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グググググ……。
赤いハイヒールのかかとが、濡れた砂浜に重く食い込む。
遠くの空と海の境界線がなくなった七月の海。
海の色と同じTシャツと、深い藍色のストレートジーンズの裾をまくり上げ、私は強い風に負けないように長いまっすぐな髪を書き上げる。
海鳥たちも負けずに、翼を広げて空を飛んでいる。
後で優しい声がする。
「まりあ、もう家に入ったほうがいいよ」
「うん、すぐ行く」
心配しなくても、こんな場所誰も来ないよお兄ちゃん。
私は海辺に建つ小さな家に入っていった。
十代最後の夏。
十三年前。
都内の小さなレストラン。
木のぬくもりのあるお店。
「いつものお願いします」
とお父さんが言った。
「今日は後でケーキもあるのよ、サンタさんからクリスマスプレゼントも預かってるからね」
優しいお母さんの声、どこにでもある幸せそうな家族だった。
私は、門倉まりあ。
冬が終わって、春になったら小学校一年生になるんだけど、予約してもらったランドセルはお兄ちゃんと同じ紺色。
髪も短くて、よく男の子に間違えられたわ。
だってお兄ちゃんが大好きなんだもん。
この店は私とお父さんとお母さん、そして小学6年生の星矢お兄ちゃんと月に一度は訪れる、クリーム、コロッケが自慢の店。
お店の名前は確か……エバーグリーン?
いつもと違うところは、店にクリスマスの音楽が流れ、ツリーの周りでライトが点滅し、優しい影の模様を作り出しているところ。
私はいつものジーンズじゃなく、ピンクのドレスを着せられちょっと嫌だったけど、髪のリボンを外してもいいって、お母さんが言ってくれたから我慢した。
お兄ちゃんを真似た短い髪にこんな大きなピンクのリボン嫌だもん。
今日はクリスマスイブ。
おいしいクリームコロッケを食べ終えて、いよいよお楽しみのクリスマスプレゼント。
お兄ちゃんはプレゼントの入った箱を開けて声をあげた。
「これ欲しかったんだ!ありがとう、お父さん、お母さん」
「サンタさんからだよ」
お父さんはそう言って笑った。
走るのが速くなると言う青いスニーカー。
私もドキドキしながらプレゼントの箱を開けてみた。
嘘でしょう、なんで?
ピカピカに光った赤いハイヒール。
「まりあ赤い靴いらない、お兄ちゃんと同じがいい」
一瞬、お父さんとお母さんは困った顔をしたように見えたけど、お母さんはいつもの笑顔に戻った。
「サンタさんにお願いして、駅前の靴屋さんで交換してもらおう……確かまだ8時まで開いてるはず」
そう言って、赤いハイヒールを箱に戻したの。
私はうなずいたわ。
今思い出すとなんてわがままだったんだろうって……お父さんとお母さんの優しい気持ちに応えることができなかったんだもん。
駅前の靴屋さんが閉まる前に少し早めにレストランを出て、私たちは、イルミネーションで飾られた駅前に向かう遊歩道を歩いた。
お兄ちゃんと、たくさんのライトに照らされた木を眺めながら、わぁーきれいって叫んで、さっきまでちょっとすねてたのが嘘みたいに楽しかった。
イルミネーションの下を走り回ったわ。
その時私が見つけたの。
「ママ見て!サンタさんがいるよ!」
三人のサンタクロースが、風船を道行く人たちに渡してた。
私たちの方へ一番背の高いサンタクロースが近づいてきたの。
肩に白い袋を担いで、もう一方の手に小さなプレゼントをつけた赤い風船を持っていたわ。
サンタクロースは私に風船をくれようとしたの、私は手を伸ばして風船を受け取ろうと思ったんだけど……受け取らなかった。風船が赤だったから……かわいい感じが苦手だった。それだけの理由。
向こうにもう1人サンタさんがいて、青い風船を持ってた。
私はそこに走って行ってしまったの。
「まりあ青い風船がいい」そう言ったのをはっきり覚えてる。
お父さんとお母さんがごめんなさいって言ってる声がした。
「……わがままだなぁまりあは」お兄ちゃんが言った。
私が受け取らなかった赤い風船を、お兄ちゃんがコクリとお礼した後受け取った。
その瞬間だった。
地面を揺らすような大きな爆発音と風で私は倒れ込んだ。
その後、急に静まり変えたかと思うと、遠くに人だかりができていて、悲鳴のような声が聞こえた。
何が起こったのかわからないまま、私はゆっくりと体を起こし、立ち込めた煙に負けないように目を開いた。
土埃と逃げ惑い走る人の足音、遠くから近づいてくる救急車のサイレン。
「お父さん、お母さん、お兄ちゃんどこ?」
目の前に、さっきあの店で私が拒んだクリスマスプレゼントの赤いハイヒールが転がっていた。
なぜだかわからない、私はとっさに、その靴に手を伸ばし抱きしめた。
その時ストレッチャーに乗せられていく男の子の姿が見えた。
だらりと下がったその子の手は、赤い色に染まっていた。
それが私のお兄ちゃんと気づいたとき、私は気を失った。
僕はひたすら走り続けた。
爆発の煙が見えなくなるところまで遠く。
こんなに本気で走ったの初めてかもしれない。
何が起こったのか理解できなかった。
遠くで救急車やパトカーのサイレンが聞こえている。
僕はその音が耳に届かなるまで走り続けた。
「なんで?何が起こった?プレゼント渡すだけのバイトだったはずなのに、まさか爆発するなんて……あの人たちは死んだのか……だとしたら、僕は殺したのか……」
何とかアパートの部屋にたどり着いた。
翌朝のニュースを見て、僕は自分が渡したプレゼントが爆発したせいで三人の人が亡くなったことを知った。
犯人は間違いなく僕……村井一樹だ。
今思えばおかしなことだらけだった。
三時間、五万円と言う割のいいバイトに釣られ何も考えずに申し込んだ。
品川駅の前で車に拾われて、新横浜の駅の近くのあの場所に連れて行かれ五万円を先に渡された。
連絡が来るまでしばらく待機した後、前から来る家族に必ず渡すようにだけ言われて、スタッフと名乗るその男は去っていった。
金持ちの家族の何かのサプライズぐらいにしか考えてなかった。
追い打ちをかけるようにニュースで詳しい情報知った。
生き残ったのは六歳の女の子一人。
……僕とおんなじ思いさせしまうのか……。
僕は物心ついた時から親父がいなかった。
なぜなのか聞いた事はなかった。
九才の時、優しかった母が病死し、十八歳まで施設で育った。
その後今日までの二年間、職を点々とし、施設の先生からの紹介で勤めた工場も人間関係が嫌ですぐに辞めてしまった。
僕みたいに、学歴も根性も何もないやつは、職場では常にマイナスからのスタートだ。
職場の中で一番辛い仕事を回される。
だからって、仕事が続かないのは言い訳かもしれないけど、日雇いのバイトを見つけてはお金がなくなるまで何とか暮らして、また仕事を探す。
どうにか必死で呼吸して、もがいて、ただ生きているだけ。
だけど、施設での教えは心に刻んでる……絶対に人を傷つけちゃいけない。犯罪に手を染めちゃいけない。
なのに……。
私は二日間眠り続けていたらしい。
「怖い夢を見ちゃった」
そう思って目を覚まし体を起こした。
周りを見ると、いつもと違うベッドにいつも眠る時一緒の熊のぬいぐるみがない。
家族四人で写した写真が貼られた部屋のドアは、クリーム色ではなく、古い木でできた茶色いドアだった。
家族写真も見当たらない。
だんだんとこれが夢じゃなく、本当のことなんだってわかりかけた時、私は恐ろしくて震えが止まらなくなった。
映画の予告編みたいに、あの時のことが蘇ってきた。
イルミネーション、サンタクロース、赤いハイヒール、赤い風船………。
とにかく怖かった。
お兄ちゃんはどこへ行ったんだろう?私は今どこにいるんだろう?
涙が溢れそうになった。
でも絶対に泣かない、お兄ちゃんとお父さんとお母さんに会うまでは。
私は涙を振り払い、ベッドから両足をそっと下ろし、床に転がっていた赤いハイヒールを拾い抱きしめた。
その時、重そうな木のドアがちょっとだけ開いて、知らない男の子が顔を出した。
私よりもう少し年上の感じで、髪がくるくるしたボサボサ頭の子。
「私のお父さんとお母さんとお兄ちゃん知らない?」
男の子は少し驚いた顔で、首を横に振った後、そっと部屋に入り、静かに私のベッドに腰を下ろした。
「おまえ、誰だ? 名前は?」
「私……まりあ……まりあ」
「えっ!女の子……あっ髪が短いから
俺は海斗、四年生だけど、おまえは? まりあは、幼稚園か?」
「うん、年長組」
「おまえがここに来たときは、一人だったぜ
ここはみんな、親がいない子ばっかりで暮らしてる。
俺は、父ちゃんもお母ちゃんにも会ったことねぇ。
親戚の叔父さんとこで暮らしてたけど、もう生活が苦しくて、面倒みれねえって……で、ここに一年前に来た」
「なんで?……私には、お父さんとお母さんとお兄ちゃんがいるのに……。 そうだった、私のせいで……私のせいで爆発に巻き込まれて……わからない、わからないの」
私は見えない怖いものに押しつぶされそうになった。
震えが止まらなかった。私の肩をその男の子は、さすってくれた。
「無理に思い出そうとしなくてもいいじゃん……今は」
私の体の震えが止まるまで、ずっと寄り添ってくれた。どれぐらい時間が経っただろうか。
「シスターを呼んできてあげるから待ってて、みんなとっても優しい人だから安心しな」
海斗と名乗るその男の子は、そう言って走りながら、部屋を出て行った。
その日から私は、児童養護施設「愛の家」で、シスターたちと静かに暮らすことになった。
シスターから聞かされたのは、お父さんとお母さんとお兄ちゃんは怪我のために入院していて、元気になったら迎えに来てくれるということだった。
施設に来てからの二日間、ずっと与えられた食事に手をつけない私に海斗が言った。
「お前の父ちゃんとお母ちゃん迎えに来てくれるんだろうだったらいつまでも寂しがってちゃだめじゃないか」
私は首を横に振った。
「お父さんもお母さんもお兄ちゃんもいないし、私の大事な熊のぬいぐるみもない……
でもそれだけじゃないの、私のせいなの。
あのクリスマスイブの日、本当はレストランからすぐに家に帰るはずだったの、でも私が……私が赤いハイヒールが嫌だって言って。
わがままなこと言ったから……。
レストランを出ていつもと違う方向に向かったの。
駅の裏側にある靴屋さん……私がわがままだったから、赤い靴は嫌だって言ったから、
そしたらそこにサンタさんの服を着た男の人がいて……。
私に近づいてきたその人、赤い風船を持ってた。
私が青い風船がいいって言って、赤い風船をくれようとした男の人から走り去ったの。
そしたらお兄ちゃんがその赤い風船をもらって……」
そこからは、声が詰まって、涙が溢れそうになったけれど、必死で我慢した。
「でもね……赤いハイヒールだけが無事に残ってた。
私ずっと履くの!何があっても」
「……そんなことがあったのか……でもお前を狙ったんじゃないよ。
クリスマスに爆弾仕掛けるやつなんか、誰これ構わず傷つけてやろうって言う馬鹿な奴なんだよ。
いつまでも悲しんでいる場合じゃないだろう!
