第1話.

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第1話.

   2211年9月26日。  チャイムが鳴り、足早に玄関へ向う隆はその日、60歳を迎えていた。  ドアを開けると修一と由美子がいつもの笑顔を向け、 「こんちは!」と小さく手を挙げる。 「しばらくぶりだね。どうぞ上がって」隆が満面の笑みでそう促すと2人はすぐに靴を脱ぎ、慣れた足取りで廊下を歩いていく。  リビングの中程まで行った修一が突然振り返り、隠し持っていたクラッカーをポケットから取り出すとそれを合図に由美子も1つ取り出し、その紐を握って目をつぶった。 「タカさん、60歳おめでとー」修一の大きな声と、 「おめでと〜」少し震えながら言う由美子の声をかき消すようにクラッカーの大きな音が2度響き渡った。  隆は何が起きたのか判らずリビングの入口に立ったまま何も言えずにいる。 「あー、びっくりしたー」代わりに妻の美沙がキッチンから顔を覗かせ、修一と由美子を見て、「久しぶりね!」と、それだけ言って再びキッチンへ戻る。  忙しそうな美沙をただ微笑んで見送った由美子は何かを思い出したようにした後、持っていた紙袋から綺麗に包装された箱を取り出した。  立ち尽くしたままの隆に歩み寄り、 「甘いものならケーキよりこっちの方がイイだろうと2人で考えて、これにしたのよ」その箱を両手で差し出す。  隆はその包みが自分の好物だと気付き、 「あ、それはもしかして松屋の饅頭? この食糧難にそんな贅沢なものを貰えるなんて!」と嬉しそうに目を細めたが 「誕生日だからと頑張ったんだけど、手に入れられたのはたったこれだけなんだ…」由美子の隣で修一が無念そうに呟き、下を向いた。  項垂れるその姿を見て可哀想になった隆は修一を笑わせようとして 「あぁー、大好きな饅頭が目の前じゃ我慢できない。もう開けていいかな?」大切そうにその箱を抱えたまま少しおどけて言い、返事も待たずに包みのテープを剥がし始めた。  背中を丸めながら箱の包装を丁寧に解いていく隆の姿に最初は微笑んでいた2人だったが互いの顔を見合わせると、その笑みを消して下を向いてしまった。  隆がようやく箱の蓋を開けられるところまでくると、 「私…、明日から海外出張で会えるのは今日が最後なの…。ごめんね…」黙っていた由美子が顔も上げずに消え入りそうな声で言う。  隆はますます湿っぽい雰囲気なっていくことに焦りながら、 「皆、自分の食糧を確保する為に必死で働かなきゃならないんだ。他人のことなんか構っていられないこの時代に君たちと大好きな饅頭に会えたんだから僕は幸せ者だ!」と、2人を笑わせようとしてふざけたがその悲しそうな顔を変えることは出来なかった。    やぶれかぶれになった隆は饅頭を2つ手に取ると、「何年振りかな〜。じゃあ、大好きなこしあん饅頭頂いちゃいまーす!」大袈裟な仕草で口を開け、両手で投げ込んだ。  大きく頬っぺたを膨らまして笑うとその顔が可笑しかったのか、ようやく2人も笑顔を取り戻したが何かを思い出したようにして再び下を向く。  隆が2つの饅頭を頬張りながら、どうすればこの雰囲気を変えられるのか考えていると答えが見つかる前にとうとう由美子がすすり泣きを始めてしまった。  それを見て慌てた隆は反射的にテーブルの缶ビールをわしづかみにして 「久しぶりのビールだ、冷えてるうちに飲もう!」急いでそれを開けるとプシュッという音が静かな部屋にひときわ大きく響いた。  その音でずっと沈黙していた修一が目覚めたように顔を上げ、 「確かに久しぶりだ。ビールは冷たくなきゃね!」と缶ビールに手を伸ばして一気に開ける。  すると、由美子も涙を拭きながら、 「私もー」と一つ手に取って開けた。 「かんぱーい!」隆が手にした缶を高々と上げ、明るい声で言うと、 「かんぱーい!」修一と由美子も少し遅れてその腕を上げ、3人はビールを一気に口へ流し込む。  数か月振りのビールに「かぁ〜!」、「うめぇ〜」、「くぅぅ〜」と3人で感激しながら唸っているとようやくいつもの雰囲気になった。  やっと落ち着きを取り戻した由美子が 「ごめんねー、美沙。3人で先に飲んじゃって」キッチンの美沙を気遣うと、 「いつだって先に始めてるじゃない。いまさら謝らなくてもいいわよ」と笑いながら応える声がキッチンから返ってくる。  それを聞いた由美子が舌を小さく出し、その顔を隆と修一に向けると、 「美沙の言う通りだ。いつも由美子が先に飲み始めるよな!」  隆がそう言い、声を出して笑った。 