亡霊が吐き捨てた博愛

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亡霊が吐き捨てた博愛

 久しぶりに、幽霊を見た。  同窓会の帰り、都会の明かりが眩しい夜空を背景に、彼女はそこにいた。  懐かしい紺色の制服に、真っ赤なスカーフ。色が色なだけに、近くをトラックでも通ってライトがギラつけば、すぐにでも見失ってしまいそうだ。 「久しぶり。もう出てこないと思ってた」  白く柔らかそうな肌に、程よく染まった赤い唇……などと感じるのは、生前の彼女が今も、脳裏に焼き付いて離れないからだろうか。長い睫毛が、瞳の黒い部分に影を落としている。眠気で瞼が重くなっているような表情が、あるいは地面を睨むような視線がふと上がって、私を見る。  それは到底、自分を殺した相手に向ける目線ではない。恨みなんかは微塵も見えないほど、優しく彼女は微笑んだ。私がよく知る、よく真似た笑みだ。他人ならきっと、私の都合のいい思い込みだと言うだろうけれど。そうじゃないことは結局、私だけがよく知っている。 「私、変わったでしょう。あなたにどう、見えるのかな」  彼女の真似をして、唇をきゅっと縮こめて微笑む。下唇に人差し指を当てて、小首を傾げて、眉を下げながら……慣れたものだ。彼女は、よくそんな笑みを浮かべる人だった。  彼女は、比奈乃。  比奈乃はかつての私のクラスメイトだった。誰に対しても優しく、それでいて自分が誰かに蔑ろにされても、気にも留めないような子だった。例えば、掃除当番を押しつけられるなんてことは日常茶飯事で「妹が熱出しちゃって、」とでも言えばすんなり応じてくれるのだ。そんなわかりやすい嘘を、彼女は真に受けるどころか、翌日には「妹さん、大丈夫だった?」なんて聞いてくるような、そんな、バカな子。  そんな彼女の惨めな日常を作っていたのは、他ならぬ私だった。妹の看病をする健気な姉を作りあげた次は、三度目の祖母の葬式に出かける哀れな孫を彼女にぶつけたりもした。比奈乃は、あからさまな嘘にも何も言わず、黙々と箒を握って掃除をするばかりだった。 「亜希、あのさ。私ちょっと、申し訳なさが勝っちゃうんだけど」 「は?あんたも?」  今回根を上げたのは、健気な姉の方だ。彼女の優しさに触れ続けると、どうにもそれに感化されるらしく、彼女を嘲笑う私の傍を皆が離れていった。私からすれば、あれを優しさなんて呼ぶ方が薄気味悪い。なんと形容していいかはわからないが、少なくとも偽善なんかより、ずっとタチの悪いものだと思っている。  健気な姉のフリをした彼女は、嘘をついたことが申し訳なくなったと彼女に謝罪に行ったそうだ。掃除を押しつけた代わりに、今度は自分が彼女の当番のときに代わる、とまで申し出たと言う。 「そうしたらさ、あの子、なんて言ったと思う?」 「知らないよ。気にしないで~とか?」 「『いいの。嘘をつかなきゃいけないほどの、事情があったってことでしょう?』だってさ」 「……何それ、気持ち悪」  素直な感情を素直な言葉で吐露すると、目の前の彼女は私を人でなし、と言わんばかりに目を細めた。そうして、これ以上私とは付き合ってられない、と悟りでも開いたかのような顔をして行ってしまった。  嘘をついて自分を嘲笑っていた相手の事情なんて、どうして彼女が気にかけてやらなければいけないのか。明らかな嘘だったことくらい、気づいていなかったはずがないのに。妹の看病をしなきゃいけない人間が、どうして友だちと待ち合わせして、笑いながら帰れると思うのだろう。それを自分で見せつけておきながら、どうして彼女はあの子の言葉を鵜呑みに出来るんだろう。  自分を見下し、馬鹿にしていたことがわからないほど、彼女は馬鹿じゃない。