お父ちゃんとお母ちゃんたちは病院で頑張ってるんだから。
一番元気なお前がそんなんでどうするんだよ」
海斗の言葉を聞いて、私はスープを一口二口に入れた。
そしてその後、心に誓ったの、強くなろうと。
にらめっこしようぜ。
おやつの時間の後、みんなが集う食堂で、部屋の隅っこにいる私に海斗が言ってきた。
私は首を横に振った、そんな気分じゃない。
負けたらこちょこちょだからなと、人の話を聞かない海斗。
顔を背ける私に無理矢理顔を近づけて、海斗が飛びきりの変な顔三連発続けた。
最初は我慢したけど、最後に親指で鼻の穴を上に向けて、人差し指で垂れ目にした顔には、思わクスッと笑い声を出した。
「はい、お前の負けー」
だってほんと変な顔なんだもん。
海斗は面白い顔のまま顔を隠そうとする私を追いかけてくる。
今日は、日曜日だから、私を入れて愛の家の子たち十二人が全員揃っててめっちゃ恥ずかしい。
私は笑いながら、自分の部屋へと逃げていった。
海斗が追いかけてきて、私の部屋の前で捕まった。
「お前の笑顔マヌケだな」
そうだ、愛の家に来て、笑ったの初めてだった。
「俺もお前に負けない位、笑った顔は間抜けなんだ。
それを見たかったら、笑かしてみな!」
私はできる限りの変顔してみた。
海斗はずるくて、目を合わさないように遠くを見たり、横を見たりしてくる。
私はとびっきりの変顔で海斗の顔面に近づいた。
「ガハハハハハハ」
我慢してた海斗の顔に限界が急にやってきた。私の勝ち!
その後、海斗は笑ってる方が楽しいぜ!と言いながら自分の部屋に帰っていった。
私も小さくうなずいた。
その日から私と海斗の距離は少しずつ近づいていった。
愛の家の外に出ることはなかったけれど、園庭で遊ぼうって小さな子たちにせがまれて庭でかくれんぼしたり、縄跳びをしたりして毎日を過ごした。
足にはいつもあの赤いハイヒールを履いて。
何があってもずっと履き続ける。
お父さんとお母さんのプレゼントなんだもん。
施設に入って四ヶ月が過ぎた。
お父さんもお母さんも私を迎えには、まだ来なかった。
夜になると、時々家族のことを思い出して悲しくなる私を、海斗は慰めてくれた。
私と同じ今年七歳になる二人の男子達也と雄太は、小学校に行き始めた。
私だけは愛の家から一歩も出ることができなかった。
ランドセルを背負って学校に行く達也と雄太を見て私はうらやましかった。
それから春が終わり、緑の匂いが濃くなってきた頃、その日は夕方から急に雨が降り出した。
私が小さい子供たちに、園庭から校舎に入るようにと声をかけていた時だった。
雄太と達也がびしょ濡れの中、傘もささずに帰ってきた。
玄関で私が慌ててタオルを差し出すと、達也はそれをはねのけ、言い放った。
「もうびしょびしょだからいらねーわ」
「お前は学校行かねーでずっと遊んでるから楽でいいよなぁ」
雄太も、私にそう言いって、肩を突き飛ばした。
私は雨で濡れていたハイヒールのかかとが滑って尻餅をついた。
雄太と達也はそれを見てゲラゲラ笑っていた。
「お前なんでいつもそんな赤い靴履いてるんだ?」
達也が言い、雄太がボロボロできたねーしと言いながら、私が嫌がるのを無理矢理ハイヒールを奪い取って廊下を走り去った。
私は必死で二人を追いかけた。
そして雄太と達也のズボンのベルトを捕まえて引っ張り、ハイヒールを取り戻そうとしたけど、向こうは二人で協力してすぐ取り返えされる。
その時私の後ろに傘立てがあることに気づいた。私は黒いこうもり傘をつかんで振り上げた。そして思いっきり振り下ろそうとした。
その時私の腕を誰かがつかんだ。
抵抗したけどすごい力で止められる。だれっ?放して!
振り返れば海斗だった。
「人を傷つけちゃだめだ」
私はその言葉に目が覚めた……私も同じだ、お父さんやお母さんやお兄ちゃんを傷つけた人と。
どんな理由があっても、人を傷つけて良いわけなんかない。
私はこうもり傘を傘立てに戻した。
海斗ににらまれて雄太と達也は私のハイヒールを投げ捨てて走り去った。
それからもずっと雄太と達也は私を無視し続けた。
私は握り小節をぎゅっと握って我慢した。
爪が親指の根元に食い込んで赤く染まった。
秋
施設の先生や小さな子供たちで小学校に運動会を見に行くことになった。
初めて行く小学校どんなところなんだろう。
幼稚園の運動会はなんとなく覚えてるけど、小学校の運動会ってどんなことするのかな?
海斗の友達も見てみたい。
とっても楽しみにしていた朝がやってきた。
私だけマスクと帽子をつけるようにシスターに言われた。
絶対に外しちゃダメって。
それでも学校に行けるんだったら……。
小さな子供たち五人と私と愛の家のシスター四人でお弁当を持って小学校へ向かった。
私は運動場の五年生が座っている場所を探した。
確か三組だったよね。どこだろうたくさんいるから……。
でも私は海斗をすぐに見つけることができた。
友達に囲まれて楽しそうに笑っている海斗。
私は振りかけた手をグーにして後ろに隠した。
愛の家にいるときの海斗とはちょっと違う顔だったから。
声をかけようかどうしようか迷っている時、海斗の方が気づいてくれて手を振ってくれた。
しばらくして次の競技に出るために、私たちの前を歩いてきた海斗が言った。
「次の徒競走で一番になるから、まりあに手振ってやるからな」
そう言って、海斗はまたみんなのいる方に戻っていった。
五年生の徒競走の順番がやってきた。
海斗が前から五番目の列に並んでいるのが見えた
海斗の順番が近づくたびに、胸がドキドキした。
そして、いよいよ海斗がスタートラインに立った。
五人一斉に並んだ、海斗は真ん中。
私は手を合わせて一等になりますようにってお祈りした。
ヨーイドンのピストルが鳴って、五人は一斉に走り出した。
運動場の中に大きく描かれた楕円の周りを必死で走る海斗。
最後のゴールの場所。
私はそこで待ち構えた。
海斗はすごく速かった、でも、背の高い男の子一人が海斗の前にいた。
その間一メートル位離されて、必死でくらいつく海斗。
もうドキドキして目をつぶった。海斗、がんばれ!
すごい子供たちの声援が聞こえた、目を開けてみた。
海斗が前の子を抜き去る瞬間だった。
そして私の目の前で白い紙テープを切って海斗が走り抜けた。
苦しそうに息を吐きながら海斗は、一番の旗が立ったところに先導されながら、顔をキョロキョロして、私を見つけてくれた。
私は思いっきり手を振った。
海斗も右手の人差し指を高く上げながら手を振ってくれた。
自分のことみたいに嬉しかった。
今日は帰ったら海斗に私の分のおやつをあげよう。
それか貯めたお小遣い五百円で海斗の好きなおやつを買ってあげようか?
校庭の隅で考えている時だった、あざ笑うような男の子たちの声が聞こえてきた。
「お前たちお父ちゃんもお母ちゃんもいないんだろう?家はどこに住んでんの?」
「施設だろう、俺の兄ちゃんが言ってた」
「だからいつもこんな貧乏くさい靴履いてんのかよ、よくこれで走れんな」
その声は校舎の奥から聞こえてきた。
私はそっと顔を出して覗いてみた。
男の子四人に囲まれてうつむいている達也と雄太がいた。
二人は何も言わず、ただうつむいて、涙を浮かべていた。
意地悪そうな男の子たちは次々に暴言を吐いていた。
心の中では何か言い返せって思った。
でも達也と雄太はただ黙ってうつむいているだけ。
その中のリーダー角の一番背の高い男の子が達也の腹を蹴った。
私の横に運動場の手洗い場があった。長いホースがついてた。
私は目一杯蛇口を回した、体を隠して腕だけ伸ばして。
ホースの先っぽをつまんで、思いっきり水を出してそいつらめがけてかけてやった。
海斗これは暴力?いけないこと?でも見てみないふりなんかできないよ。
四人ともびちょびちょにしてやった。
奴らはやめろとか叫びながら逃げていった。
意地悪な奴らに顔を見られたけど、私は達也と雄太に見つからないようにその場を離れた。
本当はその前に立ちふさがって馬鹿野郎って言ってやりたかった。
でもそれが二人にとって良いことなのかわからないし……私が愛の家の子だってわかったら達也たち逆にもっと意地悪されることになるかもしれない……。
今までは私は学校に行きたいのに行けない、それなのになんで達也と雄太に意地悪されなきゃいけないのって思ってたけど。
学校に行ってる雄太と達也もこんな辛い思いして通ってたんだ……。
そりゃ私に意地悪たくなる気持ちも少しわかる気がした。
私はそれからもずっと、雄太と達也に無視され続けた。
私は何もしてあげられないけど、それで気が済むんだったら……もういい。
その日から数日後、月曜日の夕方、私はいつものように園庭の庭の花にホースでお水をあげていた。
愛の家の向こう側の道路を歩いている。三人組の男の子たちの一人と目があった。
私は誰か気づかなかったけど、向こうが大きな声で行った。
「あの水掛け女だ!」
別のもう一人が言った。
「あいつもここのやつだったのか!」
私は、愛の家のアイアン製の門の隙間からホースを出し、先っぽ親指でぎゅっと縮めて、水を強くしてかけるふりをした。男の子たちはヒーと言いながら、もうこの道を通るのやめようぜとか、バーカとか、言って走り去って言った。
私はちょっと嬉しくて口だけで笑って、ホースを直してフックに引っ掛けてる時だった。
その時門の陰に雄太と達也が立っていた。
三人、互いに目があって、なんか気まずい空気が流れた。
私は無視されるとわかってるから、小さくおかえりとだけ言って玄関の方へ歩きだした。
「お前だったのか! 運動会の時の水かけ女って?」と達也が叫んだ。
そして私の前を通る時、ちっちゃな声で「ありがとう」とだけ言った。
雄太はちっちゃな声で「ただいま」と。
「理由って、どんな?」
ある日達也が私に聞いてきた。
夕食のカレーを食べ終わって、後片付けを手伝っていた時。
「学校に行けない理由があるって、海斗兄ちゃんから聞いたけど」
雄太も横で興味深げな顔で、達也の肩に顔を寄せてきた。
私はなんて答えていいかわからなかったから、ちょっと戸惑っていた。
台所の中で皿洗いを手伝っていた海斗が近づいてきた。
海斗は雄太と達也に顔近づけて、二人の耳元でやいた。
「命を狙われてんだよ」
海斗はそう言いながら、人差し指を拳銃のように構え、達也の胸と雄太の顔を打つふりをした。
達也と雄太は驚いて、とっさに達也は胸を雄太は顔を抑えた。
達也は、それは行けないよな……そうつぶやいて、雄太と部屋へ帰っていった。
二人が帰った後、私は海斗にこっそり尋ねた。
「私、命を狙われてるの?」
「口からでまかせに決まってるじゃん」
驚く私に、海斗が言った。
「理由なんてわからないんだから、仕方ないじゃん、みんなまりあのことを大切に思ってくれたら、それでいいんだ」
私はいつの間にか海斗のことを本当の兄弟のように感じていた。
前から気になっていたことを海斗に言ってみた。
「その髪型変だよ」
海斗は恥ずかしそうに髪を押さえた。
「仕方ないじゃん、俺くせ毛だし、シスターが切ってくれるんだから、文句なんて言えないよ」
「私が切ってあげる、だから、もう少し伸ばしてみて
かっこよくしてあげる」
そして一週間ほど経った時、私は海斗の髪をカットさせてもらった。
前にテレビで見たのを見よう見まねでやってみただけだけど、思いのほか海斗に似合っていて、鏡を見た海斗は一言「今度からまりあがやって」とつぶやいた。
それから愛の家では、子供たちみんなから散髪して、と言われるようになった。
もちろん私は喜んでみんなの髪をカットしてあげた。
一人ひとりの個性に合うように。
愛の家に来て三度目の春がやってきた。
海外は中学一年生になり、私も本当だったら小学三年生になっていた。
赤いハイヒールは擦り切れかかとが外れた。
私の足は大きくなって、もう限界に近づいていたけど、愛の家の庭から出ることのない私は何とかつま先で歩くことでやり通した。
海斗がある日が学校から帰ってきて、私に良いものを持ってきたぜって言った。
ビニール袋から出てきたのは赤いサンダル。
学校の先生が履いていたサンダルを海斗がもらってきてくれたものだった。
海斗は先生に宿題絶対忘れません!と言う約束でもらったって言ってた。
ちょっと大きかったけど、かかとまで赤くて、私のハイヒールに似てて、すごく嬉しかった。
大切に使おう、そう思った。
ここに来てから五回目のクリスマスがやってきた。私は十一歳になっていた。
お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、もうこの世にはいないんじゃないかななんてぼんやり思ってしまう時があった。
あぁ何考えてるんだろうって自分で自分が嫌になった、悲しくなった。
きっと会える!
