所に突然行くことになったのだ、しかも母の葬式で。
「あー、父さんが行くなら、行くけど、あ、行く。ていうかどっちでも大丈夫。」ついぎこちない返答をしてしまう。
「そうか…じゃ、行こう。喪服はもってるし、お前、この間ばぁちゃんの時も着てたよな、サイズも大丈夫だろう、昔住んでた街までいくから少し遠出になる…っていっても車で三時間くらいか、千葉だからな…大丈夫だ、」
「父さん。」
「ん?」
落ち着きのない父は今どんな顔をしているだろう、書斎と台所をウロウロする父に手を伸ばす。
「父さん、大丈夫。」つい肯定的に言ってしまう。
その日から三日間、父はあまり寝ていないようだった。
「靴、キツくないか?車に積んでおけばいいから適当なサンダル履いてけ。」
父にそう言われてカオルは少し痛い革靴を脱いだ。簡単なサンダルを履くと車の後部座席に乗り込む。すでに車内は暖かい、こういう時、父はいつも先にエンジンをかけていてくれる。
夏は涼しく、冬は暖かく。
「朝飯どっかでドライブスルーでもしていこう、それかコンビニで。」
「なんでもいいよ。」
暖かな後部座席で丸く座ると、少しして車が動いた。揺りかごのような心地良さに身を預けるとカオルはすぐさま寝むってしまった。
「赤になりそう」母の声がして信号の音が消える。指の細い母の手がカオルの小さな手を包み込み、暖かい。
二人で小走りで走り抜けると、母が小さく笑ったような気がした。
「カオル、」
父の声に目を覚ますと、暖かい車内にコーヒーの香りが充満していた。
「もうすぐ着くから、これ軽く食べておきな、暖かいカフェラテとパン。」
「ありがとう。」ふたつのものを受け取る前にぐっと伸びをして身体を解す。かさりと受け取ったパンはかなり柔らかいようだった。
ふかふかのパンは食べた気にならないような感覚を覚えながら、本当にすぐ着いてしまった式場に入ると数人の話し声が聞こえた。
「あ、拓海さんと…カオルくん。」
優しそうな声の女性が父に声をかける。
「いや…お久しぶりです…随分……」「いえそんな……こちらこそ、」「息子のカオルです……」
ぽつぽつと話し始めると、あっという間に数人大人が集まってきて賑やかになる。
式は悲しいものだった。
母はまだ五十手前なこともあり、早すぎる死に悲しむ声はとても悲痛なものだった。
火葬場ではその悲痛な声はさらに大きなものとなった。父が隣で泣いているのを感じ、カオルも泣いた。
母が死んでしまったのが悲しいのか、父が泣いているのが悲しいのか、それとも慣れない悲しみの場に心がのまれているだけなのか。
「今日は声をかけて頂いてありがとうございました……」父と親戚が最後に挨拶をかわしている間、カオルは先に車に戻っていた。
父より先に車にのるのは初めてで、まだ車内はかなりひんやりと冷えきっていた。
「ごめんな、お待たせ」
「大丈夫」
父がエンジンをかけるともわっと暖かい香りが車内に広がる。
「カオル、ちょっと寄り道していこう、母さんが住んでたアパート。」
「あれ、ここにとめていいのかな、まぁ怒られたら移動したらいいか……よし、ここみたいだよ。」
最後の挨拶をしていた時、母の姉から母が住んでいたアパートの鍵を父は預かっていたようだった。そのうち返してしまうらしいが当分の間母の姉名義で借りておくことにしたらしい。
「足元気をつけろよ。」父の後ろをついて階段をあがる。手すりは所々細く錆び付いていて、五十近い女性がここに一人きりで住んでいたのかと考えると胸の当たりがきゅうと傷んだ。
重いわりに素朴な取手をひいて部屋に入る。
「綺麗にしてたんだな…、母さんは綺麗好きだったよ、しっかりしてたし。」父は言いながら部屋の奥へとカオルの手を引いて進んでいく。
「母さん、癌だったんだな…言ってくれたら良かったのに…なんて言えないが…もともと住んでたこの街から全然離れてなかったんなら、俺が探しに来ればよかったんだもんな……。俺と離婚したあとお姉さん達ともかなり疎遠だったらしい…それに、」