彼女の言葉は相手の心情を推し量るフリをして、その実一歩たりとも踏み込みもせず、どうでもいいとすら思いながら一線引いているのだ。人を思いやるいい人ヅラを下げてそれをしながら、自分のことをぞんざいに扱う人を嗜める素振りもない、その態度が薄ら寒気を覚えるほど気味が悪くて、苛立ちすら芽生えていた。  それから、比奈乃の本心に触れないくせに、私を軽蔑するかつての友人たち。彼女らはそんな冷え切った言葉を真に受けて、善人にでもなったかのような面で私を見ている。そんな彼女らこそ、比奈乃に対してとても薄っぺらくて、私こそああはなるまいと、心がどんどん冷えていくのを感じた。  気がつけば、私も彼女の何かしらに感化されていたのかもしれない。何を言われようとあの薄い笑みを浮かべている、彼女の能面をひっぺがしてやりたくて、躍起になっていたのだろう。  あるとき私は、比奈乃の幼なじみの優菜のカバンから、大事にしてるらしいポーチをこっそり持ち出した。そしてそれを持って、比奈乃を屋上に呼び出してやった。 「お願い。それは友だちが大切にしてるものなの。返してもらえるかな」 「どうしよっかなあ」  転落防止の柵の外側、それなりに出っ張った足場に立つ私を見て、さすがにいつものようには笑えないらしく、眉間に皺を寄せて彼女は私を見ていた。それで私も満足すればよかったのに、このまま大人しく返せば、返したときの言葉が容易に想像できてしまい、私はわざと、屋上から落としてしまうような素振りを見せて彼女を煽った。 「大体さあ、これアンタのじゃないでしょ。なんでアンタが必死なわけ?持ち主は?」 「優菜は、先に帰ってもらったよ。すごく、落ちこんでたから」 「やっぱり、意味わかんない」  落ちこむほど大事なら、もっと必死に探してもいいだろうに。当の本人はさっさと帰って、友人に探させるだなんて理解しかねる。それだけ信用されている、と言えば聞こえは良いが、どうせその子だって、この無尽蔵な優しさに当てられて、その上にあぐらをかいてるだけだろうに。 「腹立たないの?そんな扱いされてさ」 「どうして?」 「普通、腹立つでしょ。蔑ろにされてんの、わかるでしょ?」 「……大事にされたいなんて、思ってないからいいの」  ……ハッ。  吐き捨てる言葉もままならず、鼻から漏れたのはそんな音だった。彼女は誰にでも優しくしながら、誰にも優しくされたいとは思わないそうだ。どうとも思わないなら、どうしてこんなものを一生懸命探すの。そう聞いてやりたくて、柵を殴るように掴み直そうとした瞬間、私にバチが当たった。  たわんだ柵が跳ねて私の手を弾き、バランスを崩した私は足場から足を滑らせてしまった。かろうじて縁を、胸で抱えるようにしがみつくことは出来たものの、自分の体を持ち上げるような腕力はない。  ポーチは私の手から離れ、柵の下の隙間から、内側へと転がってしまっていた。これで彼女がここに居る理由もなくなってしまう。馬鹿なことをしたなんて、今更冷静になった頭で自嘲する。  さて、あの馬鹿げたお人好しは見捨てたりこそしないだろうけれど、大人を呼んできたところで間に合うはずもない。せめてどこかに足を引っかけられやしないかと、身動ぎしたのが悪かった。下手に体力を使って、体がどんどん地面へと引っ張られてしまう。肘が頭より上に上がって、柵が遠のく。こんなにも自分の体は重かったのかと驚く暇もない。縁にしがみついたときに胸を強く打ったせいか、呼吸する度に血の味がした。  目の前で、自分を嘲っていた人間が死ぬところを見れば、さすがにあの鉄仮面も歪むのだろうか。こんなときでさえそんな考えがよぎり、なけなしの体力も考えず無意識に顔を上げてしまう。