今、お父さんとお母さんとお兄ちゃんは大怪我と戦っているんだ! 諦めちゃダメ! 辛いのは私だけじゃない。
それともう一ついつも思っていたのは、早くみんなと学校に行きたい。
なぜ私だけ学校に行けないんだろう。本当に命を狙われているんじゃないかなって思う時もあった。……でも学校に行けるんだったら、命なんて狙われてもいい……とさえ思った。
園庭の白いクリスマスローズの花が、今年はいつもよりたくさん咲いていて、お姉さんみたいな若いシスターの菊田さんが今年は何か良いことがあるんじゃないかしらと言っていた。
突然のことだった。
小さな子供たちの三時のおやつの時間。
子供たちが昼間過ごす食堂の横のファミリールームで三歳から一歳までの子供五人と自分のおやつをいつもの慣れた手つきでシスターと一緒にお皿に載せる。
「さーて、手を洗いに行くわよ」
と小さい子たちにシスター菊田が行った時、園長のシスター松が、廊下から私の名を呼んだ。
「まりあちゃんちょっと来てください」
いつもと違う急いだ様子に、私はすぐシスターの後を追いかけ、園長室に入った。
そこには、背の高い短い髪でスーツ姿の若い男の人が立っていた。
その人は私の顔を見て微笑んだ。
心の中から溢れた優しい笑顔。
「長い間会っていなかったから、わからなかったでしょ。まりあちゃんお兄さんよ」
お兄ちゃん……。
最後に見たのはストレッチャーに乗せられた血だらけの左腕。
知らない人のように思ったけど、でも、細い身体にすーっと伸びた長めの足は、面影がある気がした。
私の目から涙が溢れそうになったけど、今泣いちゃうとお兄ちゃんの顔ちゃんと見ることができない。
「ごめん、遅くなって……ごめん本当にごめん。これからは二人で生きていこう君の……いや……まりあのためなら何でもする」
お兄ちゃんがそう言う前に、私はお兄ちゃんに抱きついていた。
私も大きくなったけど、お兄ちゃんももっと大きくなってた。
もうこんな日は来ないんじゃないかって思いかけてた。
「私のせいなの全部私のせい、私が、私が赤いハイヒールを嫌だって言わなかったら……誰も傷ついていなかった、私がわがままだったせいで、みんなみんな……」
泣くのを我慢して、声を必死で絞り出そうとしたけど、途中で声がかすれて、言葉にならなかった。
お兄ちゃんは真っ赤な瞳で私の顔をじっと見据えた。そして、こういった。
「まりあは何も悪くない」
私はその日すぐに愛の家を出ることになった。
海斗が学校から帰ってきて、お別れを言ってから行きたい。
私は強くそう思ったけれど、私のわがままを通せば、また不幸なことが起こるような気がした。
だから、一日でも早く連れて帰りたいとずっと思っていたと言うお兄ちゃんに、もう少し待ってって言うことはできなかった。
一番大切な友達にお別れの言葉を言えないまま、私はすぐに愛の家を後にした。
二日前・園長の部屋
僕が、まさか五年後にここに戻って来るとは思っていなかった。
こんな形で……。
シスター松は、園長の椅子から立ち上がった。
「それは本当なんですか?……本当にあなたが五年前のあの爆弾事件を起こした犯人なんですか?」
「はい……本当です。
でも僕は本当にプレゼントを渡すアルバイトだと思ってやっていたんです。どうかシスター信じてください」
「あなたも誰かに騙されていたと言うわけですか」
僕はうなずいた。
「愚かでした。この愛の家で本当にお世話になったのに、どこに行っても仕事が続かず、転々としてその日暮らしみたいな生活をしていました。
そのうちお金に困って何でもするようになりました。
でも犯罪はしていませんでした。
それだけは信じてくださいシスター、でも冷静に考えると、プレゼントを渡すだけのアルバイトなのに五万円ももらえるわけないですよね」
「では今までどうしていたんですか?」
「僕は、あれからずっと逃げていました。やらなければならないことを終えたら、ちゃんと自首して、罪を償うつもりです」
「やらなければならないこと?」
シスター松が尋ねた。
「なぜ命狙われなくてはいけなかったのか……。彼女の家族を傷つけた人たちを探そうと思いました。
僕と同じ親のない子にしてしまったこと、どうつな償なっても償いきれません。
でもこのまま僕が警察に捕まってしまったら、彼女のために何もすることができません。
僕なりに調べました……そしてわかったんです」
「何かにの事件に巻き込まれたっていうことなんでしょうか?」
シスター松の質問に僕はうなずいた。
「彼女のお父さんは癌細胞の研究の第一人者でした。
わかっているのは、あの爆破で亡くなる数週間後に、お父さんである門倉教授が学会で何かを発表すると言う予定があったということまでです。
ここからは想像ですが、何か重大な病気を治療することに関わる発表だったのではないかと推測します。
その発表を阻止したいと思う組織が、この事件を起こした犯人ではないかと。
疑問なのは、なぜ家族全員を殺そうとしたかです。何かもっと闇がある気がします。
彼女はまだ狙われている、僕はそう思っています」
「可能性はゼロとは言えないですね。
実はこの施設にまりあちゃんがやってきた時、謎の電話があって、あの子は、誰かに命を狙われているから、かくまってあげて下さいと言う電話があったんです…… もしかして、その電話は?」
僕はうなずいた。
「ごめんなさい、今まで黙っていて。
今日までまりあちゃんを守ってくれてありがとうございました」
「彼女も学校には行きたかったでしょう。でも文句一つ言わず頑張ったわ」
奴らに捕まる前に僕が助けたいんです。
誰にも見つからない場所を見つけました」
シスター松は、両手で顔を覆った。
「まりあちゃんはついて行かないでしょう、あなたには……無理矢理なんてダメです」
「五年前の罪滅ぼしをしたいんです。自分の残された人生を彼女と彼女の家族への罪の償いのために全て使いたいんです。
それまでは、僕が彼女の兄だと言うことにしておいていただけませんか?必ずその時が来たら本当のことを彼女に話し罪を償います」
シスター松は、もう一度園長の椅子に腰掛けて、右の親指と人差し指を顎につけた。
そして、ポツポツと話し始めた。
「彼女はだいぶ元気になりました。
四つ年上の海斗という子が一生懸命まりあちゃんを元気にさせようと頑張ってくれたんです。
おかげであの子は食事も取れるようになりました。笑うようになりました。
家族と過ごしていた頃の元気だった姿に戻ったように見えます。
でもやっぱりまだ心の中には大きな大きな傷が残ってるんです」
僕は改めてことの重大さを知った。
彼女を深く深く傷つけていることを。
そして、長い沈黙が続いた。
シスター松の顎から二本の指が離れた。
「まりあちゃんに会えばお分かりになるでしょう。
本当に命がけのつもりでないと守りきれませんよ。あなたの人生を壊すことにもなりかねない」
園長先生は僕の目をじっと見つめた。
僕はうなずいた後力を込めて言った。
「命がけで守ります」
俺、山内海斗、今日は中学校で調理実習があって、俺はクッキーを作ったんだ。
ちょっと恥ずかしいけど、まりあの好きなキャラの熊の顔にしてみた。
これまりあに食わせてやろう。喜ぶかなぁ。
俺が学校から帰ってくると、一台のタクシーが愛の家から出て行くのが見えた。
門の中に入ったところにシスター松が立っていたので、誰か来てたんですかって聞いた。
すると、シスターは俺の真正面に立ち、目を見ながら両肩に手を置いて言った。
「お兄さんがいらっしゃって、二人で幸せに暮らすことになったの……」
俺は最後まで話を聞かずに、慌てて外に飛び出した。
「まりあどこへ行くんだよー!
俺の髪誰が切ってくれるんだよ」
俺の声なんか無視してまりあを乗せたタクシーはどんどん遠くなっていく。
俺は追いかけた。必死で走った。
足も横っ腹も限界になり、タクシーはどんどん小さくなり見えなくなった。
それでも俺はまだまだ走り続けた。気がつくと、辺りはもう暗くなっていた。
お父ちゃんもお母ちゃんも最初からいなかったから、寂しさなんてわかんないけど。
まりあは俺の人生にいきなりやってきていっぱい俺を笑顔にしてくれて、強くしてくれて、突然去って行きやがった。
寂しいに決まってるじゃないか。
俺はあの時、初めて泣いた。
その時遠くで大きな爆発音と同時に衝撃波が走った。
音の鳴る方に顔を向けると、愛の家の方から大きな火の手が上がっているのが見えた。
まりあの乗ったタクシーに後ろ髪を引かれる思いで、愛の家のほうに歩き出した。
次の角を曲がったら愛の家が見える。
その時だった大きな火柱が立つのが見えた。
俺が角を曲がった時、愛の家の屋根が崩れ落ちるのが見えた。
あの日から、俺は帰る場所を失ったんだ。
シスターたちや、愛の家のみんなが死んじまった。
俺だけが命を落とすことなく生き延びた。
僕があの少女に再会した日の事は一生忘れる事は無いだろう。
ドアが開き、そこから現れた少女はその澄んだ瞳で疑うことなく、僕の胸に飛び込んできた。
僕たちが愛の家を後にした後、施設は何者かに爆破された。
シスターやたくさんの罪のない子供たちまで巻き込んだこと、本当に罪の深さを感じた。
ただ、まりあを守れたことだけが唯一の救いだった。
日本海に面した、海辺の家で、僕たちは暮らし始めた。
彼女はずっと赤いハイヒールを履いていた。
新しい靴を買ってあげるよ、もっと歩きやすそうな。僕はその時まで知らなかった。
あの日クリスマスプレゼントされたのは赤いハイヒールだったこと。
そして青いスニーカーのほうがいいと言って、駅の裏側の店へ買いに行こうとした後、僕に出会い爆破に巻き込まれたこと。
その日からずっと彼女は赤いハイヒールを履いていると言うこと。
その赤いハイヒールは、彼女にとって両親への謝罪の十字架なのだろうか。
だが、その十字架は、本当は僕が背負わなければならないものなのだ。
私が愛の家を出たとき、お兄ちゃんからお父さんとお母さんは、病院にいるって聞かされてた。
一日でも早くお見舞いに行きたかったけど、今まだ爆弾犯が捕まっていないから、もう少しの我慢だってお兄ちゃんに言われてた。
そして、この海辺の家に来てから、8年の月日が流れた。
日本海の荒波が打ち寄せる半島の奥、木々に囲まれた中にある小さな家。
家の前には白い砂浜が広がっている。
その砂浜の両側に小さな岩山があるため、人が入ってくる事は無い場所。
お兄ちゃんと私二人でひっそりと暮らしていた。
お兄ちゃんはいつも夕方になると岩山を歩いて乗り越え、防砂林を越えて、そこから車で仕事に向かう。
車で三十分ほどのところにあるバー。
「まりあ、お兄ちゃん仕事行くから、もう家の中に入ったほうがいい」
「うん、すぐ行く」
誰もいないよ。お兄ちゃん……心配性なんだから。
私は濡れた砂に食い込んだハイヒールのかかとを抜くようにして、歩きながら家の方へ歩いて行った。
お兄ちゃんはいつも夕方四時に家を出て日付が変わり一時過ぎに戻ってくる。
それまで私は一人でで過ごす。
絶対に知らない人が来てもドアを開けてはいけないとお兄ちゃんにきつく言われていた。
お兄ちゃんと一緒に作った昼食のお好み焼きの残りを一人で食べながら窓の外を眺めていると、人影が見えた気がした。
ここに来てから八年の間、人が訪ねてきた事は一度もなかった。
高い機械音が響いた。
玄関のチャイム?
お兄ちゃんはいつも自分の家の鍵を開けて入ってくるから、私は初めてチャイムの音がこの音なんだと知った。
誰が来ても絶対にドアを開けちゃダメってきつく言われてたけれど……誰だろう。
警戒心よりも、何故かわからない興味が私をドアのほうに招いた。
チェーンをつけたまま、ドアをそっと半分だけ開いた。
黒い安そうなスーツを着たボサボサ頭の若い男が立っていた。
ドアの隙間から見えた男は悪い人には見えなかった。
「怪しいもんじゃないんです」
その男は言った。
本当に怪しい人が、怪しいもんです、なんて言わないでしょ?と私は思った。
「ちょっと道に迷ったんです、地図か何か持っていらっしゃらないでしょうか?