「父さん、やっぱりばぁちゃんが母さんを気に入らなかったのって俺を産んだから?」
「え」
突然言葉を遮られて聞こえた台詞に父はカオルを見た。カオルは、いつも通り目を伏せたまま、静かにそこにいた。
「俺を…俺みたいな目の見えない子を産んだから、ばぁちゃんは母さんのこと、嫌ってたんだよね」
カオルは生まれつき目の見えない子供だった。
父、拓海の母は昔ながらのお堅い人間で、「目の見えない子を産むなんて女として出来損ないだ。カオルは可哀想だ、本当に可哀想だ。」と産後の疲れた妻に強く当たった。それでも妻は困ったように小さく笑って「ごめんなさい、ごめんなさい」と返すだけだった、小さなカオルを愛おしそうに抱きしめながら。
思い返すだけで苦しくなる。
妻はカオルを間違いなく溺愛していた。元々小金持ちだった拓海の実家に渡した方がカオルが幸せに育つと思ったのだろう。散々揉めた離婚話の最後に妻は拓海の母に頭を深く下げていた。
「そうだな……、そうかもしれない。」
「分かってたけど言いづらいよね。」
カオルは小さく頷きながらいった。正直、それで傷ついたりはしなかった。なんならスッキリしたような気持ちで、足元でゆっくりと小さく円を描いてその場に座った。
「母さん、どんな人?カーテンとか何色?」
「え?…ああ、黄色、カーペットは薄い茶色、食器がかなりあるぞ、料理好きだったからな…」
父もまるで肩の荷がおりたかのように母の思い出話をはじめる。
「へぇ、その写真の母さんどんな表情?」
「つまらなそうだな」
「なんでだよ」
他愛のない話の間に母を感じる。まるで、この狭いアパートに三人で寄り添っているかのように。
「なんか、お腹すいたな」
「ああ、カオル、お昼そんなに食べてなかったもんなぁ」
「父さんもでしょ」
「なんで分かるんだよ」
「なんとなく、音とか話し声で分かった。」
カオルの言葉にやれやれと父が呟いて立ち上がる。
「近くにスーパーがあるから、簡単なもの買って……買って、ここで食べるか。」
「泊まっていくの?」
「いや、なんとなく。」
「なんとなくね、オッケー。」
父のなんとなく、にカオルも賛成だった。父と手を繋いで外に出る。寒すぎる空気で肺がいっぱいになる感覚を抱きしめながら舗装された道路を歩いていく。
「信号だから、とまるぞ。」
父の言葉から少したって、鳩のなくようなテンポの良い音が青信号を知らせてくれる。
「もう見えた、ここ渡ったら右だよ。」
父に合わせて右に曲がる。
重い音で自動ドアが広くのを感じると、なんとも言えない……「あ。」
カオルは思わず立ち止まった。
「どうした。ほら、入り口だから、ここ。」
父に手を引かれ店内に入る。
古い水を凍らせたようなにおいに胸がいっぱいになる。
「にしてもこのスーパー、寒すぎるな。」
父の文句にすら目の奥があつくなる。
「カオル、夕飯何にしようか?」
夢の中でぼんやりしていた母の声がはっきりと脳内で再生される。
優しくて穏やかな、大好きな声。
「なんか適当に買おうかと思ったが、せっかくだしつくるか、何がいい?」
父の声にカオルは喉の奥がぐっとあつくなるのを堪えて、声を振り絞った。
「ハンバーグ。」
「ハンバーグ?久しぶりだなぁ、母さんはよくつくってたよ、小さいお前に…よし、つくってやろう。」
父がカートをおし始めたので指でカートに掴まりついていく。
「母さんはハンバーグに味噌を入れてたんだよ、味噌はどこかな、」
一人言を言い始めた父に隠れてカオルはボロボロと静かに泣いた。
そうだあの日、母さんは、俺にハンバーグをつくってくれたんだ。
今日はあのアパートで、父のつくったハンバーグを食べよう。三人で、久しぶりに。
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