「いつも飲む量が一番多いし…」  すっかり普段の調子に戻った修一がそう付け加えてふざけると由美子は口を尖らせ、 「いつも、いつもと言いますけど、そのビールを調達するのはいつも(・・・)私なんですが何か文句あります?」と修一の手から缶を取り上げようとする。 「いいえ、いつもビールを飲ませて頂き、ありがとうございます」  修一がそう言って大袈裟に頭を下げると、普段通りの賑やかな笑いがリビングに響き渡った。  その後、隆と修一はいつものように趣味の話に花を咲かせ、料理している美沙を気遣う由美子はキッチンとリビングを行ったり来たりしながら2人の話に相槌を打っていた。 「かんぱーい!!」  何か理由を見つけては乾杯し、それを何度も繰り返していると久しぶりのアルコールに3人共、酔いが廻リ始めた。  そしてもう何度目の乾杯だかわからなくなった頃、酔いも手伝ってか修一がおもむろに切り出した。 「それで、いつヘヴンに行くの?」  修一のあからさまな問いかけに驚いた由美子は一瞬その笑顔を凍り付かせたが自分も知りたかったのか、その答えを待つようにして隆を見つめる。  その場を再び重い空気にしたくなかった隆はビールを口に運びながら、 「法律上は30日以内と決められているから、期限ギリギリまで美味いものを食べ、最後の日に美沙と2人でのんびり行くよ」と、わざと軽い調子で答えた。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  現在、世界の人口は150億余りにまで達しており、どの国も人口増加による食料危機にあった。  国際機関である『地球連合』がその危機の解決を担い、これまでに様々な策を講じてきたが未だに解決への道筋すら見えない状況だった。  当初、単に食べる物がが不足していると考えた地球連合は食糧の増産でその解決に取り組んだが実際は増えた分以上に消費する人口が多くなっていた為、失敗に終わってしまう。  その後、対策の主眼を人口増加の抑制に切り替えるが平均寿命が毎年延びていく為、どうにもならず地球の人口を減らす事が出来ると期待されていた火星移住計画が現地での食料調達に失敗して頓挫すると、その後は手詰まりの状況に陥ってしまった。  その『地球連合』はザ・ユナイテッド・ネイションズ・オブ・ジ・アースの国際名称を持つ機関で地球と宇宙の平和を追求する為に全ての国が加盟して設立されたものである。  設立当時の2140年は誰もが100歳までは生き、その後も医療の革新により人の寿命が飛躍的に延びると言われた時代だった。  長寿は喜ぶべきものと、歓迎された時代はとうに過ぎ去って急激な人口増加による食糧不足が様々な形で表面化し始めていた。  やがて、どの国も深刻な食糧危機に直面し、その解決の為の膨大な予算が必要になると開発中だった宇宙戦争の費用を削って捻出することを考え始めた。  しかし、その為には戦争のリスクを下げねばならず、その方法として用いられたのが全ての国が加盟する平和共同体を創ること、つまり『地球連合』の創設だった。  純粋に平和を望んでの設立とは程遠かったが実際に宇宙における戦争のリスクは下がり、多くの国が宇宙開発という金の掛かる重荷を降ろす事ができた。  膨大な予算が使えるようになり、様々な観点からの調査・研究が進むと食料危機は気候温暖化が根底にあると判り、国や地域ごとに解決できるものではなくなってしまう。  気候温暖化の解決は地球規模の協力抜きではなし得ないと判っていも自国の利益の為に宇宙戦争を計画するような国ばかりではその後もただ食糧危機が深刻化していくだけだった。  やがて、危機の解決には世界的に強制力のある法律が不可欠と考えられるようになり、地球連合は2155年に全ての国が遵守しなくてはならない法律の『世界法』を制定できる機関となった。  しかし、法を定めるだけで人口増加を抑えられる筈もなく食料危機はさらに悪化し、何も出来ない地球連合に人々の激しい非難が向けられるようになる。  窮地に追い込まれた地球連合はもう他に打つ手はないとして、人口を削減する為の『ヘヴン・プロジェクト・ロー』という世界法を制定する事にしたのだ。  31年前に制定されたその法律はこれまでにない革新的なもので、法律の施行時に60歳以上の人は志願制、それ未満の人は60歳を迎えた時点で30日以内に人生を終える儀式を行わねばならないというものだった。 『命の相続』と呼ばれるその儀式は法律の原文にある『Life inheritane(=命の継承)』を日本語にしたもので、自分の命を次の世代へ引き継ぐことであり、『ヘヴン・プロジェクト・ロー』において『死の選択』を意味した。  