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◆
店を出る頃には、おれはしたたかに酔っていた。こんなに酔ったのは久しぶりだ。
相当に飲んだはずだが、男は嫌な顔もせず、本当にすべての支払いをした。自分の勘違いに気づく様子もなかった。
さすがに、多少の罪悪感はわく。もう目的は果たしたし、こいつが我に返る前に切り上げて、さっさと帰ってしまうのが賢いだろう。
「じゃあ、おれはこの辺で……」
「待ってください。もう少し飲みましょうよ」
「いや、いいです。もう帰りますよ」
「そう言わず……もう一杯奢らせてください。こっちにいい店があるんですよ」
そう言うと、男は思いのほか強い力でおれの肩を押してきた。押された不快感で、酔いで鈍っていた頭が少しだけはっきりする。
「ちょっと、もういいですって。終電もあるし、もう行きますよ」
「タクシー代も、出しますよ。こっちです、こっち」
乱暴ともいえる強さでぐいぐい押されて、たたらを踏む。いつの間にか、人通りのない路地裏に入っていた。
「おいッ、いい加減にしろ。もう帰るって言ってるだろうが」
「そんな、もう少し話しましょうよ。せっかく久しぶりに会えたんだから。もう、こんな機会ないかもしれないし」
鬱陶しいやつだな。それにすごい間抜けだ。おれは思わず吹き出した。
「バカだな、あんた。おれはあんたの知り合いじゃないって」
「え?」
「だから、人違いだよ。いつ気づくかと思ったけど、こんなに気づかないもんかね。騙したなんて言うなよ。そっちが勝手に人違いしただけなんだから」
笑いながら吐き捨てるように言うと、男は呆けたような顔になった。
今のうちに、と踵を返す。
そのとたん、背後からなにかが勢いよくぶつかってきてよろけた。
ぎょっとして振り返ると、 肩越しに男と目があった。
憎々しげにこちらを睨みつけるふたつの目が、怪しげな光を放っていた。
「なんだよ! そっちが勘違いしたんだろ!」
怒鳴りつけてやると、突然、身体に激痛が走った。
ふっと力が抜ける。立っていられなくなり、その場にへたりこんだ。
「なんだ……?」
なにかおかしい。違和感がある。恐る恐る視線をやると、脇腹辺りがじっとりと湿っていた。赤いそれは、じわじわと広がっていく。
見上げると、男は手になにか、包丁のような、いや、ナイフかもしれない、なにか、刃物を握りしめていた。
刺された?
そう認識したとたん、耐えがたい激痛に襲われる。
「――なに言ってるんだ、とぼけやがって」
呻き声を上げていると、男の無味乾燥な声が降ってきた。
「だから、ちがう、ちがう、人違いだ。おれは、」
唸るように言うと、男は鼻で嗤った。
「なにが人違いだ。あんたはなんにも変わっちゃいない」
「待ってくれ、本当にわからないんだ。人違いだ。おれはおまえなんか知らない」
「なにを言っている、白々しい。あんた、田中だろ?」
「そうだけど、でも」
「どうせおれのことなんか覚えていないとは思ってたよ。でも、いまさら、しらばっくれるのはないだろうよ。そもそも、おれがおまえの顔を見間違えるわけがない」
「だから、勘違いだって、言ってるだろッ」
カッとなって怒鳴ると痛みが増して、ぐうう、と呻く。
逃げなければ。
おれはなんとか立ち上がった。焦りと激痛で脚に力が入らない。ガクッと膝が折れて、再び地面に転がった。
這いずりながら、回らない頭で必死に考える。
なんでこんなことに。人違いなのに。こいつなんか知らないのに……。
チカチカと思考回路が明滅し、なにかが引っかかっているような気がする。だめだ、やっぱり誰だかわからない。
男が近づいてくる。ヒィヒィ、と情けない悲鳴がおれの喉の奥からもれた。
「ゆ、許してくれ」
思わずこぼれた、何の意味もない 謝罪に、男は口元を歪めた。
「なんだ、やっぱり覚えてるんじゃないか」
ちがう、と叫びたいのに、声が出ない。
男が振り上げた刃物が、月明かりに反射してギラリと光った。
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