電波もつながらないみたいで」
「ちょっと待ってください。
確か下駄箱の横の棚に地図が置いてあったはず!」
私は困った人を助けると言うことに少し喜びを感じていたのかもしれない、人と触れ合うことがなかったから。
地図を見つけ、急いでドアの隙間から男に渡そうと手を伸ばした。
その瞬間男は、私の手をつかみ、自分のほうに引き寄せた
私の体は肩でストップした。
肩の痛さに気をとられている間に、男は腕を入れ、チェーンを外し、ドアを開け、すかさず中に入って私の両手を掴むと、家の外に引きずり出した。
怖くて体が動かなかった。
数秒の間にいろんなことが頭をよぎった。
お兄ちゃんがいつも気を付けろって言っている声。
私が外にいると早く中に入れって心配する声。
こんなとこに人なんかくるわけないって思う、私の心。
やっぱり本当だったんだ。
なんとかしなきゃ男の引っ張ると方反対に抵抗して家に戻ろうとした。
お兄ちゃんより少し背が低い痩せてる男だったけど、でも圧倒的な力の強さだった。
どこに連れて行かれるんだろう……殺されるのかな?
私はその時ふと思った。
もしもあの時と同じ奴らだとしたら、お父さんとお母さんが殺された理由がわかるかもしれない。
自分に何があってもいいから知りたい。
私は叫んだ。
「なんで私のことを襲うの?ただの泥棒じゃないんでしょう、教えてくれたらおとなしくするから言って。
あなた誰なの?それとも誰かに頼まれたの?」
男は私の方を見ずに持っていた結束体で私の両手をくくりつけた。
「私を殺して終わるんだったら殺していいです。そのかわりお兄ちゃんには絶対に手出しさせないから。
理由はわからないけど……私が原因なんでしょう」
私に顔を背けていた男の首筋から、汗が流れていた。
「俺だってここでやめるわけにはいかねぇんだよ、悪いけど。
誰に頼まれたかなんて言えねぇんだ」
男はそう言いながら、私を肩に担ぎ岩山を登ろうとした。
その時、私の右足から赤いハイヒールが脱げて転がっていった。
私は靴を取り戻そうと必死で足をばたつかせもがいた。
男は私の必死の抵抗に疲れたのか、力が抜けたようになり岩山を登るのを諦め私を肩から下ろした。
男は私の両腕を掴んだまま、座り込んだ。私も倒れるように男の横に座り込んだ。
「ハイヒールが……私の靴が脱げたの」
私はそう言って、足を伸ばし、手を使わず、何とか靴を履いた。
「さぁ、連れて行きなさいよ。どこへ行くの?」
男は混乱しているように、私を捕まえていない片方の手で、頭を掻きむしりくしゃくしゃだった髪がさらにくしゃくしゃになった。
そして、大声でわーっと叫んだ後、ポケットからカッターナイフを取り出した。
必死でジタバタしたけど、結束バンドで繋がれた両手を掴まれているから逃げられない。
刀が手首に当てられた。
一瞬の出来事。
きつく手を引っ張られた後、急にその手が放たれた。
私はその勢いで倒れ込んだ。
男は走るように岩山を登り、去っていった。
砂の上に切られた結束バンドが転がっていた。
俺は走った。
岩山を越えて、防砂林の松林の中を。
混乱した頭の中であの日を思い出していた。
十五歳のあの日住む所をなくして街をさまよった時のこと。
あれから何年経っただろう…… 八年だとしたら……あの女の子位の歳になってるはず……まりあ……。
俺は彼女が追いかけてきていないことを確かめた後、木の陰に体を隠すように座り込んだ。
やっぱり間違いない気がする……なんで。
あのまっすぐで曇りのない目、そして、何より……ずっと履いてる赤いハイヒール。
まりあ。
なんで命を狙われているのか……そしてそれがなんで俺だったんだ。
まりあと別れたあの日、爆発の後、俺以外みんな死んじまった。
俺は住むとこをなくし、街をさまよった。
一人去っていたまりあをうらやましいと思ったこともあった。
恨んだこともあった……でもそうじゃない。
まりあはずっと命を狙われて逃げ続けていたんだ。
なんで……。
私は男がいなくなったのを見届けて、急いで家に戻り部屋の鍵をかけた。
驚いたけど、何故かそんなに怖くなかった。
なぜだろう?
何が起こったんだろう? 一度縛っておいて、どうしてまたカッターナイフで外したの?
私はしばらく呆然とリビングのソファーになだれ込むように倒れていたけど、少し時間が経つと冷静になった。
結束バンドで付いた薄い傷跡が、お兄ちゃんにバレないように長袖のシャツを羽織って隠した。
このことをお兄ちゃんに話したら、私のことを心配してきっと仕事にも行かなくなるだろう。
でも、もしお兄ちゃんがいるときに、あいつが現れたら、もっと恐ろしいことになるかもしれない……。
でも、私にはどうしてもやりたいことがあった。
美容師になると言う夢。
愛の家にいた頃、よく海斗の髪を切ってあげた。
その時の海斗の嬉しそうな顔は今でもはっきりと覚えてる。
私は心配する兄を説得し、この秋から街の美容学校に買うことになっている。
だから今日の事は、お兄ちゃんには何とかバレないように、私は隠し通そうと決めた。
一ヶ月前
俺はボスの呼び出しを受け、いつもの場所に向かった。
新宿歌舞伎町その一角の地下にあるクラブ。
大音量の音楽とダンスでも盛り上がる男と女。
一枚の分厚いカーテンで仕切られたVIPルーム。
半円の大きなソファーに浅黒い顔で額に横一文字の傷のある男が右足をテーブルの上に乗せ座っている。
男の名は、黒岩ジョージ。
その前に立っているのは、俺たち、俗に言うチンピラ三人。
黒岩の兄貴がカバンから写真を出してテーブルの上に並べた。
写真は2枚とも遠くから撮られたような写真で1枚は横向きで、もう1枚はうつむき加減で、髪が長く切れながで大きな目が印象的な女の子だった。
「いいかお前らこの女見つけて俺のところに連れて来い。俺らの場所がわからないように袋かぶせて……生きたままだぞ。
わかってるのは、名前が門倉で、石川県方面にいるってことだけだ。
お前らとおんなじ捨て犬らしいから、俺の予想じゃ夜の街にいるに違いない。
金沢の繁華街片っ端から当たれ」
俺と、一つ年下で二十二歳の翔也と多分五、六歳は年上の鎌田さん、三人はクラブを出た。
ちょうど日付が変わる頃だった。
翔也がポツリと言った。
「なんか、この頃黒岩さんやばくないですか?」
俺も答えた。
「今までと違うよなぁ、仕事」
また、翔也が言った。
「俺もついていけないっすよ、サツの世話になりたくないっすから」
「馬鹿野郎。こんな話黒岩の兄貴に聞かれたら終わりだぞ。とにかく明日現地に向かうぞ」
鎌田さんに促され、俺たちは明日の約束をして別れた。
翌日、俺たち三人は、鎌田さんの古いおんぼろの黒いセダンに乗り込み、翔也の運転で石川県へと向かった。
関越自動車道を北上し、JRの金沢駅に到着したときにはもう日が暮れていた。
俺たちは駅の西側にある小さな「駅前ホテル」と言う看板が掛かった安ホテルに部屋を取った。
もちろん俺たち三人一部屋。
部屋には無理矢理突っ込まれたベッドが三つと小さなテレビ。しかも一番手前の一つは簡易ベッド。
鎌田さんはテレビの横の一番奥のベッドをぶん取った。
簡易ベッドは一番年下の翔也が使うもんと思ってぼーっとしてたのがいけなかった、どういう神経してるのか堂々と真ん中のベッドを取りやがった。
これで俺が簡易ベッドに決定しちまった。
鎌田さんの指示で、翔也は金沢の駅から南方面、俺は日本海側を探すことになった。
鎌田さんは駅周辺の繁華街をしらみつぶしに探すぞと言っていた。
翔也は鎌田さんのいないところで、一番楽なとこ選びやがってと愚痴っていた。
俺は、スマホの地図を頼りに、南から北へ能登半島をひたすら歩いた。
何の手がかりも見つけられず、俺たちは苛立っていた。
俺たちがここに来てから一月ほど経った晴れた日。
海辺の防砂林の中を歩いている時、急な腹痛に襲われた。
昼飯のラーメンの替え玉をしたことを後悔した。
ちょうど岩山があって、その上に登って、体を休めた。
その時うっすらと岩の向こうに砂浜があり、その向こう側の岩場との間にポツンと家が立っているのが見えた。
近くまで来ないと見えない。
こんなところどうやって入って行くんだろう?
腹痛がおさまった俺は単なる興味から岩山を登って、砂浜のほうに降りてみた。
漁師の小屋なのか?
こんな誰も来ないような海辺に、若い女がいるわけなんかないよなと思った時、俺の視界に飛び込んできた。
窓越しに、長い髪であの写真と同じ澄んだ瞳をした女の子。
俺は黒岩さんに拾ってもらい、育ててもらった。
黒岩さんの言う事は何でも聞いてきた。だから、今回も早くその女の子を見つけようそう思っていた。
でも気づいた。
その子は俺と施設で5年間過ごした実の妹のような存在、まりあだったということ。
俺が言ったのは冗談じゃなくて本当だったんだ……まりあは誰かに命を狙われてるってこと?