柵の向こうに人影はなく、代わりに頭上で紺色のスカートが翻った。 「大丈夫、大丈夫だから」  比奈乃はそう言いながら急いで柵を跳び越え、私の傍にやって来た。その表情はポーチの危機とさほど変わってはいないことを、少し残念に思いつつ私は黙って彼女を見る。  その細い腕に、私を抱え持ち上げる力なんてありはしないだろうに。何が大丈夫なのか、と聞くより先に、私の視界が下へとずり落ち、腕が縁から外れる。爪をたてるようにしがみついていたのに、ガリッと音を立てて縁が私から離れた。あ、と思うより先に、今度は赤いスカーフが眼前に飛び込む。  比奈乃は、私の頭を抱き締めるようにして迷わず飛び込んできた。制服の布と彼女の匂いとが混じって、よくわからない安堵すら覚える。あまりに突拍子もなくて、なぜだか私は、助かるのではないかなんて思えてしまっていた。  別に、そのときに不思議な力がはたらいて、私たちは奇跡的に無傷で助かったとか、そんなことは全然なかった。私は比奈乃に抱き締められながら落ちて、彼女に頭をしっかり守られた上で下敷きにしたおかげか、骨折程度の重傷ながら生きていた。随分長い時間、抱き締められていたと思っていたのに、気がつけば私は気を失っていたようで病院にいた。そこで、比奈乃は助からなかったと聞いた。私を庇って、私の体重まで受け止めたせいで即死だったそうだ。  私が覚えているのは、最期まで比奈乃が「大丈夫」と私を励ましていたこと。柔らかな胸がクッションになって、とんでもない衝撃だったにも関わらず、痛みもなかったな、なんて病床でぼんやり考える。結局最期まで、私は比奈乃という人を理解できなかった。 「……なんで、あんなことしたの」  誰も居ない部屋で呟く。  なぜあんな真似が出来たのだろう。考えるほどにわからなくなる。お人好しなんて言葉ではもう、到底片付けられない。彼女はどうして、あそこまで己に無頓着だったんだろう。わかったのは、彼女が生きることにすら執着していなかったということくらいか。私を抱き締めながら風を切る最中、何かを言おうとした彼女の言葉が聞けなかったことが未だに、悔やまれる。  どうして。どうしてよ。何度問いかけたって比奈乃は答えない。今も、この病室の隅かどこかで、私の無事にほっと胸をなで下ろしているような気がして、その胸ぐらを捕まえたくて手を伸ばす。いつまでも、まるで怨霊みたいに私の心に取り憑いた彼女の亡霊は、いつしか私を変えるものとなった。  比奈乃のように振る舞えば、いつか、彼女の行動の意味が分かるかもしれない。  そう思って、私は比奈乃になることにした。亜希でありながら、中身だけ亡霊にすげ替えるように。周りは、比奈乃の優しさにようやく私も心を入れ替えたと思ったようだった。比奈乃の記憶は、彼女に感化されたクラスメイトたちの心に残っているようで、私の態度を比奈乃のようだと揶揄した。けれどそのどれもがハリボテのように感じられ、その本質はどこにも残されていなかった。私の、記憶以外には。  私は、比奈乃の亡霊を見るようになっていた。私の妄想が作り出す幻覚だったかもしれない。比奈乃を思い出そうとすると、彼女は視界の端に現れた。それを見る度に、ああ彼女はこうだったと、私は比奈乃の振る舞いを思い出し、背筋を伸ばすのだ。  顎を引いて、けれど胸を張るわけでもなく。お人好しのレッテルは、特に努力しなくても自然と貼り付けられるものだった。話しかけやすい雰囲気を作って、どんな頼み事もなんてことないように頷く。それだけで、私は比奈乃だった。  学校でも仕事場でも、自分を使おうとする人間の気配は、比奈乃の目になるとよくわかった。かつての私みたいな奴は特に目についた。それでも、私は他と区別することなく、その要求をのんでやった。  