法律の内容が公表されると、生命の終わりは神の定めに従うべきだと主張する様々な団体によって反対運動が起こり、世界的な混乱を招くことになってしまう。  そんな状況で法律が施行される事はないだろうと思われたがさらなる食糧事情の悪化により老人排除思考が芽生え、年寄りに対する暴力や殺人が増え始めるとたちまち世界中で受け入れられた。  法律が施行されると持病のある人の多くはこの大変な食糧危機を生きるより楽だとして『命の相続』を志願し、その人生を終わらせる選択をした。  また、健康であっても若者の将来の為にと進んでそれを選ぶ者もおり、志願制に該当する人の約6割が『命の相続』を選ぶという結果になった。  人口増加の抑制に主眼を置いたこれまでの対策と違い、人の数を減らす為の法律は非常に効果的で短期間に世界人口の1割を減らす事に成功し、今では食糧問題を解決できる唯一のものとして世界中が期待している。  日本では新しい法律を監理するヘヴン・プロジェクト庁が創設され、『命の相続』は庁が認可する『ヘヴン執行場』で行うと定められた。  殆どが火葬場に併設されていた為、人々はそこから『天国(=ヘヴン)』に行けるようにとの願いを込め、執行場の事を『ヘヴン』と呼ぶようになっていった。  法律上は満60歳になった時点で『命の相続』の対象となるのだが、実際はその5ヶ月前に『ヘヴン対象者』となった旨の通知を受け取り、自分の執行日を誕生日後の30日以内で決めなければならない。  執行場については特別な理由がない限り火葬される場合と同様に居住する地域の行政が指定する場所とされ、何もしなくても当日はドローンリムジンが自宅まで迎えに来るようになっている。  ヘヴン対象者と参列者を乗せたリムジンが『ヘヴン執行場』に到着すると全員が迎賓室に通され、2時間程のお別れの儀式を行う。  その後、対象者だけが一足先に執行室へ向かうのだが、そこで対象者の到着を待つのは『命の相続』を執り行う執行人1名と法律によって定められた立会人の3名である。  立会人の内訳は死亡診断を行う医師2名と執行が法律に則って正しく行われたことを見届ける弁護士1名とされていた。  執行場はその規模が部屋の数などよって変わる一方、その中にある執行室は造りや機能が法律で細かく規定されている為にどこでも見た目は殆ど同じだった。  濃い茶色を基調とした木材をふんだんに使い高級だが温かみを感じさせる内装で、中央には『命の相続』を行うブースが四方をガラス張りにして一段高い位置に設けられる。  それをぐるりと囲むように配置された参列者席の天井にはガラス張りのブースに向けて沢山のスポットライトが取り付けられ、そこをステージのように明るく照らし出す。  その眩しさでブースの中のヘヴン対象者からは薄暗い執行室内の様子は一切見えないという仕掛けになっていて、皆が悲しむ光景を人生最期の記憶とせずに済むのだった。  一足先に迎賓室を後にした対象者は地下の専用通路からガラス張りのブース内に入り、備え付けのベッドで横になる。  鎮静剤によって頭が少しぼんやりしているがそのお陰で心は穏やかにいられ、静かに『命の相続』の執行を待つことが出来るのだった。  その頃、ブースの外では代表者がマイクを使い、参列者へ挨拶を述べているがそれらの音も完全にガラスが遮るので中には静寂しかない。  挨拶が終わり、マイクが執行人に手渡されると「それでは命の相続を執り行います」静かに告げて壁にある鍵穴にキーを差し込んでゆっくり捻る。  薄暗い執行室でひときわ明るい緑色に点灯したスイッチを執行人が押し込むと赤色に変わってブザーが鳴り、神経ガスが音もなくブースを満たしていく。  参列者が見守る中、静かに噴射されるガスが苦しませずに5分程で対象者を死へ導くが、鎮静剤のおかげで先立つ辛さや寂しさを感じることは全くない。  そのままの状態で30分間置かれた後、2名の医師がブースに入って死亡を確認し、執行が法律に則って行われたとする書類に弁護士がサインすると『命の相続』は完了となる。  普通、参列者はここまでで帰路に着くが残された家族はその後、遺体を隣の火葬場へ移して荼毘に付し、簡単な葬儀を執り行ってようやく終了となるのだった。  法律が施行されて間もない頃は『命の相続』がどんなものか見たいという理由で知人の殆どが参列していたが経験者が増えるに従って参加者は減り、やがて身内だけで行う今の形が一般的となった。