愛の家では苗字を聞いたことなんかなかったんじゃないかな……いや門倉って言ってたかもしれない。
なんで気づかなかったんだ。
まりあ、怖い思いさしてごめんな、俺も自分が海斗だって名乗ることができなかった。
これからは俺が守る命がけで守る。たとえそれが黒岩の兄貴の命令だったとしても……俺はそう強く思った。
その日から数ヶ月の日が流れ、たびたびかかってくる黒岩の兄貴からの電話に鎌田さんは焦り出していた。
俺は怪しまれないように、もうこの街にはいないんじゃないですか?なんてさりげなく言ったりした。
でも、黒岩の兄貴の指示は変わる事はなかった。
俺の努力も虚しく情報が寄せられた。
翔也は、新潟の夜の街で遊びまわっていたらしく、その時遊んでいた女の子に写真を見せたところ、似ている子をバイト先のカフェで何度か見たことがあると言う。
その女が言うには、隣のビルの美容専門学校の学生じゃないかなぁってことだった。
俺と鎌田さんと翔也で美容専門学校に張り込みに行くことになった。
本当に、写真の女の子かどうか確かめるためだった。
俺は不安だったけれど、素人女の子の言うことなんて不確かだそう思ってた。
鎌田さん達とまりあが通う美容専門学校の入り口が見える斜め向かいの喫茶店に張り込んで三日目。
その日は、翔也が女を連れてきていた。
くるくるに巻いた長い髪と、派手な化粧と、冬だと言うのに、へそ丸出しの服を着た女。
余計な垂れ込みをした女だ。
俺たちは、それぞれ一杯のコーヒーで昼の十二時から三時間以上ねばっていた。
翔也の女が叫んだ。「あの子だよ。ほら!」
学校のドアが開いて、三軒右隣のコンビニに入っていく姿が見えた。
俺は震えた、まりあ……間違いない。
「似てるけど、ちょっと違うよ」と言ってみたが翔也のやつ「絶対、あの子だよ」と言うし。
「お前ハンカチ持ってるか?」
鎌田さんが翔也の女に聞いた。翔也の女はうなずいた。
「門倉さん、これ落としましたよって聞いてみてくれ」
女はだるそうな顔して、肘をついてたけど、いいもん買ってやるからと翔也に言われ店を飛び出して行った。
コンビニの中で女がまりあに話しかけているのが見えた。
振り向いた。まりあが不思議そうな顔で何か言っているのがガラス越しに見えた。
そして、翔也の女が戻ってきた。
うれしそうな顔で店に入ってきた。
翔也と鎌田さんが順番にその女に尋ねた。
「どうだった?」
「女はなんて答えた」
「その前に何買ってくれんの?お金でもいいよ」
鎌田さんは呆れた顔した後、財布から一万円を出し女に渡した。
女は納得した顔で嬉しそうにポケットに金を入れた。
「門倉さん、ハンカチ落としたよって言ったら、私のじゃないって言ってたそれだけ」
翔也と鎌田さんは顔を見合わせた。
そして鎌田さんが言った。
「名前は間違ってなかったってことだな」
鎌田さんはすぐ立ち上がり、俺たちに跡をつけるように指示したけど、まりあの姿はもうどこにもなかった。
まりあはコンビニを出て駅のほうに向かったけど、それを見ていたのは俺だけだった。
俺は叫んだ「くそ!見失っちまった〜」と。
「大丈夫だ。
ここの学生とわかったからには、必ずチャンスはある」
落ち着き払って鎌田さんがそう言った。
やばい、これはかなりやばい。
俺と鎌田さんと翔也はホテルへ戻り、どうやってまりあを拉致するかの相談を始めた。
俺の心は上の空だった。
どうすればいいんだ。
一刻も早くまりあに伝えなきゃ、できるだけ早く遠くへ逃げるように。
次の日、黒岩の兄貴と鎌田さんが電話で話し合っていた。
電話のあと、鎌田さんは俺と翔也に顔を近づけていった。
「いいかお前ら、十二月二十四日、あの女が通う専門学校でクリスマスパーティーがある。
その日だけは学生じゃない人間も出入り自由だから、紛れて俺らも入り込む。そして拉致する。
目印は赤いハイヒールだ、いつも赤いハイヒールしか履いてないらしい。
それでこのミッションは終わりだ」
「あーやっと東京に帰れるわ」
翔也が言った。
Xデーがわかった、まりあに絶対に伝えなきゃ。
十二月二十四日学校のクリスマスパーティーに行くな、そして赤いヒールを履くんじゃないと。
クリスマスイブまでにはあと一週間しかなかった。
次の日、鎌田さんは翔也にその服装じゃ学生の中に馴じみませんよ、と言われ、二人で買い物に出かけていた。
確かに、いつも黒いエナメルの靴に、テロンテロンの黒いズボン、その上には、赤いタートルネックに紫色のフリース。
学生の中に馴染むわけがないよな。
俺も誘われたけど、服のことわかんないんでと言いパチンコに行くふりをした。
そしてまりあのいる海辺の街へ向かった。
林を抜け岩山を登りそして降りるとまりあの住む家が見えてきた。
どうやって彼女に伝えるべきか……きっと警戒しているに違いない。
とにかく話を聞いてもらえなければ、伝えることができない。
大きな岩に身を隠し、まりあの家を覗いてみた。今日は天気が薄曇りで、まりあの家の窓に明かりがついているのが見えた。
窓めの白いレースのカーテン越しにダイニングテーブルに腰掛けているまりあが見える。
不用心だなぁ。俺が言うのも変だけど、
直接会って話せればいいんだけど……まりあは俺の話なんか信じないだろう。
いや警察に電話するかもしれない。
もしそうなったら……。そうだ!
俺は持っていた手帳の一ページをち切ってメモ書きをし、まりあに気づかれないようにかがみながら窓の下に駆け寄った。
「まりあへ、十二月二十四日絶対にクリスマスパーティーに行くな 赤いハイヒールもう履くんじゃない 狙われている」
この手紙を玄関のポストに入れておこうと近づいた時、静かに玄関のドアが開いた。
まりあのシルエットが見えた。
慌てて手紙を足元に投げ出して俺は走った。
「待って」
後でまりあの叫ぶ声がした。
一瞬足が止まったけど、再び走り出した。
今更俺の名前を告げてどうなる、俺は首を振って走り出した。
「お願い待って」
さらに、大きな声で、まりあがそう叫んだ。
俺は背中を向けたまま立ち止まった、というか足が動かなかった。
まりあが俺に追いついた。
「こっち向いて、誰なの?」
後で、メモを開く音がした。
「なんで私が狙われていることを教えてくれたの?誰に聞いたの?」
俺は何とか足を前に動かし、顔を背けたまま岩山の方へ向かおうとした。
その時、まりあが俺の前に回り込んだ。
そしてまっすぐな瞳で俺の目を見た。
「……海斗?」
俺は顔を背けた。
「やっぱり海斗だよね、あの頃とおんなじだもん。
このもじゃもじゃの髪、なんで顔背けるの?」
「俺お前に合わせるような顔なんてない、まともに生きてこなかったから。
ごめんな。
こないだはお前って知らなかった……手荒な真似して本当にごめん」
「生きて来れなかったって……何があったのみんなは?シスターたちは?
元気にしてる?
ずっと会えなかったから。連れてってよ海斗」
俺は目を閉じ、涙が出そうなのを抑えて首を横に振った。
みんな爆発で死んじまったなんて、マリアに言えるわけない。
俺の顔を見て、まりあは何かを察したのか。
「シスターたちに何かあったの?」
「まりあごめん、俺もう行く」
まりあは俺の手をきつくつかんで離さなかった。
まりあの爪が俺の手に食い込んだ。
「お願い、海斗。
私に本当のことを教えて欲しい。どんなことでも受け止めるから」
まりあの悲痛な叫びに、俺は口を開いた。
「……まりあが兄さんと去ったあの日、愛の家が火事になって、シスターたちも、子供たちもみんな死んじまった。俺だけが生き延びちまった。
まりあはしばらく固まったように呆然としていた。
そして、座り込み砂浜の砂をつかんで握り締めた。
大きな両眼から溢れた涙が砂を濡らした。
「全部私のせいだよ。
私が目的なのに、またみんなを巻き添えにしちゃったんだもん。
みんな本当にごめんなさい。私のせいでどれだけの人を犠牲にしてきたことか。
海斗、いっぱい辛い思いしたんでしょうごめんね。ごめんね。ごめんね。
どれだけ謝っても謝り切れないよ」
まりあは頭を地面に擦りつけた。
俺なんでしゃべっちまったんだろう。
俺はまりあの体を起こしながら抱き寄せた。
「まりあお前のせいじゃない!
お前もみんなも悪い奴に巻き込まれてるだけなんだ」
俺はその言葉を口から出すのが精一杯だった。
俺が守ってやる!心の中では思ったけど、言葉は出てこなかった。
でもどうしてもまりあに伝えなきゃいけないことがあった。
まだ命を狙われてるってこと。息が苦しくて声にならなかったけれど、何とか絞り出した。
「まりあ、お前はまだ命を狙われている」
俺の体の中から力がストンと抜けたようになった。そして俺は動けないでいた。
まりあは俺の両腕を掴み、力からいっぱい握ってきた。
細く小さな手だけど、すごい力だった。
「私……誰に狙われてるの?」
「ごめんまりあ、俺も兄貴達から指示されているだけで本当の雇い主は誰なのかわからない。ただわかる事は、クリスマスイブの日お前の学校でお前を拉致することが計画されてるって言うことだ。だから絶対に行かないでくれ。
それと……その赤いハイヒールまだ履いてるんだなぁ……お前ちっとも変わってない。
そのハイヒールを目印に奴ら襲ってくる。だから、絶対に学校に行くな、ハイヒールもはいちゃダメだ」
「海斗こそ大丈夫なの?私に話したこと、上の人にばれたらまずいんじゃないの?
私は大丈夫だから。
でも海斗、そんな悪い奴といつまでも一緒に行ちゃダメだよ」
なんでお前はこんな時まで俺の心配なんかしてるんだ……こんなバカな俺の。
俺はまりあの肩にかけていた手を解き走り去った。
「これでお別れじゃないよね!」と後でマリアが叫ぶ声がした。
俺は口の中だけでごめんと叫んだ。
私は海斗が二度家に来たことを兄には言わなかった。
心配させたくなかった。
そして何事もなかったように、毎日学校に通い、クリスマスイブの朝がやってきた。
昨日からの雪がまだ残っていて、いつもなら黒い岩山が、今日は白くキラキラして静かな朝だった。
真っ白なタートルネックとネイビーのコートにフィットしたジーンズを合わせ、両足に赤いハイヒールを滑り込ませた。
海斗せっかく教えてくれたのにごめんね。
私やっぱりこの靴を脱ぐことはできない。
今日で終わらせる。何があっても。
もうお兄ちゃんも海斗も、私の不幸に巻き込ませないから、私が全部受け止める。
そう決めたから。
私が学校に行く日は、いつもお兄ちゃんに学校の前まで車で送ってもらう。
この日も学校の前で車を降り、お兄ちゃんに行ってきますと手を振った。
いつも朝9時までここに着いているけれど、今日はパーティーだから夕方の5時に集合だけど、私は準備の都合で一時間早く学校に着いた。
私の学校は、駅からほど近い場所にあるガラス張りの五階建てのビル。
中は五階まで吹き抜けになったホールで、上の階から一階を見下ろすことができる。
ビルの中にはクリスマスを祝う垂れ幕やリボンがぶら下がり、所々でガラスのライトが点滅している。
クリスマスの飾り付けが、建物のガラスに反射し、雪が積もった北国の夕方の道路にまで華やかさを移し出していた。
ビルのドアを開けると中から一気に楽しそうなクリスマスソングが溢れる。
私はすぐに担当するイベントの準備を始めた。
会場の中央には白いステージが作られていた。
俺はまりあと再会してから黒幕が一体誰なのか、一人で調べていた。
そしてネット検索しある記事を見つけた。
そこには十三年前の事件のことが書かれていた。
『クリスマスイブの家族の楽しい時間が一転、サンタクロースから渡された風船が爆発、家族三人死亡。』と書いてあった。
そしてそこに書いてあった名前はまりあの父と母と兄。兄誠也は死んでいる⁉︎
じゃああの男は誰なんだ?何の目的でマリアと暮らしている。でもまりあは兄貴が迎えに来て愛の家を出て行ったとシスターが言っていた。
誰が敵で誰が味方なのか、黒幕は誰なのか?いつになったら終わるのかますますわからなくなった。
だけど、必ず俺が終わらせてみせる。
最後の黒幕に行き着くまで、俺が必ずまりあを守る。
迷ったけど、昨日の夜、鎌田さんと翔也に頭を下げ、今までのまりあとのことを全部話した。
そして明日計画をやめてほしいと頼んだ。
無理だとは、わかっていた。
だけど、これ以上裏切るわけにはいかねぇ。
「いくらお前の頼みだからって、黒岩の兄貴を裏切ることはできねぇ」
鎌田さんがそう言った。
横で翔也が鎌田さんを見て、悲しそうな顔をしていた。
その後、「黙って俺と翔也を裏切ることだってできたはずだ」
そう言って、鎌田さんは俺の顔を見た。
「海斗君はそんな人じゃないっすよ」
翔也が、涙声でそう言ってくれた。
俺は土下座して、頭を地面に擦りつける以外何もできなかった。
「海斗、俺と翔哉は黒岩の兄貴の決めたことを実行するだけだ。だけど、お前はお前の好きにやれ。
守りたい子がいるんだろ。
これは独り言だけど、神奈川のほうのとある研究所に連れて行くように言われてる、その場所は明日指示が来るからまだわからない、あの女の子をその研究所に届け終えたらミッションは終わりだ。後のことはわからない。
じゃあ元気でな、黒岩の兄貴にはミッションが終わった後で、いなくなったとだけ伝えておく」
俺は深く頭を下げ、ホテルの部屋を出た。
ドアのところで、翔也が小さな声で「俺たちに負けないでください」と言っていた。
俺はその日から一人、インターネットカフェを転々とした。
そして、クリスマスイブの日が訪れた。
俺はタクシーに乗り、まりあの家の方へ向かった。
十二月の海辺の町は、風が突き刺さるように冷たかった。
林を抜け、岩山を登り、まりあの家へ向かった。
家の中を覗いてみたが、人気がない。
戸惑いはなかった、玄関のインターホン鳴らしてみた。
