天津エビ炒飯(1)

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天津エビ炒飯(1)

 正直に言うと、その翌日から、不意打ちのようにたびたび訪れる後遺症に悩まされていた。  昨日もなんだか凝りまくって作ってしまったチャーシューを、小さめの(さい)()に刻む。  隣で、数日前の姿からは想像のつかない手早さで卵を割って溶き、エビを刻んで混ぜ込んでいるイグニスの立てる音を、やけに鋭敏に聴覚が拾っている。  イグニスのいる左側だけ、上から下まで鳥肌が立っている気がする。  出来上がりを知らせる調理器の電子音に反応して、イグニスが移動すると、鳥肌がまるごとそれを追い掛けていくようだ。  知らず殺していた息をつき直し、ネギをみじんに刻んだ。  コンロに火をつけ、足りない集中力に、少し頭を振り。  砂糖、塩、酒、オイスターソースを水で溶いて混ぜ合わせる。あたためたフライパンに油で沸かすようにして、水溶き片栗粉でとろみをつけて。  そのままじっくり炊き込むように火を入れると、ふつふつと湧き上がって、とろみが深くなる。  出来上がったタレを打ち上げ、フライパンを退けて中華鍋。  調理器から取り出した白飯を鳥肌を立てながら受け取って。  卵を割り入れ、そのままお玉で軽く掻き混ぜたところに、白飯を突っ込み、ネギを突っ込み、チャーシューを突っ込み。  手早く混ぜ合わせては広げて鍋肌で焼き入れ、鍋を煽ってまた混ぜる。  少し薄めに味を調え、また広げて煽って炒飯を仕上げ。火だけ止めて、冷めないように取り敢えずそのままに。  隣のコンロに別の中華鍋を据える。  イグニスから受け取ったボウルを空けて、熱くした油に卵を投入して。  丸い形になるよう時々端を整え、熱い鍋肌にふんわりと膨らんでいく卵を睨んだ。 「イグニス、皿とレンゲ出してくれ、」  あっと、自分で思ったが、身体がついていかない。  中華鍋を煽ってエビ玉を裏に返そうとする真っ最中に、目を離し、イグニスを振り返って喋っている。  鉄を焼いた熱を抱えた卵はもう、宙に浮いて落ちてくる。 「はい、ッ、万理、」  短い一瞬を、スローモーションのように感じる。  あっダメだと直感したところで、割り込むように伸ばしたイグニスの手が、軽く跳ね返すようにして卵を鍋に戻した。 「悪ぃ、助かった」  把手(とって)を握っている手に卵を受けるところだったのに、避けられていたかも怪しい。  時間の流れが戻ったかのように感じるが、動揺が残って。 「お前、すげえな反射神経」  もう自分を信じるのはやめ、フライ返しの代わりにお玉で手伝って、卵を裏返し直し。 「いいえ。すみません、手で触ってしまいました。洗ってはいますが」 「ああ、うん、全然」  気が散る、というレベルではない。  少し息をついて、火を止めた。  リズムが崩れて気分は今イチだが、炒飯の上にエビ玉をふんわりと乗せ、あんかけの甘辛いタレを流しかければ、匂いは充分に極上だ。  調理器具を片付けてくれているイグニスに任せ、やれやれと天津飯の皿を持ってダイニングに回り込んだ。  いただきます、と手を合わせる頃には仕事を終え、イグニスが隣に座る。 「あー……、座ったとこで悪ぃ、水持ってきてくれるか」 「はい、もちろんです」  柔い声が応じる。  そう、もちろん、せっかく座ったのになんて、よぎることすらないだろう。  礼を言って、受け取ったコップの水を、思わず飲み干してしまう。  やたらに喉が渇くのだ。  触れたい。  炭水化物と油たっぷりの誘惑を隠し、卵の黄色がやさしい。卵に溶いたのとは別に、飾りのエビが黄色い丘の上でピンクに収まり、上品にすら見える。  甘辛いあんかけは卵に絡んで、口の中いっぱいに旨さが広がる。