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帰郷
彼女の実家は、千葉の片田舎だった。
結婚の挨拶にきた俺に、水産加工所を経営してるという親父さんは、疲れた様な顔で挨拶してくれた。
「……娘からね。だいたいの事情は聞いてるよ? 君は……それでいいのかな?」
「僕はお嬢さんを守る為に、警官になりました。彼女とそう約束したので。お嬢さんの様に理不尽な目に遭う人を一人でも減らしたい、と願って。亡くなった叔父の会社の事は問題ありません。あの人なら僕の意志を尊重してくれますから」
一息にそう言うと、義父になる予定の人をじっと見つめた。
美耶子は買い物に行ってしまって不在だった。
大方、親父さんに俺を説得しろとでも言ったんだろう。
全く往生際の悪い女だ。
「……そうか。君の意志を変えさせるのは不可能だな。私はね、そんなにもあの子を大事にしてくれてる事が心底有難いよ。でもあの子本人は……どうなんだろう」
「彼女が本当に僕を必要としていないなら、今お義父さんの前に居ないと思います。生意気を言って申し訳ないですが」
俺の言葉に彼は相好を崩した。
「敵わないな……。若いのになんて言うか肚が据わってるね、君は。私は君が息子になってくれたら嬉しいよ。手前味噌だけどあの子は美人だろう? 亡くなった女房に似てるんだけどね」
義父はそう言って、古い写真を見せてくれた。
幼い頃の稚い彼女と、今の美耶子によく似た母親が写っている。
「……美人てのはさ、いい事ばかりじゃないんだよ。少なくともあの子にとっては。人より少し綺麗なばっかりに……嫌な思いもしてきた」
……それはそうだろう。
認めたくはないが、彼女があんなにも綺麗な女だから、俺はこんなに惚れてる可能性は否定しない。
「あの子は子供の頃から学校の勉強が嫌いでね。頭は賢いのにさ。だから家庭教師を雇ってたんだ。近所に住んでた大学生。こんな田舎だからね。国立大の学生ってだけで凄い事なんだ。それなのに格安で引き受けてくれてた。有難いと思ってたんだ。……愚かにも」
嫌な予感に全身が粟立つ。
その野郎は……。
「……何かされたんですか?」
「そいつはあの子に、一生消えない傷を付けた。身体的にじゃないがね」
義父はまた、疲れた様に笑う。
彫りの深い目元はほんの少しだけ、娘に似ている。
「……どういう事でしょうか? 彼女から聞いた事がないので、聞かせていただきたいんですが」
「そいつはあの子が大人になるまで待ってたんだそうだ。子供の頃からずっとね。それだけでも気味の悪い話だよ、親からしたら。一回り以上も歳の離れた娘に執着してるなんてのはさ」
とてつもなく不愉快だった。
そいつの面を拝んでから帰ろうか、と考えた。
「あの子本人は東京の専門学校に行きたがってたんだ。服が好きだったし、こんな田舎に居ても悪目立ちするばっかりだからね。だけどそいつはうちの娘に付きまとって、東京には行かせないって言い出した。子供の頃から待ってたんだから自分の嫁になって、ここで一生暮らせってさ。あの子はそれを鼻で笑って相手にしなかったよ。何となくわかるだろ?」
義父が微かに笑うから、俺も笑い返した。
確かにアイツなら、そんな奴は相手にしないだろう。
「拒まれた腹いせなんだろうね……。死んでやるって言い出した。普通はそんな奴は死なないよな。だからうちの家族は皆、相手にしてなかった。だけどそいつは本当に実行しちゃったんだよ……」
「自殺したってことですか? 彼女にフラれた腹いせに?」
馬鹿な野郎だな……。という感想しかない。
「遺書にはある事ない事書いてあったよ。娘への恨みつらみがさ。強い感情は存外簡単にひっくり返る。愛してるから憎くなる。思い通りにならないから壊したくなる。少しも健全ではないけど、それはこの世の真理の一つだからね」
「……美耶子さんが気に病む必要性を感じませんが」
「うん。その通りだよ。でも寝覚めは悪いよね。そいつはあの子にそうやって呪いをかけたんだ。娘は多分、謂れのない罪悪感に苛まれてるんだよ、今も」
……アイツが結局は俺を拒めないのは……そういう理由なんだろうか?
「……君の親御さんとの経緯も聞いたよ。もう……修復は無理なのかな? 娘はそれも気に病んでる」
「僕にとってお嬢さんは、この世で一番大切な人なんです。僕が自分自身の意志で、一生を共にしたいと願う女性です。そういう人を侮辱された。それは誰であろうと許す事なんて出来ません。例え肉親でも」
『うちの可愛い一人息子を誑かして! アンタみたいな年増の売女と結婚なんてさせない! この子の将来が台無しよ!』
あの女はそう言いやがった。
俺に言わせりゃ挨拶なんて必要なかったのに、美耶子はわざわざ手土産を持って、俺と実家に来てくれたのだ。
彼女の派手な見た目のせいか、いきり立った俺の母親は、罵詈雑言を浴びせてきた。
最初は口でやめろ、と止めたのだ。
俺を基本的には嫌っている姉と妹ですら、母親の狂乱ぶりには眉をひそめていたし。
だが、あのババアは一言も何も言わず押し黙る美耶子を罵るのを、少しも止めなかったのだ。
だから俺は、これ以上大事な女に醜い言葉を聞かせない為、母親を殴りつけて黙らせた。
手加減して殺さずにいてやった事に、感謝して欲しいぐらいだ。
あんな女の腹から生まれた事に、心の底から嫌悪を覚えた。
その後も、母親が余りにも半狂乱になって騒ぐから、事勿れ主義のオヤジは俺と縁切りする方を選んだ。
男同士だからか知らないが、あの人は息子の性格を、あの女よりは理解してたのだろう。
一度決めたら、どうあっても引かないって性格を。
縁切りは好都合だった。
大好きだった叔父は、もうとっくにこの世に居ない。
実家に帰るつもりもない。
彼女の望む通りに警察官採用試験はパスしたから、俺は四月から警察学校に入る。
この俺から逃げようとするなら、何処までも追いかけてやる。
本気で嫌なら、殺してくれればいいのだ。
アイツがそう望むなら、俺は喜んで死んでやる。
そこまで考えて、俺はアイツにとってあの強姦野郎や自殺した野郎と変わらないのかもな、と思った。
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