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蕎麦を買うのを忘れていた。
思えば、年末年始の支度は妻に任せきりだった。
わたしがいなくなったらどうするんですか、と口うるさかった妻が急逝したのは半年前。まるでその時を予期していたかのように、妻は私に家政を厳しく躾けた。
その甲斐あってこうして、家のことを気にすることなくのんびりと年末年始の準備が出来た。
大掃除は十二月初頭に終わり、お節料理だって既に拵えている。
それなのに年越し蕎麦だけ、すっかりと抜け落ちていた。
『年越し蕎麦は売っていますか?』
午後十一時半過ぎのコンビニでその一言が聞けず、冷蔵コーナーと雑誌棚を往復したあげく日本酒を一本買って店を出た。
晩酌しようにも、蕎麦なんてないのに。
*
自宅へ向かう途中でふと、住宅街の中の小さな公園が目についた。外灯に照らされたブランコは誰も乗っていないのに、キィっと鎖が音を立てた。
身体が震えて、白い息を吐きながらジャケットの襟を立てる。これだけ寒いなら、雪でも降れば良いのに。
冷たいよ、お父さん……と笑う、幼い息子の顔を思い出した。
あれは二十五年ほど前になるか。一人でブランコを漕げるようになった息子が私に妙な敵対心を持ち、どちらがより高く漕げるかなどと争っていた時期の大晦日。
忙しいからお外で遊んできてと家を追い出され、粉雪の中公園に来た私と息子は同時にブランコに腰掛けた。
冷たいなぁ、お父さんのお尻もびしょ濡れだと笑い合った。顧みれば、息子の笑顔なんて子供の時のそれしか思い出せない。
「今年もあいつは、帰って来ないだろうなぁ」
斜め後ろからの返事はない。
どうですかねぇ、と言って微笑む妻が、私に内緒で三人分の年越し蕎麦を用意していたことも、私が酔い潰れて眠っている間に残された一人分の蕎麦が無くなっていたことも。
全て気づかないふりをして元旦の朝、『おはよう』と妻に声をかけたことも、今となってはいい思い出だ。
「今年は本当に、一人だなぁ」
いけない、独り言が多くなっている。
ジャケットを羽織り直し、自宅への道を急ぐ。民家の窓から漏れる淡い光、どこからか甘い匂いが漂って来てより一層足を速めた。
襟を引っ張ってみたけど耳は隠れず、家族団欒の楽しそうな笑い声は否が応でも鼓膜を刺激した。
*
光灯っているのは我が家も同じだった。すぐ戻ると思って、玄関の電気は付けっぱなしにしていたのだ。
そういえば鍵をかけていなかった。まだまだ半人前だなと反省しながら、大きく息を吐き出した。
ただいまと言ってももう、返事をしてくれる人はいないのだ。上がり框に腰掛け、土で汚れたスニーカーを脱ぐ。
しまった、靴はどうやって洗えば良いのだろう。新しい物を買えばよいと妻は言うだろうけど……この家で一番大切な存在がなくなった分、今残っている物は全て大切にしたいと思う私は未熟者だろうか。
慣れないな、やはり。
心に空いた穴が潰せなくて項垂れた時、背後で物音がした。
「おかえり」
驚いたせいで、身体が大袈裟に跳ねた。
恐る恐る、いや期待を込めて振り返ると、リビングの扉の向こうに息子が立っていた。
「電気ついたままだったから、帰ってくると思ってた」
あんたと年越ししたい人間なんて母さん以外いないだろうしと、膨れっ面を見せる息子が苛立ったように言った。
私を一瞥した息子が、その視線をリビングに向ける。
「あと五分しかないから、お湯入れておいた」
「お湯?」
「絶対行事なんだろ、蕎麦を食うのは」
ぷいっと顔を背けた息子が、リビングの奥へ姿を消した。
なぜわかった、私が毎年、蕎麦を楽しみにしていたことを。どうして知っているんだ、蕎麦を食わないと年が越せない、絶対行事だと偉そうに語っていたことを。
私が寝ている内に平らげられていた一人分の年越し蕎麦。それを食している間におまえたちは、どんな話をしていた?