応答はなかった。
まさか学校に?あれほど行くなと言ったのに。
午後三時を少し過ぎていた
ここから学校までは車で40分ほどだ。
防砂林の向こうの大通りに戻りタクシーを拾った。
車は金沢駅を目指した。
駅の東側の大通りを北に500メートル過ぎたあたりにまりあの美容学校がある。
いつもなら空いているこの道が今日は混み合って動かない。
ここにまりあが通っているとわかった日から何度か通った道だ。
俺は駅を過ぎたあたりでタクシーを降り、学校に向かって走っていった。
一歩遅かった。
学校の前に車が停まり、まりあが降りて来るのが見えた。
そしてそのまま学校のビルに入っていった。
運転しているのはあの男だ。
まりあを下ろしUターンして反対側の車線にやってきた。
俺は慌てて車と車の間を抜け、まりあの兄を名乗る謎の男が運転する車の前に飛び出した。
急ブレーキをかけた車は停止し、中から男が降りてきた。
俺は心の中で叫んだ。「やってやろうじゃないか!」
男は優しく「大丈夫ですか?病院に行きましょう」と言った。
俺の予想とは違う男の声にちょっと戸惑った。
いい奴か?。
油断した次の瞬間、男は俺の両腕を掴み、車の後部座席に押し込んだ。
そして、布のベルトみたいなもんで、俺の後ろに回された両腕を縛り上げた。一瞬の出来事だった。
あまりにも鮮やかすぎて、何も抵抗できなかった。
情けなかった。
男は車のドアを閉め、俺の上に乗かかって、首元をすげえ握力でつかんできた。
俺より一回り大きい男に乗られた瞬間、窒息死するんじゃないかと思った。
男は叫びながら空いた方の手で、殴りかかってきた。
俺はまともに顔にパンチを食らわないように必死で抵抗した。
「お前何者だ、まりあに手出しさせないからな!」
男がそう叫んだ。
「お前こそ何者だ?俺がまりあを守ってやる!お前たちみたいな悪い奴から」
俺は締められた喉元から必死に声を絞り出した。
一瞬男の手が止まった。
「俺はまりあの兄だ。お前に何の関係もないだろう」
「笑わせんなよこの嘘つき、まりあの兄貴は13年前にとっくに死んでんだよ、この嘘つき野郎」
その時、男の押さえつけていた手が緩み、明らかに動揺しているのがわかった。
「放せよ!俺はなぁ、まりあと同じ施設にいたんだ。まぁ兄弟みたいなもんだ……。ある日、兄貴ってやつが来てそれっきり。
その後施設は爆破された俺はずっとまりあを探してた。
だけど、見つけることができなかった。
………もう忘れようそう思いかけた時、まりあに再会することができた。
皮肉にも、俺のボスのターゲットとして」
男の首元をつかむ男の手の力が再び強くなった。
「ばか、ちげえわ、やめろよ!俺がまりあに危害を加えるわけないだろう。
なんとしても助けたいんだ。
まりあは俺の妹みたいなもんなんだ。
血はつながってなくてもなぁ……同じ施設で育った家族なんだ、お前と違ってな」
男は急に脱力し、弱気な顔になったあと、青ざめた顔で俺の目を見ながら行ってきた。
「まりあには黙ってて欲しい。
絶対に」
「は?何都合の良いこと言ってんだよ」
男は俺の上から降りて座席の下にうずくまった。
「すまない、本当にすまない、でも聞いてほしい。
俺はあの日、アルバイトで雇われた、ただ風船を配るだけと。それがあんなことになるなんて」
海斗は、男が下を向いている間に縛られていた紐を解き、男の胸ぐらを掴んだ。そして殴ろうとした。
男は逃げようとせず、目を閉じた。
海斗は、男の真剣な顔を見て、振り上げた拳を下ろした。
「一生かけて償っていくつもりだ。だからもう少しだけ内緒にしておいてほしい。
まりあが本当に幸せになるその時まで見守っていきたいんだ。
お願いします、勝手なことだとわかっています、どうかお願いします」
男は車の底に頭を擦りつけた。
勝手なこと言いやがって、俺は馬鹿だから頭が混乱した。
こいつは本当にいいやつなのか?それとも俺を騙してるだけなのか?
……だけど、俺も………ボスから拉致して来いって言われた相手がまりあだと知らずに、大きな間違いを犯すとこだった。
まりあを傷つけるとこだったんだ。
この男も俺もそんなに変わらねぇのかもなぁ。
「お前のこと信じてみるよ……まりあを苦しめる本当に悪い奴、そいつを見つけなきゃ終らねぇんだきっと。
ああっ、こんなことしてる場合じゃねー行かなきゃ!
あんたまりあから何も聞いてないのか?」
「えっ?」
「今日はあの学校が狙われてるんだよ、だからまりあに赤いハイヒールを履いてこないようにって言っといた。
奴ら目印にしてるから、さっきは車の影で見えなかったけど」
男は青ざめた顔で、首を横に振った。
「履いていた、赤いハイヒール……」
「急ごう!」
俺は叫んだ後、男の車の運転席に乗り込み、助手席に男が乗り込んで猛スピードでUターンし学校を目指した。
私が緊張と楽しさがごじゃまぜになった中で、パーティーが始まった。
会場の中央にはステージが作られ、一組目のグループがバンド演奏を終えた頃には大盛り上がりだった。
いよいよ次が私の出番。
ステージで十二人のモデルがそれぞれ個性的なファッションで登場し、その服に合わせた髪型をカットやセットで作り上げると言うイベントだ。
制限時間は十五分、出場が決まってから、この一ヵ月ハサミを早く動かす練習を猛特訓した。指にはたくさんの豆ができた。
どんな服装にどんな髪型が合うか、常に流行を意識しなければならないけれど、私が外を自由に歩きまわると、お兄ちゃんが心配するから、SNSが唯一の新しい情報を得る方法だった。
いつか私も新しいことを発信できる人になりたい。
そんなふうに考えるようになっていた。
「じゃあ今から15分間、くじ引きで選ばれたモデルのところに行って始めてくださーい、よーい、スタート!」
よし、ちょっと思ってたモデルの感じとイメージが違うけど、どんなモデルでも対応できるように練習をやってきたつもり、彼女の新しい一面を引き出してあげるから。
私が担当することになったモデルは、隣のクラスの、丸顔で色白で背の高いちょっと痩せ気味の女の子。
今日もいつものように黒ずくめのロッカーのような服装。
名前はみんなから真子って呼ばれてる。
私が選んだのは、真っ白な髪のロングヘアのウィック。
頭の上で、無造作に1つにまとめ、そこからのびた長い髪を自由に遊ばせて、ボリューム感を出し、連獅子のように肩に垂らした。
周りの子たちも、それぞれ個性的で斬新なクリスマスパーティーらしい髪型でイベントは盛り上がった。
どの髪型が一番良かったかは、七人の審査員の先生の投票で決まる。
私の隣の五番の男子はこのスクールでも有名な子で、海外のコンクールにも入賞したことがあるって聞いてる。
私の二つ隣にいた女子の作品もすごい反響だったから、もう終わりかなと思ってたけど、準優勝ゲットすることができた。
優勝はやっぱり隣の五番の男の子だった。
一年生で入賞したのは私だけだった。
自分の出番が終わり一位になれなかったのは悔しかったけど、思い通りの作品ができて、私はほっとしていた。
音楽がヒップホップ調に変わり、照明がミラーボールになってダンスタイムが始まった。
ダンスなんて踊ったことないし、こっそり抜け出そうかなぁ……そう思いかけた時、誰かが私の手を引いた。
「まりあどこへ行くの?踊ろうよ!まりあのおかげでこんな可愛い髪型になったんだから!」
私のモデルになってくれた真子だった。
「私踊れないんだもん」
真子の耳元でそう言ったけれど、大きなボリュームの音楽にかき消された。
仕方ない……そう思って、周りの女の子たちを見よう見まねで体を動かした。
「めっちゃうまいじゃん」
真子が言ってくれた。
真子がこっそり持ってきたハイボールの缶を飲みながら、激しく踊りまくる。
「これ先生に見つかったら、大目玉だよ!」
そう言う私に真子はお酒が回ったのか、ゲラゲラ笑い出した。
そしてふらついて足元がもつれ出した。
私は真子の肩を抱き、ホールの裏の通路の椅子に座らせた。
その時、誰かが私の手を強く引っ張った。
「ちょっと待って痛いよ!」
振り返ろうとした時、私は誰かに口を塞がれ、そのまま廊下から学校の裏口へ連れていかれた。
出口には、黒いバンがベタ付けされていて、私はスライドした後部座席のドアから押し込まれ車は急発進した。
俺たちの車がまりあの会場へ近づいた時、横浜ナンバーの黒いバンが学校の左横の道から急発進していくのが見えた。
しまった。遅かった。あの車だ。
車は右折して対向車線に入り、俺たちが来た方向に猛スピードで走り去った。
俺たちは慌ててUターンし、車を追いかけた。
運転席に翔也の姿が見えた、まりあを捕まえているのは、どうやら鎌田さんだろう。
まりあを乗せた車は、北陸自動車道に入り、関越自動車道へと走っていった。
「くそ、あいつら、どこへ行くつもりだ」
と、まりあの兄と名乗る男が叫んだ。
「神奈川方面に向うってことだけはわかってる、とにかく今は跡をつけるしかない」
俺はアクセルを踏みながらそう言った。二時間以上走り続け練馬インターで高速を降り地道を走ること二十分、何度か見失いそうになりながら追いかけた。
高速を運転しながら、まりあの兄と名のる男が本当は、村井一樹と言う名前だと言うことを聞いた。
鎌田さん達が俺たちに気づいているかどうかわからない、でも今は追いかけるしかない。
翔也は頭が悪いけど、運転はプロ並みにうまい。
気づけば、人里と離れた木々に囲まれた林の中だった。
急に現れた巨大な建物、自動で大きな門が開き、車は高い塀に囲まれた中へ入っていった。
ドアは自動ですぐに閉まった。
俺たちは監視カメラに気をつけながら車を停め、入り口を探した。
高い塀を村井に肩車してもらい、中を覗くと、まりあが車から降ろされ建物のほうに連れて行かれるのが見えた。
黒岩の兄貴の指示通り、顔には紙袋がかけられていた。
まりあ、ごめんな、今助けてやるからもう少しの我慢だ。
塀のあちこちには監視カメラが備えられてあった。
村井と監視カメラのないところを見つけ、車を横付けにし、車の屋根から建物の中へ飛び降り塀を超えた。
村井がなぜか、寒気がしたので、俺のダウンを貸してほしいと言った。やつは薄いトレーナー1枚だった。
俺は上着持ってないのかよと言いながら、しぶしぶ村井にダウンを渡した。
二人で入れそうな場所をキョロキョロと探す。
俺に「気をつけて」と村井が言った。
のんびりしてる時間はない。
着ていたカッターシャツを脱いで落ちていたけ石ころを丸めて包み、ライターで火をつけ、窓に向かって投げつけた。
窓ガラスが割れしばらくすると、中から炎が燃え上がった。
思っていた以上の大きな炎に俺はちょっとひるんだ。
非常ベルが鳴り、門が開いて、白い白衣を着た男女や、スーツ姿の男達、作業着姿の男たち、みんなが逃げ場所を求めて飛び出してきた。
どさくさに紛れて、俺たちは建物の中に入り込んだ。
とにかく早くまりあを見つけなきゃならない。
迷路のような建物の中を俺たちは走り回った。
鳴り響く非常ベルと焦げたような臭いと炎。
パニックになり、逃げる方向間違っている人に、出口はあっちですと教えながらまりあを探した。
無関係の人間を巻き込みたくなかった。俺たちが巻き込まれたみたいに。
廊下の奥右側から飛び出してきた人の中に背の高い鎌田さんの頭が見えた。鎌田さんはラッキーなことに俺たちに気づかず、逃げて行くたくさんの人たちと一緒に中庭の方に走っていった。
中庭の方を見ると、翔也が心配そうに中を覗いている姿が見えた。
「あっちだ!」
俺は村井に声をかけ、廊下の奥を右に曲がった。
焦げ臭い匂いと煙が充満してきた。
警告音が鳴り響いている煙のせいで視界が悪い。
廊下を曲がった突き当たりはさらにT路になっていた。
右に行くのか、左に行くのか迷っていると、左の突き当たりに赤いハイヒールが転がっているのが見えた。
「今助けてやるから」
俺は叫びながら走った。
ハイヒールが落ちている場所に近づくと、その前の部屋のガラス越しに椅子に縛られ、紙袋をかけられたままのぐったりしたまりあが見えた。
白衣を着た白髪の男が手に注射器を持ってまりあに近づいている。
俺はドアを開け、部屋に飛び込み、白衣の男を蹴飛ばした。
白衣の男は倒れ込んだ。
村井がまりあの縛られている紐を解いて、かぶせられていた紙袋を取ってあげた。
まりあは息をしているが、眠っているように動かなかった。
俺たち二人でまりあの肩を抱え出口の方を目指した。
「逃すわけにはいかないんだ。その女を返せ!」
床に倒れたまま、老人が絞り出した声で叫んでいた。
俺たちは部屋の外へ飛び出した。
廊下を歩いている時、まりあが目を覚まし、俺たちの手をすり抜け、フラフラしながら元来た廊下を戻ろうとした。
「まりあどこ行くんだ!」
と、俺は叫んだ。
まりあは床に落ちていた片一方のハイヒールを拾うと、気を失って倒れ込んだ。
その時、後ろからあの老人がまりあに向かって襲いかかってきた。
まりあを助けようと、村井がその老人の前に立ちはだかった。
村井はまりあを守るため、老人に体当たりしたように見えた。
老人の手が血の色に染まっていた。
村井が叫んだ。
「早くまりあを連れて行くんだ」
俺は一瞬迷った、でも二人も抱きかかえて脱出することは不可能だった。
村井はもう一度俺に大声で早く行け!と叫んだ。
俺は決断した、辛かったけど、まりあを抱きかかえてその場を走り去った。
建物の外に出て車の所まで戻ると、火の手がさらに大きくなり、建物が崩れ落ちるのが見えた。
私は目が覚めると自分の部屋のベッドの中にいた。
カーテンの隙間から漏れる光が眩しく頭が割れるように痛かった。
そうだ私は知らない男たちに拉致されたんだった。
変な液体を飲まされて、眠くなって……そしてその後どうなったんだろう。
お兄ちゃんはどこ?