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 「60歳になってもヘヴンへは行かず、犬とかの身近な動物に変身して家族と暮らす方法があるらしいよ。すごくお金が掛かるようだけど…」  修一が食材としては入手が容易なジャガイモで作られたポテトチップスの袋に手を伸ばしながら言い、皆の反応を伺う。 「私も聞いた事があるわ。ペットのフリをして…と」由美子はそう言うと真剣な顔で修一に向き直り、「動物になったって貴重な食糧を食べる事には変わりないし、違法なんだからちゃんと取り締まって欲しいわ」と少し険しい表情になって言った。  その言葉に一瞬たじろいだ隆は心の動揺を悟られないようにして、 「こんな食糧難の時代を動物になって生きるくらいなら、人類のお役に立てるヘヴン行きを選ぶ方がイイよな」笑いながら返すと、 「私もそう思うわ。でも、お金持ちの間ではペットになりすまして生き続けるのが普通になっているみたいよ」由美子が続ける。 「金のある人が違法に長生きすることで食料が足りなくなり、若い人達が生きられないなんて不公平だよ!」修一が嘆くように言うと、そんな会話で少し堅苦くなった空気をよそに 「ジャジャ〜ン!、おまたせー」料理を乗せたワゴンを押して美沙が現れた。  そのワゴンに乗る数々の料理が最近では滅多にお目にかかれない贅沢なものだったから3人はそれを見て驚き、 「うわ〜贅沢ぅ、うまそ〜」と声を揃える。  それらの贅沢食材は60歳を迎えた隆へ国が配給したものだった。  食糧難の中、ヘヴンへ行く人々の最後の晩餐を豪華にしてあげようとする計らいで60歳を迎えた日からヘヴンへ行く日まで毎日届けられる。  宗教上の教えからその食材の全てを貧しい子供達が暮らす施設に寄付し、人生最後の善行で身を清めてからヘヴンへ行こうと考える人もいるが隆は友達や妻の美沙と晩餐を楽しむ事にしていた。  普段、目にする事のないその贅沢な料理をしばらく皆で眺めた後、各食材の珍しい食べ方で盛り上がる。  そこからはあまり飲めない美沙もジンジャエールのグラスを手に3人がしていた話に加わって、料理を食べながら驚いたり笑ったりと大いに楽しんだ。 「今日はいつものように、明るく笑って別れよう」  自分が淹れた酔い冷ましのエスプレッソコーヒーを皆で味わいながら隆が言うと、 「そうだね。最後は元気よく別れよう!」湿っぽいのが苦手な修一がすぐに反応して返し、両手で持ったカップを見つめていた由美子もゆっくり顔を上げて頷いた。  その後、4人でコーヒーを飲みながら再び思い出話に花を咲かせ、時計の針が11時を回った頃、 「じゃあ、タカさん。またね!」  修一と由美子は隆が望んだ通りに笑顔で別れを告げると元気よく手を振りながら帰っていった。  少し寂しげな2人の後ろ姿が廊下の角に消えるまで見送った隆がドアを閉めると、すぐに不安な表情の美沙が話し出す。 「あんな話題を持ち出すなんて…。まさか、気付かれていないわよね?」 「うん、十分に気を付けてきたからそんな筈はないよ」  隆はそう答えながら、動物に変身する事は違法だと言い放った由美子の厳しい表情と金持ちが生き長らえるのは不公平だと批判した修一の言葉を思い返していた。  同じ事を考えているのか、落ち着かない顔をして何も言わない美沙に 「由美子と修一が執行に参列する訳でもないし、何も心配する事はないさ!」  隆はその不安を吹き飛ばすように明るく言って笑顔をみせた。  するとようやく美沙も笑顔を取り戻し、 「そうね。気付く筈はないわね!」そう言い残して食事の片付けをしにキッチンへ向かった。    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇  それから29日経ったヘヴンへ行く期限の前夜、入院の準備をしようと書斎にやって来た隆は他人に見られないように隠しておいたリーフレットの事を思い出した。  シュレッダーにかけようと本棚の奥から引っ張り出したがその表紙を見て、そのままデスクの椅子にゆっくり腰掛ける。  艶のある黒い表紙の上部に『60歳のメタモルフォーゼ(=変身)』と小さなタイトルだけがある、秘密めいた印象のリーフレットは医療機器メーカーの副社長を務める知人から5年前に貰ったもので、そこには60歳以降も生きていく方法として動物への変身が紹介されている。  その人は3歳年上だからすでに対象者となり、ヘヴンへ行った事になってはいるが実際は『命の相続』をしたのか、それともリーフレットにある動物に変身したのか知る術はない。  隆は海外にも家を持っていたその人がもし変身しているなら、どこか別の国で暮らしているだろうと思っていた。  