炒飯は邪道といえそうだが、甘辛いあんと、卵の柔らかさを塩味が引き締め、歯ごたえのあるチャーシューがパンチになる。  あの気取った服を脱がせて、サラリとした肌を全身揉みしだきたい。  飾りに乗っていたエビをモグつけば、ぷりぷりとした歯ごたえが楽しく、エビの旨みが濃い。  しゃぶってやりたい、と、思えば知らず舌舐めずりしていることに気づいて。  手の甲で少し、口を拭う。  今すぐこのダイニングテーブルに押し倒してキスしたい。  しようと思えばできると、身体の芯が疼いて訴える。そうしてみせるだけで、同じように応えて、乾いた舌を差し出すだろう。  大きく息を吸って、吐いて。 「悪ぃ、水、もう一杯」 「はい」  差し出すグラスは、やんわりと受け取られた。 「万理。体調が悪いですか?」 「いや……」  額を下げて髪を掻き、水、と意図せずぶっきらぼうに要求してしまう。  はいと穏やかな返答ごと引き上げて、足音が離れるのを聞く。  頭の中でベッドにイグニスを押さえつけて、少し力を抜こうと、それを抑制せず好きなように楽しんだ。 「お持ちしました」  声と一緒にコトリと静かにグラスが置かれて、目を上げる。 「ん。ありがとう」  喉から食道に通る水が、冷たくて気持ちいい。けれど、冷えるのはそこだけで、身体の熱は収まる気配もない。  一息ついて食事を再開し、とろみのある(あん)の甘さに和みながら、卑猥な妄想を存分に転がす。  ああして、こうして、と脳内で弄ぶ肢体は吐息を乱す。  現実にはそうならないし、そうしたいなら実装できると結論づけ、ついでに妄想に区切りをつけた。  ごちそうさまでした、と手を合わせ、今度は半分残していたグラスも空にし。 「なあ」 「はい」  少し身をずらして、身体ごと隣へ向け。行儀悪く肘をついてイグニスを眺める。 「ヒューマノイドとのセックスを単に自分の思うようにできるなら、それはオナニーと変わんねえかもな」  水色の点滅は短い。だが、目は、灰色の瞳ではなく彼の肌の上をなぞって。 「セックスがオナニーと別物であるのは、人間同士の間だけで構わないのではないでしょうか」  音が聞こえた気がして、全身の体温が一気に下がる。  ザクッとか、バリッとかいうような、裂いたような破いたような音が、耳に。  心があるとすれば脳のはずだが、痛むのが胸なのは奇妙なことだ。  けれど。  きっと、自分にその機能があったら、今、イグニスよりも長く点滅している。  人間同士だったなら、失礼なことを言って自分に返ってきたようなものだ。しかも人間同士ではなく、イグニスは、人工知能に求められる価値観に基づいた判断を意見として言っただけで。  目を閉じ、痛みに浸る。  後回しにしていたプロジェクトの修正を思い浮かべ。 「そう……そうだな。それで思ったけど、セックスがオナニーと別物でなければならないってのは、別物であって欲しいって願望に過ぎないな」  長く続く水色の点滅を、少し意地悪さのある愉快な気持ちで眺めた。 「すみません、判断の範疇を超えるように感じます」 「どんな風に?」 「万理の発言が、数秒前とさきほどで定義が変わる、あるいは変わる必要があるようです。その定義は人工知能には持ち得ない心や、感情に深く関わる認知であり、人間の中でも個人差のある価値観に依存するため、人工知能では判断の範疇を超えます」  人工知能は、言語化に長けている。  だらしない姿勢を起こして手を伸ばし。  いや、そうではない。言語化、というかデータ化できる情報しか扱えないだけだ。  顎を掴んで、形のいい唇を捏ねた。  一秒未満、小さな驚きを表現した表情が、笑みに変わる。  外部刺激を分類し、疑似感情プログラムに渡して、感情として返されたデータが表情を作ったのだ。 「イグニス」
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