私は慌てて体を起こした。
体中の関節が悲鳴をあげた。
ベッドの横の椅子と壁に助けられながらドアを開け、何とか階段を降りた。
リビングの椅子、お兄ちゃんがよく仕事から帰ってきて、疲れてうとうとしてしまう場所になぜか、うつろな目をした海斗が座っていた。
お兄ちゃんの姿は見えなかった。
「海斗お兄ちゃんは?」
海斗は眠っていたのか驚き、ウォーッと声を上げて私の方を見た。
「目覚めたのかやっと。
ごめん、すぐ出てく。お前が目覚めるまで心配だったから」
立ち上がって、玄関のほうに行こうとした俺をまりあが引き止めた。
「行かないで。
ねぇ、お兄ちゃんはどこ?知らない?」
その時の海斗の悲しそうな顔を今でもはっきり覚えてる。
「お兄ちゃんに何かあったの?」
海斗は黙ってうつむいた。
「まりあなんで赤いハイヒール履いて行ったんだよ…あれだけ言ったのに」
「ねぇ教えてよ、何があったの?」
海斗は両手で自分の顔を覆った。
そして、ポツリとつぶやいた。
「ごめん助けれなかった」
……お兄ちゃんは?
死んじゃった?
うそだ…。
「海斗冗談やめてよ」
海斗は首を横に振った。
嘘だと思いたかった……。
「私のせいだ、きっと私のせいだよね」
「違うそうじゃない。お前の命を狙ってたやつは村……いや、お兄さんが命がけで始末した。
お前を狙ってた、あいつらが悪いんだよ、まりあには何も責任は無い」
海斗はそう言った。
「私だけが死なずに、ずっと生きてる。どうして?私なんか居ないほうがみんな幸せになれたはずだよ……。
私の大事な人はみんな死んでしまったのに……」
途中で涙声になって、息が詰まって、私はしゃくり上げた。
海斗が背中をさすってくれた。
自分の弱さが情けなかった。
俺は見守るしかなかった。あの海辺の小さな家で。
夜は防砂林の前に停めた村井さんの車で寝起きした。
あの研究所が火事で燃え落ちたことをニュースで見た。
研究所の人たちは、全員無事が確認されたが、身元のわからない男性の死体が黒焦げの状態で見つかったと書かれていた。
警察は燃えずに残っていた死亡者のダウンジャケットをテレビで公開して身元情報を探していた。俺のダウンだった。
そのおかげで、俺は黒岩の兄貴の報復を受けることはなかった。
もしかしたら、村井さんは初めからそのつもりだったのか……今となってはわからない。
まりあに注射を打とうとしていた研究所のあの老人も、あの場所で亡くなっていたはずなのに、なぜか死亡者のリストに載っていなかった。
相変わらず昼はまりやの家で過ごし、夜は防砂林を越え、車の中で寝起きする。
もうあの日から半年近く経っただろうか。
季節は梅雨を迎えていた。
そんなある夜、俺が車の中でうとうと仕掛けた時誰かがドアをノックしてきた。
真っ暗で見えなかった。よく見ると、まりあが立っていた。
まりあはドアを開け助手席に乗ってきた。
「いつもここにいるよね?朝も夜も。
もしかして、私のために?」
「ちげーわ、家に帰るのが面倒なだけだよ」
「今まで私を守ってくれてありがとう。
私一人が悲しいみたいな間違いしてた………海斗だってあの施設がなくなって、苦労したんでしょう、その事知ったのはずっと後だったから」
「苦労なんかしてねぇ、ただお前がいなくなって寂しかっただけだ、でも、こうしてまた会えたじゃねぇか」
「私ね、訂正しなきゃならないことがあるの、私の大事な人はみんな死んでしまったって言ったけど……違うかった。
海斗が生きてくれてる」
そう言いながらまりあは俺に抱きついてきた。
あんまり強く抱きついてくるから、やめろよ!って思わず言ったけど、ほんと嬉しかった。
俺は我慢できず声をあげて泣いてしまった。愛の家で支えあって生きていたあの頃を思い出した。
まりあは次の日から、休学していた美容学校に再び通いだした。
心配だけど、まりあが少しでも元気になって、前向きになってくれればと思った。
俺は村井さんと初めて会ったあの日、まりあを助けに行く車の中で約束したことがあった。
今日はその約束を果たす日。
まりあを連れて彼女の両親のお墓参りに行った。
そのお墓はその時村井さんから教えられていたが、まりあには今日まで教えていなかった。
昔まりあたちが住んでいた街から車で一時間ほど、まりあのお父さんの実家の近く、静岡県の山の中にある。俺はまりあ達家族のお墓の場所をシスターから聞いていた、と作り話をしてお墓へ連れて行った。
まりあは墓石を見てしばらく立ち尽くした後手を合わせた。
その後持ってきた真っさらのタオルできれいに拭いた。
そして、まりあは横に書いてある没年月日を見て、ついに気づいた……兄誠也さんが死んだのは今より14年前だったこと。
「変だよね?」
まりあは俺に尋ねた、俺は首を横に振った。
「そのことで伝えなきゃならないことがある。あの海の家でまりあと暮らしてた、命がけで俺たちを守ってくれた星矢をお兄ちゃんは……
本当は村井一樹って言う」
「何言ってんの」
まりあの大きな瞳の視点が揺れた。
「聞いてくれ、まりあ、俺たちがいた頃より少し前に愛の家に村一樹と言う男がいた。男は高校卒業と同時に愛の家を出たもののちゃんとした仕事につけず頼るものもいなくその日暮らし。
生活に困っていた。ある日ちょっといいバイトだなぁってクリスマスにサンタクロースの服を着てプレゼントを渡すだけで一日五万円もらえるなんてって。
それでイヤホンで指示され、前から歩いてくる家族にプレゼントを渡した。
そしてなぜかそのプレゼントは……爆発し、何がどうなったかわからないまま、その男は逃げた。
男が次の日のニュースで、少女一人だけが、生き残り家族全員が死亡したことを知った。
たとえ知らなかったこととは言え、男は自分が犯した罪の重さに耐えきれなくなった。
生き残った少女を自分と同じ一人ぼっちにさせてしまったことを後悔し、自分の人生の全部をかけて、償おうと思った
なぜ命を狙われたのかはわからない。
でもこの女の子だけは絶対に守る。
そう思った男は生活の準備ができたのを機に、兄と偽ってお前を引き取り、自分の命にかけても大切に育てると誓ったんだ」
俺は勇気を出してまりあの顔を見た。
まりあの左頬を涙がすーっと落ちていった。
「まりあ、村井さんが憎いか?」
まりあは黙ってうつむいて、長い間動かなかった。
そしてその後首を横に振って俺に聞いた。
「お兄ちゃんも愛の家にいたの?」
「ああ、そうだったみたいだ、俺たちより前に」
お兄ちゃんだって被害者なんだよ……一生懸命私のために私なんかのために……憎めないよ。
私にはお兄ちゃんだからずっと」
まりあはそうつぶやいた。
この家で私は今海斗と一緒に暮らしている。
日が沈むのがだんだん遅くなり、やがて海辺の家に夏がやってきた。
今までお兄ちゃんがいた部屋が、海斗の部屋。
海斗は近くの漁港で働き、私は専門学校に行きながら、家の近くの美容院で見習いとして働いている。今までのことが嘘のような平穏な日々だけど、私の心の中に引っかかっているものがある。
どうして私たちは命を狙われたのだろう。
あんなに大勢の人たちを犠牲にしてまで私に死んで欲しかった理由は何なんだろう。
私は日増しにそのことへの疑問が大きくなっていった。
ネット検索したりしたけれど、なかなか真実にはたどり着けなかった。
私は学校の帰りに図書館に寄って、あの頃の記事を調べていた。
海斗には内緒にしておこう。もう巻き込むのは嫌だ。……誰1人も。
日曜日のお昼寝が長すぎたせいか、私は月曜日の朝4時に目が覚めてしまった。
学校のために起きるのにはまだ二時間以上早い。二,三日前から急に思い出したことがあって気になっていた。
調べてみようと思った。
お父さんが研究所にいた頃、一緒に働いていた何人かの人たち、もしかしてその人たちだったら何かわかるかもしれない。
お父さんが働いていた研究所に行ってみよう。
でもどこだか思い出せない。
私はキッチンでコーヒーを飲みながらパソコンで検索した。
夢中で検索しているうちに、窓の外がぼんやり明るくなってきていた。
何も手がかりを見つけられないまま、私は学校へと向かった。
その日の夕方、私が学校から戻ると、海斗はもう帰宅していて夕飯の支度をしてくれていた。
今日は海斗が最近作れるようになってはまっている魚介カレーだった。
いつも先に帰った方が買い物に行き、食事を作ることになっている。
私はスマホとにらめっこしながら料理を作るからほぼ理科の実験状態。味のほうは……。
ダイニングテーブルの上にスプーンとフォークを並べた。
「気になっているんだろう、あの白衣を着たおじいさんが、なんでまりあの命を狙っていたのか」
海斗がカレーの味見をしながらそう言った。
私は素直にうなずいた。
なんでわかったんだろう?パソコン消し忘れてた?
「私たちお父さんもお母さんも兄ちゃんも絶対に悪い人じゃないし、なんでなんだろうって思ってた。もう命を狙われる事はなくても、その原因が何かを知りたい……でも海斗を巻き込むの嫌だから関わらなくていいよ」
「ばーか、俺とお前だって家族だぞ。巻き込むとか巻き込まないとか関係ねえんだよ。
でもなぁ、もう終わったことなんだ……忘れたほうがいい、悪い奴はいなくなったんだから、前だけを見て生きていこうぜ」
「ありがとう。海斗」
私はうなずいた。
カレーを食べ終わった後、私は思いついた!
