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「お久しぶりです」
「え?」
仕事帰り、馴染みの店で夕食がてら一人で飲んでいると、突然声をかけられた。顔を上げると、男が一人、笑みを浮かべてこちらを見おろしている。
見覚えのない男だ。だらりとした脂っぽい髪、よれたシャツに地味なジャケットを羽織り、メガネをかけている。歳は、そう離れていないだろう。メガネの奥の目を細め、おれの反応をうかがっているように見えた。
しかし、誰だったか、とんと思い出せない。
「あのー、すいませんが……」
どちら様でしょう、とははっきり聞けずに、語尾があやふやになる。男は驚いたそぶりも、気分を悪くしたそぶりもなく、
「やはり覚えてないですよね。仕方ないですよ、本当に久しぶりですから……。ぼく、サイトウです」
「ああ、サイトウさん……」
そう言われても、やはり思い出せない。サイトウ、サイトウ……だめだ、わからない。
思わず首をひねるおれをよそに、サイトウと名乗った男は歯を見せて笑う。
「そうです。ところで、ご一緒していいですか」
「え、ああ、どうぞ……」
つい、そう答えてしまうと、男は遠慮のない動作でおれの向かいの席に座った。けっこう図々しい。
「いやあ、こんなところで会うなんて本当に奇遇ですねぇ……」
そのままペラペラと話し始める男に、適当に相づちを打ちながら、おれはひとつの結論に至った。
――こいつ、おれを誰かと勘違いしているんだ。
おれは昔から、人違いをされることが多い。これといって特徴のない容姿だからだろう。相手は、大抵はすぐ人違いに気づくのだが、気づかないまま話し続ける人もいた。
こいつはどうだろう。内心面白がる気持ちで、男の様子をうかがう。
「――だけど、田中さん、変わってませんね」
「えっ」
ふいに名前を言い当てられて、ギクリとする。
あれ、まさか、本当に知り合いなのか。しかし、田中なんてよくある名字だ。
サイトウもよくある名字ではあるが、今まで自分の周りにはあまりいなかった。友人にも、同僚にも『サイトウ』という人はいない。少なくとも、こんなに親しげに声をかけてくるような、『サイトウ』という知り合いは、おれにはいないのだ。
「そうだ、ここはわたしに奢らせてください」
「えっ、いやいや、そんなわけには」
「いえ、久しぶりに会えた記念ですよ。遠慮しないでください。本当に、またお会いできてうれしいんです」
男は笑みを浮かべて言った。人違いだというのに、滑稽なことだ。それに、そいつの笑顔の中に、どことなく卑屈さのようなものが滲んでいるのが気になった。なんだか妙に癪にさわる顔だ。
ひょっとしたら、こいつは『田中』の子分みたいなものだったのかもしれないな。そう思うと、目の前の男に対して、嫌悪のような、愉快なような気持ちになった。
今更人違いですとも言いにくいし、このまま適当にやり過ごせば、ただで飲める。せっかくだから利用してやれ。向こうが勘違いに気づいたら、知らん顔してさっさと逃げればいいのだ。人違いも奢りも、向こうが勝手にやったことなんだから。
そう腹を決め、おれは『田中』のふりをすることにした。
とはいえ、たいしたことをするわけじゃない。こちらからはあまり話さないようにするだけだ。相手の話に適当にうなずいていれば、なんとかなる。もし「あのとき、こんなことがありましたよね」なんて思い出話を振られたら、よく覚えてない、などと言ってかわせばいい。
さいわいなことに、男はさっきから一方的に話し続けている。人違いにいつ気づくのか。 そのときは、バツの悪い思いをするだろうが、仕方ない。
男は上機嫌で、おれに酒をすすめた。
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