なぜなら、日本以外の国にいても変身動物と判れば死刑に処せられることに変わりないが、本物の動物と見分けられない為に捕まらないという状況も変わりなく、それなら知り合いに会う危険がない外国の方が安心して暮らせるだろうと思っていたのだ。  捕まらない理由は他にも、『ヘヴン・プロジェクト・ロー』が若年層の救済を主たる目的に急遽制定された法律で公平さに欠ける不完全なものだった事が挙げられる。  警察は法律がいずれ大きく修正されれば罪が罪でなくなることもあり得ると考え、変身動物を積極的に取り締まろうとはしなかったのだ。  その後『命の相続』を体験し、その悲しみを知る者が増えてくると不公平な法律が適用される人々に対して哀れみの感情が芽生え始める。  その哀れみが次第に人間の姿でなければ寛大に受け止めようという考えに変化し、そんな風潮が社会を占めるようになると取り締まりを求める声はあまり聞かれなくなった。  そのお陰か、富裕層の間では変身術を違法と考える人は少なく、60歳になったら「ヘヴンに行くか」「変身するか」の2択が今では普通になっている。  そうやって長く生きたいと願う人が金持ちに多いことから違法であるにも関わらず、その利益目当てに変身術とは別の方法も様々考案され、試されてきた。  しかし、その全てが人として生きることを前提にしていた為に困難が多く、実現したものは1つもない。  初期の頃に試されたのはヘヴンへ行った事実を偽装した後、ずっと隠れて生きるという方法だった。  しかし、そんな日の目を見ない生活に3年以上耐えられた者はおらず、殆どが精神を病むか外に出て逮捕されてしまうという結果に終わった。  その後、見た目を若返らせて別人になりすまし、人間の姿で堂々と生きる方法も考えられたが整形術では心まで若くなれる筈もなく、すぐにバレてしまうようなものを人々が受け入れることもなかった。  実際に逮捕されるとただちに『命の相続』を執行されてしまうのだが、その名目は『ヘヴン法違反の死刑執行』という不名誉なものにされてしまう。  当人にとってはそれで人生が終わることに変わりないかも知れないが、残された者にとってそれは大違いだった。  ヘヴン法を犯した者の家族として社会から猛烈なバッシングが浴びせられ、就職や融資を申し込むといった重要な時に不当な扱いを受ける場合もある。  そうしてまともな人生を送れなくなった上、違法に生きた年数に応じた多額の罰金まで科せられてしまうのだ。  自分だけでなく家族まで大きなリスクを冒さねばならないという事が知れ渡ると、人間の姿で生きたいと望む者は徐々にいなくなっていった。 『ヘヴン・プロジェクト・ロー』が施行されたばかりの頃はそうして違法に生きようとする人ばかりでなく、もっと純粋な理由からヘヴン行きを拒否する人達がいた時代もある。  それは神から与えられた寿命を全うすべきと考える人達で世界中の過疎地にコミュニティーを造り、自給自足で暮らしていた。  しかし、ヘヴンへ行かない者を非国民と呼び、殺害してしまう『ヘヴン逃れ狩り』が過激な若者達の間で流行り出すとたちまち姿を消していった。  そうした紆余曲折を経て現在、60歳以降も人間の姿で生きているのは国から特別に許可された者だけになり、ペットや野生動物に紛れて暮らす変身術だけが生き長らえる方法として残っていた。  書斎の椅子に腰掛けた隆はしばらくの間、感慨深げにリーフレットを見詰めていたがおもむろにその表紙をめくった。  開かれたページにはペットとしてポピュラーな犬や猫の写真が大きく印刷され、他にイルカやアザラシなど海に生きる動物のものが小さくある。  ページをめくると犬と猫の種類別の写真と共にそれぞれの価格が仮想通貨の1つである『ディジット』で示されていた。  1ディジットは日本円で約100円だから、トイプードルの写真の下にある20万ディジットは約2000万円となり、一般的な年収の4倍程で誰でも簡単に手の届くというものではない。  その横にあるゴールデン・レトリバーは15万ディジットで約1500万円と少し安く、大きい動物ほど手術が容易なのだとその理由が書かれている。  猫は身体が小さいからか20万ディジット以下のものは無く、アメリカン・ショートヘアの価格は25万ディジットつまり2500万円となっていた。  隆はその数字を見詰めて、1年前の美沙とのやり取りとその後にオーストラリアで体験した出来事を夢で見た事のように思い返していた。
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