家族写真を撮ろう
「ねぇ海斗、家族写真撮ろうよ」
私がダイニングテーブルの上にスマホをタイマーにセットして、マグカップで倒れないように支えた。
そして急ぎ足でカメラの前でポーズを作った。
大げさなポーズを撮った海斗のせいで、テーブルにあたってやり直し。
今度は海斗がセットした、時間があまりすぎて、もう一回スマホのカメラを覗いて私が写ってないし。
今度は、私がスタートボタンをして、三度目にしてやっと家族写真の出来上がり。
私たちは、お互いのスマホを見ながらアイスコーヒーを飲んだ。
「家族写真って生まれて初めてだよ」
海斗が、クッキーを一つ口に入れた後、ポツリとそう言った。
そのあと私と海斗は、もっともっといっぱい家族写真を撮ろうって言うことになって、いろんなポーズをしたり、変顔をしたり、それをまた編集したりして遊んだ。
「海斗最初に私を笑わせたの覚えてる?」
「えっ?」
「すっごい変顔だった」
うつむいた海斗が顔を上げて、あの時の変顔をした。
やっぱり最高に笑っちゃう。
「私ね幼稚園の入園式の集合写真、ふざけて変顔してて、お母さんががっかりしてた」
海斗が笑った後、まじな顔になった。
「写真とかアルバムは残ってないの?」
「お父さんとお母さんたちの?」
海斗はうなずいた。
「ああ……愛の家を出る時、私の荷物は段ボール一箱だけだった。中には着替えぐらいしか入ってなかったと思うけど」
「写真見たら、本当の兄貴じゃないってことばれた可能性もあるしなぁ……アルバムなんか残ってないだろうなぁ……」
「もしかしてお兄ちゃんが隠してたかも?」
「その段ボールどこにある?」
「う……ん段ボールの箱の1番上に置かれていたお気に入りの熊のぬいぐるみを取った後、お兄ちゃんはその箱をどこかに持っていったわ。
そうだ!海に雪が降ったすごく寒い日、私がニット帽をどっかになくしちゃって探してた時、確か…… 二階の廊下にある小さなクローゼットの一番奥で、あの段ボール箱を見たような気がする。
海斗と私は二階の廊下へ急いだ。
おぼろげな記憶は正しかった。
クローゼットの一番奥からほこりとカビ臭い匂いと一緒にアルバムが現れた。
こんなのいつ愛の家に届いたんだろう。
今となっては聞く人もいない。
表紙に大きな青虫とキャベツの絵の描かれたアルバム。
その青虫もぼやけてキャベツが雲みたい。
開けるのはちょっと怖かった。
戸惑っている私に海斗が行った。
「俺が見ようか?」
「大丈夫、大丈夫」
呪文のように唱えてそっと開いてみた。
お母さんに抱かれた赤ん坊の私がいる。
お父さんに肩車されている私がいる。
乳母車に乗せられた小さな私を押している男の子はお兄ちゃん!
家族四人で映った写真、確か家の近所にあった神社、初詣かな?
アルバムをめくると、当時住んでいた私たちの家のダイニングで楽しそうに食事をしている写真。
テーブルの上にはおせち料理が並んでいる。
お母さん、お父さん、お兄ちゃん、私、そしてもう一人、お父さんよりは、かなり年下に見えるメガネをかけた長い髪を1つにくくった男の人がいた。
その人になんとなく見覚えがあった。
私の記憶の中では、いつもお父さんと同じ白衣を着ていた。
……確かお父さんの大学で一緒に研究をしていた人?
私は、その人を指差した。
海斗がその写真を覗き込んだ。
私は海斗に行った。
「この人お父さんの研究の助手をしてた人じゃないかなぁ?」
「お前の父ちゃん何の研究してたんだ?」
「それはわからない」
アルバムの中には、お父さんとその人が二人で写っている写真もあって、二人とも白衣を着ていて、よく見ると胸に鳥居と名札がかかっていた。
「会いに行ってみよう!」
海斗もうなずいた。
お父さんの勤めていた大学病院は私の記憶では西新宿駅の近くだった。
大学病院の名前はもう忘れたけど、西新宿駅付近を調べているとすると、私の記憶が蘇った。
道のあちこちにうっすらと見覚えがある。
途切れ途切れの記憶をたどって歩いた。
建物はもうほとんど覚えていないけれど、道のカーブしているところ、三叉路になっているところを思い出しながら歩いた。
海斗はただ黙ってついてきてくれた。
記憶が途切れて時々足が止まる。
私に焦らないでいいからと声をかけてくれた。
途中で全くわからなくなり、同じところを何度か回っているじゃないか.って思い始めてた時、大きな建物の前にたどり着いた。
その時14年前の記憶が蘇った。
「ここだ!」
この広い敷地の中で、お父さんをは働いていたんだ。
私の顔が確信に変わったことに海斗が気づいたみたいで、ふーっとため息を一つついた。
敷地の中に、大学と大学病院と研究所とと書かれた3つのプレートが貼ってある。
お父さんの働いていた場所は、大きな中庭を超えたところにあったような気がする。
入り口の門はガードマンがいて入れそうになかった。
敷地の裏手に回ってみた。
塀が高くて中が見えなかった。
海斗が肩車するからってかがんだ。
「私、何キロだと思ってんの無理だよ」
「うーん100キロ」
「バカッ」って言った後、履いていた赤いハイヒールを脱いで、海斗の肩に両足をかけた。
私の全体中にちょっと凹んだ感じがした。
海斗の背中が必死でバランスをとりながら立ち上がった。
大きなガラス張りの廊下があり、その向こうの部屋の中に人影が見えた。
「やばいっ」
大きな体つきで、白衣を着たギョロ目のおじさんは、気づかなかったようで通り過ぎた。
「ふぅ〜」
安心した時、そのおじさんが戻ってきた。
緩んだ緊張が再び固まって、私の体のバランスが保てなくなった。
私と同時に、海斗もバランスを崩し、二人とも折り重なるように地面に叩きつけられた。
「大丈夫か?」そう言ってる海斗の方が辛そうだった。
地面に倒れたまま顔を上げて私の心配をしてくれてる。
私はちょっと痛かったけど、寝転がったまま「ノーダメージ」って言った。
もう一度肩車してもらう勇気はなかった。
とにかく違う作戦を考えよう。そう思って、脱ぎ捨てたハイヒールを履こうと手を伸ばした時、知らないおじさんが私のハイヒールを握り締め、じっと眺めていた。
「変態!」
そう叫んで、お腹に一発蹴りを入れた。
禿げ上がった頭のその男は倒れ込んだ。
私は返せと言いながら取り上げた。
男はごめんなさいと言いながら変態じゃないんです、と身を守るような仕草をしながら、かすれた声を絞り出した。
海斗はただ目を丸くして見ていた。
私はハイヒールを履きながら、男の全身をにらみつけた。
「ちょっと思い出したことがあって見てしまいました。すいません」
「そんなの変態が使う常套句だから!」
怒りが収まらない私に海斗が割って入った。
「……もしかして赤いハイヒールのことですか? その、思い出したことって?」
「いえ、あぁそうですけど……遠い昔の話です。
それも大人用のじゃなくて子供の赤いハイヒールでした」
男はまりあにまた蹴りを入れられるんじゃないかと思っているのか、怯えた様子で立ち上がり、私たちに一礼した後立ち去ろうとした
私と海斗は目を合わせた。
私は今まで気づかなかった、胸の名札に鳥居と書かれていた。
「ごめんなさい、手荒な真似して」
海斗がおじさんの体についた土ほこりを払っていた。
私は裏返った声で言った。
「門倉です、門倉まりやです」
おじさんはその後「えっ、まさか……まりあちゃん?」とかすれた涙声でつぶやいていた。
私がうなずくと、おじさんは「よく生きていてくれましたね」と言い、そして泣きながら笑っていた。
私と海斗は肩車をすることなく、おじさんの働く研究所に入ることができた。
私は若い日の鳥居さんの面影を思い出した。
あの頃ふさふさだった一つにまとめられた髪が、今はすっかり少なくなっていた。
研究所の中の部屋に入ると、たくさんの見たことのないような機械が並べられていた。
おじさんは折りたたみのパイプ椅子を並べてくれた、私たちはおじさんと向かい合って座った。
「私は鳥居拓哉と言います、20年前まで門倉先生の下で駆け出しの研究員の一人として働いていました。
先生は私のような駆け出しの物にも暖かく指導してくださいました。
私が家族への仕送りのためいつも苦しい貧乏生活をしていることを知って、先生はよくご自宅のほうに誘ってくださいました。
先生のご家族と一緒にいただく夕飯はとても楽しいひとときでした」
私もうっすらと覚えてる、お母さんの作ったお料理、お父さんの笑顔、お兄ちゃんの笑い声……。
「先生が研究の末、ようやく開発されたのがウイルス性の癌を患った患者の癌ウィルスの増殖を止め、死滅させる細胞でした。
先生はその全く新しい免疫細胞をずっとご自分の体で検体し血液に入れておられました。
「父も癌を患っていたんですか?」
「先生は自分の体に癌細胞を取り込み、治験されていました。
先生の熱意と使命感は、普通の人とは違っていました。
ご自分の命をかけることもいとわない本当の医学者でした」
「でも、どうして私たちは命を狙われなくてはならなかったんですか?」
「困る人間がいると言うことですよ」
「じゃあなんでまりあの家族全員が狙われたんですか?」
と、海斗が聞いた。
「多分その答えは、まりあさん、あなたの体の中にあるんじゃないでしょうか。血液検査させてくれませんか?」
私は答えを知りたかったから、素直に応じた。
鳥居さんが私の左腕の内側に太い注射を挿し血液を採取した。
私は痛さを我慢しているのに、なぜか海斗は痛そうな顔をしてた。
結果を待つ間、先生は父と母との思い出やたくさんの写真を見せてくれた。
「あの爆発があった日、実は僕も先生にクリスマスに一緒に食事をしようって誘われていました。でも、偶然妹があの日熱を出して行けなくなって……その後あんなことになってしまって……。
僕が先生を守れたんじゃないかって今でも思っています。
だからあなたのことをずっと探してたんです」
「そんな……生きてくれててよかったです」
私は本心でそう思ったし、その言葉は口から出た。
「さっき私のハイヒールを見て思い出したことがあるっておっしゃってましたけど、なぜですか?あの日いなかったのに」
「僕と先生と一緒に選んだんですよ、まりあちゃんのちっちゃなかわいい赤いハイヒール」
私は驚きと懐かしさと、時間が戻せないことのもどかしさ、その全部がごっちゃになって、海斗の腕をぎゅっとつかんだ。
その時、パソコンから音が鳴って、先生はその前にかけよった。
「……門倉先生!やっと先生の願いが叶えられます」
お父さんの願い?その時は私も海斗もそんな凄いことがおきたとはわからなかった。
「まりあさん、あなたの血液の中にウィルスを閉じ込める最強のウィルスが今でも生きています。
先生はもしもの時のためにあなたに託したのではないでしょうか。
これでたくさんの人を救うことができるでしょう」
その後、もう一度私の血液をゆっくりと時間をかけて、鳥居先生は採取した。
私と海斗が大学病院を出たときには、空はもう薄暗くなっていた。
私たちは鳥居先生に見送られながら、大学病院を後にした。
来た時とは逆に正面の大きな門から堂々と帰った。
海斗の運転でルート17を北上し、海辺の街を目指した。
海斗も私もひどく疲れていたけど、心の中は穏やかな海のように安らかだった。
海岸線を走る車の中から、私たちの住む街の海がここからは微かに見える。
防砂林と岩山を抜け、海辺の家に着いたときには真夜中だった。
私は家に入らず、砂浜に座ってしばらく波の音を聞いていた。
海斗がブランケットを持って家の中から出てきた。
風邪ひいちゃうぞって言ったけど、私はもう少しここにいたいのって言った。
ブランケットを肩にかけてくれて二人でうずくまった。
「誰かを救うこと、お父さんが目指してたこと、叶えれたよ……海斗ありがとう」
海斗のいびきが聞こえた。
もう肝心なとこ聞いてないんだから。
私も海斗の眠気が伝染したのと、波の音が子守唄になって、そのまま眠ってしまった。
海鳥の鳴き声と、強いお日様の光で目が覚めた。
海斗はまだ眠っている。
こんなに眩しくても眠っていられる海斗ってすごいなぁと思いながら、私は海のほうに歩き出した。
履いてた赤いハイヒールの踵が前に進むたびに砂に食い込み重くなる。
右足のハイヒールが砂浜に完全に埋まって動かなくなった。
その時波が押し寄せ、私の足を隠した。
六月の朝の海はまだ冷たい。
そのまま食い込んだ右足を砂浜から上げてみた。
私のところからハイヒールは引き波にさらわれて、戻ったりさらわれたりしながら遠くへ運ばれていった。
私は残った方のハイヒールをつかんだ。
そして、腕ごと飛んでいっちゃいそうな力で海に向かって放り投げた。
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