それなのに、いつまで経っても比奈乃の本質はわからない。自分の周りは、気がつけば私の比奈乃の優しさにつけ込む奴らばかり憎らしい。人を使って、頼りにしておきながら嘲笑う奴。気味の悪さに距離をとったり、反対に味方の面を見せておこうと気遣う奴。そのどれもが勘に障って、気にならないはずがない。どうして彼女は、彼女であることができたのだろう。 「亜希さんって、本当に優しいですよね。イヤな思いとか、しないんですか」 「気にしてませんよ。大丈夫です」  返答は、自分に言い聞かせる呪詛のようだった。ひょっとすると、比奈乃も理由があって、そうせざるを得なかったのだろうか。それでも私は、命まで投げ出す気にはなれない。結局は彼女のフリをしたくらいでは、彼女の真実など知ることも出来ないのだろう。  そう諦めかけていた頃に、かつての同窓会の知らせが届いた。そこで、優菜に会った。かつての面影もなく派手な格好になった彼女の手元には、真新しいブランドのポーチがあった。彼氏が買ってくれたとか、聞いてもないことをペラペラと話しだし、如何に自分が幸せかと教えてくれた。私は、比奈乃の表情を瞼に描きながら、なんてことないように相槌を続ける。 「そういえば、比奈乃が探してくれたポーチ、今は持ってないんだね」 「ポーチ?比奈乃?……ああ、いたねそんな子!」  ……ほら、比奈乃。聞いた?ここにもあなたの親友の面影なんて、微塵もないよ。微笑みを嘲笑に変えてしまわぬように、私は目の前の女を軽蔑する。ここに、彼女の優しさを受けるに値する女なんていなくて、苛立ちを腹に抱えたまま私は目を細めた。私は、まだちゃんと覚えてるのに。 「あんたがあんなことしなきゃ、あの子はまだ生きてられたのにね。クラスメイトを殺すって、どんな気持ちだったの?」  比奈乃に似た私にも、何を言ったって良いときっと思っているのだろう。酒のせいか、気と声の大きくなった女が本性を口走る。  どう、と言われてももうなんとも思えない。比奈乃は自分自身に無頓着で、親友だというこいつにすら大事に扱われていなかった。生きていたってきっと、今もこんな奴らに親友の肩書きを掲げられ、その優しさをいつまでもしゃぶられながら生きていたことだろう。私なら、お断りだ。 「どうって、感謝されてるんじゃないかなって思ってるよ」 「……は?」  お酒の力もあって、その後彼女になんて言ったかも、もう覚えてない。比奈乃らしさなんて、ちっとも繕えなかったかもしれない。ぎゃあぎゃあ騒がしい会場を抜け出て、気がつけば、私は屋上にいた。  その屋上で、久しぶりに彼女の亡霊を見た。  柵の向こう側で、私を待っていた。あの微笑みを絶やさないまま。夜風に吹かれながら、独り言のように声をかける。 「ねえ、あなたに助けられてから私、ずっと生きてみたけどさ。あのときの、友だちですらない私の命を救ってくれた、あなたの優しさに敵うものは何もなかったよ。それなのにもう、その優しさを私だけしか覚えてない。あなたの吐き捨てるような博愛は、その程度のものでしかなかったんだよ」  そしてその程度ですら、私は残せない。大事なポーチも親友も、健気な姉も可哀想な孫も、彼女の中に何か残っただろうか。親友が言うように、生きてさえいれば比奈乃は、何か変われたんだろうか。  半透明な彼女のように、今にも消えてしまいそうな過去の真実に、私はまるで、あの日両腕で必死に抱えた屋上の縁のように必死に縋っている。  私だけが、彼女の証明。最期の1ピースを埋めるべく、私は微笑む彼女のために柵を越え手を伸ばした。
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