スニーカーを脱ぎ捨て、身体を反転させる。日本酒の入ったビニール袋を置き忘れていることに気がついたが、そんなことはもうどうでもよかった。
明るい光が溢れるリビングへと走る。年甲斐もなくスキップのように足が踊って、扉を抜けると温気が顔にぶつかった。
「やべー、これ、三分だった」
舌打ちをする息子の手元、テーブルの上にはインスタントのカップそばがあった。
面白いCMでお馴染みの、お湯を注いで数分で食べることが出来る即席カップ麺シリーズのそばバージョン。
息子が触れようとするカップ麺の隙間から微かに湯気が漏れていて、思わず身を乗り出した。
「火傷するから触るな!」
私の怒鳴り声に、息子の肩が大きく跳ねた。
しまったと思ってすぐに、取り繕うように、カップ麺が置かれたテーブルに近寄る。
「危ないから……父さんに任せろ」
熱い蓋に気を取られていたせいで、その時の息子の表情はわからない。だけど「プッ」と小さな笑い声みたいなものが聞こえてきて途端、胸が熱くなった。
ゆっくり、ゆっくりと……蓋を開けると出汁の匂いが鼻をくすぐって、思わず唾を飲み込んだ。
「こっちは大丈夫だから、おまえは箸を用意してくれ」
息子はうんともすんとも言わず、食器棚から二人分の箸を取り出した。使い慣れた私の箸と、たまにしか使われていないであろう息子の箸。
慣れた手つきで向かい合った席に箸を並べた息子が、自分の席へ腰を下ろした。
まるでずっと、この家で暮らしていたかのように。
『ふざけんなよ、くそジジイ!』と暴言を吐いて出て行った、五年間などなかったかのように。
何分前にお湯を入れたのだろう。
お湯に溶けてでろでろになったかき揚げ。
「いただきます」と手を合わせると、ワンテンポ遅れて息子も同じ動作をした。
二人同時に、カップに箸を突っ込む。
ズズッ……
汁を啜る音はどちらが発したものか。
箸を椀に突っ込んだまま汁を飲むな、と妻に散々叱られた。こればかりは私も息子も直らなかったらしい。
顔を上げると息子と目線がぶつかって、慌てて互いに視線を外した。
「わからなかったんだよ……」
息子の言葉に、私は麺を箸で掴みながら耳だけ傾ける。
「年越し蕎麦、どこに売ってんのかわからなくて。たまたまこれが目について……悪かったな」
何を謝っているのだろうと思ったが、生麺の蕎麦を買えなかったことだろうと判断して麺を飲み込んだ。
去年食べた蕎麦よりも乾いた、粉っぽさのない細い麺。
「同じことを言っていた」
私の言葉に、息子が首を傾げる。
かわいらしい、子どものような仕草で。
「結婚して最初の年末年始にあいつ、年越し蕎麦を買うのを忘れていたんだ。慌てて買いに行ったけどわからなかったみたいで……」
ごめんなさいと下を向く妻の身体が小さく見えて、「もういいから」と熱々の器を手に取った。
いい思い出になったな。我が家の最初の年越し蕎麦はこれだ。いつかまた、年越しカップそばを一緒に食べよう。
曖昧に頷いた妻との約束は果たせず、彼女はこの世を去った。
かき揚げがへばりついた麺を頬張る。
うまく飲み込めなくて汁を飲んだら、余計喉が苦しくなった。
咳を一つして息子を見ると、なぜか、その顔が滲んでいた。
「うまいなぁ……懐かしい、最初の味だ」
汗が頬を伝っているみたいだ。だらだらと、大量の汗が頬を伝ってテーブルの上に落ちる。
邪魔だと思って目元を拭って、再び蕎麦に集中した。
あぁ、そうだ、あの時も、妻は時間を大幅にオーバーしたカップそばを私に食わせてきた。
『あらこれ、三分なの? お蕎麦は長時間茹でるものだと思ってたわ』などと、かわいらしい言いわけを述べながら。
あの日と同じ、三十年越しの年越し蕎麦だ。
「俺にとっては、五年ぶりだよ」
息子の言葉に、今度は私が首を傾げる。
「五年前、この家を出て行って最初の年越しの時、母さん俺の蕎麦は用意してなくて、これにお湯を入れてくれたんだ。わが家の最初の年越し蕎麦よ、って……あれ、そういう意味だったのか」
深く息を吐いた息子が、器の中に箸を入れる。
箸の先端で掻き回しているせいでかき揚げがぐちゃぐちゃになっているが、「やめなさい」と注意してくれる人はもういないのだ。
しばらくして手を止めた息子が、大きく息を吐いてまた話を始めた。
「今度はお父さんも一緒に食べましょうねって……悪かったな」
そう言って下を向く息子の身体が、やけに小さく見えた。
まるであの日のように、最初の年越し蕎麦を食べた時の妻のように。
「いいんだ、もういいんだ。それより早く食べるぞ、麺が伸びる」
謝るべきなのだろう、私も。
だけど難しい……下手に年を重ねてしまった。
誰かと仲直りすることが、頭を下げることがこんなに難しいとは。
嫌われたくないなんて感情が、この歳になって蘇るなんて。
「いや、えっと……」
「あのさ、……えっと……」
息子が私の言葉を遮った。
目があったので「お先にどうぞ」の意味で顎をしゃくると、唇を噛んだ息子が私から視線を外した。
おまえが先に言え、と言ったと思われたのだろうか。そんなつもりはないのだが、やはり難しいな。
えらいな、おまえは。
嫌な感情を飲み込んで、話を進めようとしている。
そうだ、感情的になってはあの日の二の舞だ。冷静に話をすることの大切さを、私の知らないところでちゃんと学んでいたのだな。
「悪かったな」
ぽそっと呟いた私の言葉は、息子の耳には届いていなかったらしい。あまりにも小さな声だったから、聞こえていなくて当然だろう。
息子の眉間の皺が取れた。
一呼吸して私に向き直り、だけどやはり顔を背けてしどろもどろに声を出す。何を言っているかよくわからなかったが最後の単語だけ、妙にはっきりと聞こえた。
時計を見ると短い針と長い針が重なっていた。
息子が言ったのと同じ言葉を使って、六年ぶりの挨拶を交わしあう。
「あけましておめでとう」
やはり互いに気恥ずかしくなって、同時に汁をすする。
美味しそうな音が、リビングに響いた。
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